217 心の重荷を降ろそう

 聖書箇所[テサロニケ人への第一の手紙5章9ー22節] 

 アブラハム・リンカーンがこう言っています。「人は自分が望む分だけ幸せになれる」彼の人生を知る人には重みのある一言です。彼は婚約者に死なれたり、事業に失敗したり、選挙に落選したりと実に多くの辛いことを経験して来ているから。さて、幸せは自分で選べる、ということが真実なら、なぜ不幸を嘆く人がこんなにも多いのでしょうか。それには理由があります。しかもすでに話してしまいました。つまりそういう人は不幸とうつを自ら選んだのです。今回のテーマはうつです。ただしうつ病ではありません。まずうつの症状を見ましょう。

1 悲しい感情に捕われる。
 ふさぎ込み、顔には悲しみが漂います。人前で隠そうとしても周囲からはそれと分かります。

2 辛い思考に捕われる。
 二種類あり、一つは自分を責めること。何かの出来事に関連して「これは私が悪かったんだ。私の責任だ!」とずうーっと自分を責め続けるのです。もう一つは、すべての責任を周囲や他者に求めるものです。「○○さんが悪い!」というふうに。いずれも袋小路ですから、辛いのです。自分を責めてもそのことはすでに終わったことですから、それを受け入れるしか方法はありません。でもそうはしないのです。他者に「責任を取れ!」と言ったって、あるいは「変われ!」と言ったってそうは簡単には応じてはくれません。だから袋小路です。

3 身体不調に捕われる。
 睡眠障害になったり、下痢、便秘、頭痛に苦しみます。

4 不安と興奮に捕われる。
 普段よりも強い不安に襲われ、いらいらします。周囲に当り散らします。パニックになったり、興奮状態が起きます。

5 妄想に捕われる。
 二種類あります。一つは被害妄想。「私はこんなひどい目に会わされた!」という具合。もう一つは誇大妄想。「私にだけ神は語る!」などなど。

 中にはうつを演じる場合もあります。なぜ?周囲の人々を自分の自由に操るためです。演技性人格障害と呼び、女性に多いのですが、この演技性うつの例はこのようなものです。うつの人はよく「死にたい!死にたい!」と言いますが、ある主婦が夕方6時に多量の睡眠薬を飲みました。なぜこの時刻か分かりますか?夫が6時半に帰宅するからです(予定通り帰宅しない場合には実際に自殺が成功してしまうことになります)。こうやって夫を自分の思い通りに操ろうとしているのです。さて、今からうつからの解放の手立てについて話しますが、次の三つを了解してください。そうでないとそれに続く提案はあなたにとって無駄な話であり、かつ無駄な時間を過すことでしょう。

1 だれでもうつになる。そうです。うつになっても引け目を感じることはありません。だれでもかかりうるのです。人間は弱い からです。罪を持っていて、その人間の作りが完全ではないからです。

2 うつは直る。私たちには治療マニュアルとして聖書が神さまから与えられています。その具体的な内容は以降で説明します。

 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

3 うつになった人がカウンセラーなどに相談すると、その提案に対して「できません!」と答えます。これはやめなければなりません。正しくは「しない!」です。「できない」というのは事実ではありません。ゆえに事実と向き合っていません。事実は「しない」です。これをあなたが認める時、以降の提案はあなたをうつから脱出させるのに有効に働くでしょう。

毎日感謝して生活する[18]

 「ありがとう!」と、いつも言いながら生活することです。あなたはいかがですか。「私を迎えてくれる家庭が私にはある。ありがとう!」「私には勤め先が与えられている。ありがとう!」「私は主イエスさまを信じることができた。ありがたい」「私には健康が、友人がある。ありがとう!」すべてのことに関して「ありがとう!」の精神。うつの原因って何でしょうか?遺伝子?イエス、それともノー?もし遺伝子が決定しているとするなら、大きな疑問が残ります。あなたはロボット。ロボットは人格を持ちません。人格が人格である条件は自由意志が備わっていること。選択の自由が与えられていること。ロボットには選択の自由はありません。もし私のうつは遺伝子のせいだと言うのなら、運命論であり、決定論であり、聖書の考えではありません。確かに「三つ子の魂、百までも」と言い、ある学者は人間の持つ行動パターンや態度のプログラムの85%は6才までに決る、と言います。でも人生や人間の作りのすべてが決るわけではありません。人間はロボットとして造られたわけではないからです。ということはうつになってもそれは立ち直ることができるということを教えています。そのためには感謝することが必要です。聖書には多くのうつになった人が登場しますが、ダビデはその一人です。彼は感謝して立ち直りました。

 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139:13-16)

 ではどのようにしたら、感謝ができるようになるのでしょうか。それは、そう決心すること。決心すればいいのです。「私は今日から、今から、どんなことにも『ありがとう!』と常に言うようにします」と。

毎日黙想し、祈る時間を持つ[21,22]

 ペンフィールドの有名な実験があります。患者さんの了解をとって、脳に電極をあちらこちらに刺します。すると普段忘れていた昔のことを思い出すのです。部所により、何を思い出すかは異なるのですが、二つのことを思い出します。出来事とその時の感情。つまり私たちは生まれてからすべてのことを脳に記憶しているのです。特殊な操作をしない限り、それはそのまま残っています。ちょうどコンピューターのハードディスクのようなものです。作られたすべてのファイルは記録されたまま残ります。たとえゴミ箱に投じても消えてはいません。表面上消えたように見えてもハードディスクの中にしっかりと残っています。特殊な操作を、と先に書きましたが、オウム真理教がかつてした(もちろん彼らがしたことは不法であり、倫理的にもゆるされないことです)ように消去の方法はあります。コンピューター向けには消去ソフトがあります。これを使えばすべて消去できます。こういうソフトが私たちの脳には通常は使われることはありませんので、すべての記憶は残されています。ただ、意識の奥の世界に隠されているだけです。さて、黙想することをお勧めしましたが、その理由は自分の思考や行動パターンを評価するためです。ある事実や出来事に直面した時に、あるいは人と出会った時にどのような対応をするかをチェックするのです。そうして良くない、あるいは不適切な部分があれば、訂正、修理、変更を加えなければなりません。そのような相談を神さまとすることが祈りです。そういう行程において心に強い痛みを経験することはよくあります。痛みの原因は三つあります。

 1 自己否定。
   何かことがあった場合に、「私が全部悪い!」という思いに捕われた場合です。「そういう悪いことをする私の存在は否定されなければならない」とまで考えてしまいます。自己否定は間違った考えです。

 2 他者による否定。
   人間関係で悩む人は多いのですが、他者から「私は拒絶された!」と思い悩む場合です。

 3 神(あるいは運命)による拒否。
   こんなことはあり得ないのですが、気持ちが沈んでいるときには「私は悪い星のもとに生まれた……あーあ」というふうについ反応してしまう人は少なくありません。

 もしあなたが黙想している中で、悪い部分が発見されたならば、それを修理しなければなりません。それには方法があります。上書きすればいいのです。ビデオテープや各種ディスクへの取扱いと同様です。上書きすれば以前の情報は消去されてしまいます。ではどんな情報を新たに上書きすればいいのでしょうか。それはみことば。あなたを励ますみことばを集めてください。

 たとえば、次のようなものはいかがでしょうか。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

 ちなみに私の好きなみことばは

 あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄える(ヨシュア1:7)

毎日怒りを解消する[14]

 あなたは今怒ってませんか?イエスでもノーでも課題はありますよ。ところでうつの根は何でしょうか。うつの根は深いのです。それは抑圧された、蓄積された怒り、です。40才の時にはじめてうつになった人はきっと4才の時に根があったのです。30才の人は3才。長い間の抑圧された怒りのせいです。どういう人がうつになりやすいでしょうか。性格的には完全主義者、A型などと言われますが、職業的には医者、弁護士、技術者など専門職であり、牧師も含まれます。つまりうつになりやすい人って「いい子」です。「いい子、悪い子、普通の子」の中の「いい子」です。あなたは「いい子」ですか。「いい子」は怒りを抑圧しています。ある男性が昇進を期待していたのですが、裏切られ、それをきっかけに(注:原因ではありませんよ)うつになってカウンセラーのもとにかけつけました。「あなたは怒っていますか?」という質問に、彼は「いいえ、私は3才の頃から怒ったことはありません」と答えました。怒りについてクリスチャンの間にも誤解があります。つまり怒ることを罪であると理解しているのです。

 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。(エペソ4:26)

 イスラエルの文化では夕方が新しい一日の始まりですから、これは現代の日本では夜中の12時であると考えられます。この時刻を越えて怒っていれば、あなたは罪を犯したのです。でも怒るだけでは必ずしも罪ではありません。

 以上のような、自分の中の誤解を解き、その上でもし罪を他に犯しているなら(たとえば他者を赦していないとか)それを悔い改め、その日のうちにすべての怒りを解消するようにしましょう。

毎日親しい人たちと過す[11-15]

 これはすばらしいことです。なぜって、愛をもらえる、心も軽くなる、リラックスもできます。すばらしいことだらけ。ただし親しい人というのが条件です。私たちは友人を選ばなければなりません。

 知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言13:20)

 香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。(同27:9)

 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(同17)

 害ではなく益を与えてくれる友人、あなたの心を悲しませるのでなく悦ばせてくれる友人、あなたを傷つけるのではなく磨いてくれる友人をあなたは選ばなければなりません。あなたは大切な大切な神の子であるから。友人を得るこつは一人の人に多くを求めないこと、完全を求めないこと。たとえ親でも完全ではありません。ミニスカートをはいている娘を「短かすぎる!」と叱った母親がいました。「あなたのために言っているの」とは言うものの、実はこの母親、自分の若い頃にミニスカートをはきたかったのにはけなかったのです。母親だから、完璧に愛するということはありません。だれしも人間は罪を犯し、弱さを持っていることを認めなければなりません。人間はたとえ自分の娘や息子であっても妬んだりするのです。人間のすることに完璧はありません。10%の良いところがあれば満足すべきです。こういう心構えであれば実に多くの人を友人にすることができるでしょう。良い友人に囲まれていることはほんとうに気持ちの良いものです。

毎日悦ぶ[16]

 どのようにすれば楽しい人間関係が作れるのかと言う質問があります。良い人と出会えばいいのでしょうか。そうではありません。自分が悦んでいることがまず必要です。あなただって悦んでいる人のもとへ近づきたくなるでしょう、ぶすーっとしている人や苦虫を噛み潰した顔をしている人のもとへよりも。楽しく生きることが重要です。あなたは一人で楽しめますか。これは大切な質問です。物事には順序があります。まず自分一人で楽しむこと。楽しめること。絵を描く、音楽を聴く、詩を書く、水泳をするなどなど。子育てがつまらないと嘆く人は自分の楽しみがみつけられない人です。喜びはやる気と意欲のエネルギー源。あなたはあなたのしたいことをすべきです。そのことにより悦びが出て来たらますますやる気が出て来ます。するとその悦びを分かち合いたくなりますが、ちょうどその時には誰かがあなたに近づいて来ています。こうして悦びの相乗効果が生じます。私もうれしい、あなたもうれしい、となります。悦んでいる人は自分に誇りと自信を持っています。その余裕は心から他の人を助けたいなあーという思いを起こさせます。もしそうなら、毎週一回くらいは他の人のために良いことをしてもいいのでは。いや、もうあなたはすでにしているはずです。最後に蛇足ながらどうしたら毎日悦ぶことができるかを考えましょう。それは、それはですね。決死の覚悟が必要です。私は「私は毎日何が何でも悦んで生活する」という決意をしています。「私はだれにも私の悦びを邪魔させない」という強い決意で生活しています。そうです。いかなる人間も他者の幸せを奪う権利はないのです。そんなことは当り前、とあなたは言うかも知れませんが、そうでもないのですよ。意外に無神経に他の人の幸せを壊して平気、良い気分を壊して平気と言う人がいるのです。そういわれて、あなたも思い当たるのでは。そうです。無神経な人が世の中にはいるものです。無制限に他の人の時間を垂れ流している人や、心を傷つけるようなことばを発して平気な顔をしている人が。私たちはそのようなことをされることを拒否すべきです。他の人を傷つけることなどすべきではありません。主イエスさまの十字架は「私を傷つけなさい、ただし他のいかなる人をも傷つけてはいけませんよ」という意味ではありませんか。そうしてこれを信じ受け入れることが真の信仰ではありませんか。信じることは命がけでなければなりません。だから「私は決死の覚悟で毎日悦んで生活する、だれにも私の悦ぶ生活を邪魔させはしない」とあなたは覚悟しなければならないのです。