219 男の役割、女の役割

  聖書箇所[創世記2章18ー25節、3章10節] 

 今回は表題通りのテーマでお話しましょう。人間には2種類しかありません。それはそのまま神さまの理想を表現しています。一種類でもいけないし、三種類でも良くないのです。さて、本論に入る前に二つのことを確認していただきたいのです。一つは夫婦だけに限定した内容ではありません。もう一つは男と女の役割と言っても重なる部分もあります。一個の羊羹を包丁で二つにきれいに切るというふうなことはできません。それは読み進めて行くうちにお分かりになるでしょう、その理由が。まずはレディ−ファーストで女性から。

女性としてーー創造主と協力して、生命を産み出す

 生命とは何でしょうね。それはあたたかさ。赤ちゃんが生まれた!家族中で大騒ぎ。あちらこちらに電話をしまくって、おめでとう!の大合唱。だれもが喜んでいます。ほほえみややさしさが共鳴し、こだまします。女性の役割はこのようなあたたかさ、明るさを産み出し、社会に提供することです。私は教会の電話番は女性が良いと提唱しています。男のどら声で、「はい!勝利教会です」と応答されても、教会に行きたい気持ちになるかどうか。会社ではほとんどが女性の電話番であり、会社の顔である受付も女性が担当しています。私たちは知っているのです、女性の持つ、このようなすばらしい面を。さて、善悪を知る木の実を食べる前までは女性は女、すなわちイシャーと呼ばれていますが、食べた後は個人的な名前をもらいます。それがハヴァです。もちろんこれはヘブル語。ラテン語ではエヴァ、それが英語になってイーヴ。ハヴァの本来の意味は生かす者、あるいは生命を与える者。

 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。(3:20)

 堕落にこだわって過去指向に陥るのではなく、未来指向で神さまは命名なさいました。罪に汚され、暗い気持ちにならざるを得ない私たちを励まそうという神さまのご配慮です。さて、あたたかさを産むものは笑い。オランダの心理学者ハイマンスは女性の長所の一つとして笑いやすさを上げています。あなたは、女性?あなたはよく笑いますか?ぜひたくさん笑ってください。笑いのあるところ、あたたかさがあります。家庭でも職場でも、教会でも、どこでも社会をあたたかくするのは女性です。あたたかさはそこにいる人々の心をいやし、安心させ、人間関係を豊かにします。そのためには内面を磨いて行きましょう。表面的なあたたかさや笑いではなくて、本物を提供して行くために。

 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。(Tペテロ3:1-6)

 内面を磨く方法は二つ。一つは祈り、聖書を読むこと。あなたはなぜ祈り、聖書を読むのですか。聖書は著作物であり、著者の作品。作品は著者の人格を含み、いや人格そのものとさえ言えます。あなたが聖書を読むとき、あなたは神さまのご人格と触れあっています。昔から「朱に交われば朱くなる」と言うではありませんか。あなたは日々主イエスさま、そして父なる神さまのご人格の影響を受けるのです。なんとすばらしいことではありませんか。祈りも同様です。私たちはできるだけ良い人と交際すべきです。自分が良い影響を受けるためです。自分を神さまの大切な財産とあなたがお考えならそうなさることをお勧めします。すばらしく変えられた女性としてのあなたは周囲の男性や人々にかけがえのない、この世にはない、本物のあたたかさを提供します。もう1つは良いものを聞き、見ることをお勧めします。自分に向けての情操教育です。

 チャールズ・ディケンズは『デビッド・カッパーフィールド』の中でアドニスという名の女性を登場させて、彼女には『天使のような性質』があると表現しています。『天使のような性質』とは、「女性を敬う気持ちを男性に起こさせ、男性に安らぎと幸せをもたらす」ものです。女性としてのあなたにはこのようなものが本来備わっているのです。

男性としてーー理念を掲げて女性と人々とに夢と希望を与える

 勝利教会にも当然理念があります。どのチャペルにも玄関近くに額縁に入れて目に入りやすく掲げています。理念とは何か?それは自己紹介。できるだけ自分を正確に知らせようとするのは良いことではないでしょうか。知りたい方は以下を参照してください。
             http://www5d.biglobe.ne.jp/~vcg/sub2.1

 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた……(2:19-20)

 ここではアダムが生き物に名前を付けている場面です。学者により数字は異なりますが、地球上に80万ー300万種存在すると言われています。トラ、イヌ、ネコ、ヒツジ……、とアダムは命名して行きました。これは大変な能力です。私たちは自分に産まれた一人の子どもに名をつけることでさえ苦労します。さて、名前はヘブル語ではシェム。その場所に「立つ」という意味が含まれています。したがって名前は理念であるということが言えます。

 アレックス・ヘイリーの『ルーツ』を覚えておいででしょうか。アフリカ・マンヂンガ生まれのクンタ・キンテが主人公です。奴隷狩りでアメリカに連れて来られ、クンタを購入した主人が鞭を持って彼の前にいます。主人は彼にトビーと言う名を付け、「お前の名は何だ?」と聞きます。「私の名はク ン タ ・ キ ン テ」そう答える度に鞭がしなります。主人はトビーと言わせたいのです。でも決して、何度聞かれても、何度鞭打たれても「私の名はク ン タ ・ キ ン テ」と答えます。トビーは奴隷狩りを正しいことと考える(これは理念であると言えます)欧米の世界の名前です。彼の人間性を奪う理念を彼は承認できるはずもありません。名前は呼ばれた者を支配します。親は子に名を付けます。その名前には期待が込められています。「愛」ーー愛のある人間になってほしい。「献」ーー神さまにささげた人生を生きてほしい、などなど。期待は強く表現すれば支配、あたたかく表現すれば期待。いずれにしても影響力が大きいことは私たちには分かります。期待であると理解して夢と希望を得ることができるなら最高です。真の理念は私たちに夢と希望を与えてくれるものです。「私は期待されている!」という思いを持たせてくれるのです。では真の理念はどのようにして得られるのでしょうか。それは神さまからいただかねばなりません。勝手に自分で作ってはいけません。私たちは罪人であって、エゴイズムが混入することが避けられないからです。あなたがもし男性ならどのようなものを理念として持てるでしょうか。あなたの家族に対して、あなたの教会に対して、そしてあなたの職場に対して。参考になるお話をしましょう。エジプトでのお話です。三人の人夫が重い石を運んでいました。一人の旅人が通りがかり、尋ねました。

一人目「あなたは何をしているのですか?」「見れば、分かるでしょ!重くて重くてたまらないッ!ア−ア」

二人目「あなたは何をしているのですか?」「あそこに建物が見えるでしょう。建てているんですよ!それにしても重いなあー」

三人目「あなたは何をしているのですか?」「私は、エジプト文明を建設しているのです!」

 もちろん三人目が理念を表しています。

人としてーー互いの違いを認める

 互いの違いを認めると、すばらしいことをあなたは経験できますよ。何を?ですって!それはストレスがないッ!そうなんです。毎日の生活でストレスが、正確には極めて少なくなるのです。ストレスの溜まる原因の第一はこういうものです。「あなたはなぜ私の思う通りに動いてくれないの?」「あなたはなぜ私のイメージ通りの人でないの?」と思い、なんとかして、自分の思い通りの人に作り替えようとします。でも人は変わらない、そうですね。自分が変えられようとしていると理解したときにはどう対応するかを考えて見てください。「意地でも変えられるもんかッ!」という気持ちになるのではないでしょうか。これが人間としいうものです。「私は私、あなたはあなた。私は良いものを持っているし、あなたも良いものを持っていますね。お互いに良かったですね」こう言えたらいいのです。教会同士も、教派同士も、神学同士もそのように肯定的に評価すればいいのです。ちょうど日本料理に、うどん料理、そば料理、懐石料理などなど、さまざまですね。中国料理だって、四川料理、広東料理、上海料理とさまざまです。どちらが正しいという話ではありません。どれもキリスト教、ならば、互いに受け入れるのがいいのです。違いは特徴、特質であって、いずれも長所を含んでいます。私はどのような教派をも、どのような教会をも尊敬しています。それぞれ得意のものを持ち寄って日本宣教に邁進できればいいではありませんか。異質を許容すること。なんとすばらしいことではありませんか。ところで最初の人、アダム。彼の中に、男も女もいました。

 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(2:20-24)

 こうして男性の中に女性性が存在し、女性の中に男性性が存在することが分かります。女性性と男性性、異質なものでありながら、出所は一つ。一旦分かれましたが、やがて神さまのみこころのときに出会う。これが異質なものとの出会い。なんとロマンチック。学校時代、習いましたね。H原子二つと酸素原子一つを足して、まったく異なる性質の水が生まれる、ということを。異質なものとの出会いは新しい、かつすばらしいものを産み出します。結婚はその一つの姿です。出会うべき人に出会った、以前分かれた人に会った、という意味で画期的な出来事ですね。さて、このようにして考えて来ると私たちは出会いについて、神さまのご配慮に感謝しなければなりません。私たちは互いに「あなたに会えて、うれしい!ありがとう!」と言わなければなりません。ちなみにここでも神さまは私たちにとって模範です。神さまにとって、私たち人間くらい異質なものはありません、特にその聖さにおいて。対極にあるのが人間。でもこれを神さまは受け入れてくださいました。なんとありがたいことでしょう。お仲人さんは主イエスさま。主イエスさまも大変でした、そのお仕事は。でもその大変なお仕事のゆえにあなたには救いが与えられたのですね。ハレルヤ!