221 受難週に見るイエスの愛

  聖書箇所[マタイの福音書21ー27章] 

 イエスさまが十字架で亡くなる日を含んだ一週間を受難週と呼びますが、今回は受難週を過すにあたり、イエスさまからあなたに向けての愛に注目しましょう。

日曜日[21:1-11]

 注目すべき出来事はイエスさまのエルサレム入城です。ロバに乗って、でした。ロバとは何の象徴でしょうか。それは平和。私たちは仲良く付き合って行きたいものですね。いつでもどこでも。あなたの家庭は平和ですか?夫婦の関係や親子の関係、そうして親戚付き合いや友人とのつきあい。そうです、人間関係はいかがでしょうか?世界ではきな臭い匂いが絶えることがありません。互いに尊敬ができるといいのです。尊敬することこそが平和のための処方箋です。でも難しい。心に余裕がないのです。サタンの影響とも言えます。スリランカにこういう言い方があります。「孤独な人に悪魔がつく。でも温かいまなざしを互いに向けるとき、悪魔は来ない」確かに私たちはその弱さのゆえに孤独が長いと否定的になりやすいのです。被害妄想的になりやすいのです。「私ばっかり、こんな目に遭う」「どうしてこんなことが私に起きるの?!どうしてあの人にではないの?」「いったいこんな状況、いつまで続くの?」などなど。なんと否定的、でしょうか。サタンは物理的には働きかけることはしません。心の中に誘います。誘惑されると、私たちはつい「うん、そうだ」とつい否定的な思いに賛成してしまいます。こういう心が叫ばせるセリフがこうです。「あの人が悪い、うん、そうだ。あの人がああしなければこんなことにはならなかった!」平和はこのようにして破壊されて行きます。イエスさまを心の中心に迎えましょう。端っこではなく。「主イエスさま、歓迎しまーす」と言いましょう。あなたの心の中はポカポカ。これがあなたにやさしい、愛のある態度を作ってくれます。心が温かいと目も温かい。心が冷たいと顔が笑っていても目は笑わないのです。私たちはそのことに気がつくはずです。温かい心はだれにでも人気があります。人気のある人は人間関係の達人!平和がここにあります。主イエスさまをあなたの心の中心に迎えましょう。

月曜日[21:12-17]

 注目すべき出来事は宮きよめです。どうか主イエスさまの行動を誤解しないでください。商売やビジネスを批判なさったのではありません。これらは私たちの社会生活に立派に貢献する正当な経済行為です。主イエスさまがお怒りになった理由は別にあります。当時神殿に犠牲の動物を携えてやって来ると、条件を満たしているか調査がされました。傷があってはいけないからです。でも調査官は爪等で気付かれないように傷つけるのです。もちろん犠牲の動物としては不合格になります。その場合、高価な購入すべき動物が調査官たちによってすでに用意されていました。また神殿に献金する場合にはそのための特別の通貨が容易されていましたが、交換レートがべらぼうなのです。特に貧しい人々には痛手であったのです。主イエスさまはこのような事情でお怒りになったのです。宮、すなわち神殿が、神の家が汚れていると。真に神さまの前に出ることを礼拝と言います。今私たちには礼拝の態度が問われています。聖さが求められています。ではそれはいったどのようなものなのでしょうか。真に聖い礼拝をささげるとはどのようなことなのでしょうか。次の聖句を見てください。

 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)

 そうです、謙虚な心と思い、です。これをささげねばなりません。でも相当普段から意識していないとつい高慢になります。プライドの非常に高い二人の医学生が病院の廊下を歩いていました。ちょうど向うから患者さんらしい人が額に汗、そして顔をゆがめながら、からだもよじりながら近づいて来ます。一方の学生が言いました。「私の所見では、彼はリウマチだ!絶対に間違いないッ」もう一人の学生が「いやいや、あの症状は胆石だ、絶対にこれはあたっているはずだッ」やがて目の前に来た、その人は二人にこう尋ねました。「すみません。トイレはどこですか?」私たちは自分の判断を過信しないようにしなければなりません。謙虚でなければなりません。

火曜日[21:18-[26:5]

 注目すべき出来事はイエスさまが「神の国がやって来る」とメッセージなさったこと。一方パリサイ人たちや律法学者たちは人の欠点や弱点をつくことに忙しい。彼らは人々に対して決して未来に希望や夢を語らない。主イエスさまの心にはやさしさがあり、「あなたは報われますよ、あなたのして来たことは神さまはしっかりと見てくださっていますよ。あなたの未来には祝福が待っていますよ」という気持ちが明らかです。信仰とは何でしょうか。それは夢!希望!

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。(ヘブル11:1)

 あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。(詩篇81:10)

 私たちはお互いにこう言うべきです。「できる!」「そうだ、やってみよう!」「もう一回!」「きっと成功する、祝福される!」

 常に夢を追いかけるべきです。これがクリスチャンの正しい生き方です。

水曜日[26:6-16]

 注目すべき出来事はある女性が埋葬の用意をしてくれたこと。非常に高価な油をイエスさまのために費いました。これにはすばらしいメッセージが含まれています。「あなたは古い自分を埋葬してください。新しくしてください」というものです。イエスさまは言われます「私がそれを手伝いましょう」では古い自分って何でしょうか。それはエゴイズム。人への思いやりのなさを持った自分。彼女が高価な油を費ったときに、弟子たちは何と言ったのでしょうか。

 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」(26:8-9)

 貧乏な人たちのために、とはなんとすばらしい言い方でしょうか。大義名分としては100点。でも私たちはイスカリオテのユダに代表されるように弟子たちの真の心を知っています。実はその大義名分は嘘をカモフラージュするためのもので真の理由は自分たちのふところに入れるためでした。決して貧しい人たちのことを考えていたわけではありません。いや、考えてはいました、利用しようとして。エゴイズムとはこのようなものです。私たち罪人の弱さとは隠れた動機を持ち立派な大義名分でそれをカモフラージュしようとすることです。今私たちはそういう真の自分の姿や心を認めて悔い改めて新しい人になろうではありませんか。それにはイエスさまの愛を自分の中に確信することです。愛こそが真実の扉を開きます。

木曜日[26:17-75]

 注目すべき出来事はイエスさまのゲツセマネにおける祈りです。ここで一つのすばらしい祈りを見ることができます。それはこうです。

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(26:39,42)

 「みこころのとおりをなさってください」がそれです。私たちは祈るとき、「あれをください、これをください」と言います。悪いことではありません。ただし上の言い方も採用すべきです。なぜ?あなたの信じる神さまは頭脳の優れたかた、善意と愛に溢れた方だから。ゆえに最後は常にハッピーエンド。あなたはこれを信じますか?

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

 でも苦しみは苦しみ。確かに苦しい。あなたにも経験があるでしょう。「ほんとうに辛かった、あの時ッ」と思い出すことが。でもその苦しみが今日のあなたを産んだのです。思いやりのあるあなたを。世界はそのような人を求めています、どういう種類の人を?口先だけではない、真に思いやりのある人を。今、神さまはあなたのような苦しみの中で自分を磨いて来た人を必要な人の近くに置くのです。あなたは期待されています。だからあなたはそこにいます。さあ、あたりを見回してください。あなたによる慰めを必要としている人がいるのではありませんか。どうか苦しみの時、「私は神さまから愛されている、私は期待されている」と信じてください。

 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:7-11)

金ー土曜日[27:1-66]

 注目すべき出来事はもちろん十字架上の死とそれ以前のお姿。ピラトはイエスさまに関して罪がないと認めています。でも十字架刑に処せられました。午前9時から午後3時までの6時間。みなさんと私の罪をすべて引き受けて。さて、ここで私たちは何を心に留めるべきでしょうか。

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:4-5)

 私たちは救われました。それはイエスさまが苦しんでくださったから。これです、重要なことは。「あー、とっても気持ち良かったあー」と叫ぶ人がいる時、その陰でそのために苦労しれくれた人がいるのです。おいしい食事をいただく時、作ってくれた人の顔を忘れてはいけません。材料を買い出しに行ってくれたこと、味付けに注意を払ってくれたこと、温かいうちに食べてもらおうと配慮してくれたことなどなど。このような配慮がされてこそおいしい食事はできるのです。あなたが救われたのはイエスさまが苦しんだおかげ。私たちはこのことに気付くとするならば、今度は自分が他者のために縁の下の力持ちになろうとするのではないでしょうか。少なくともそのように考えるのは美しいことではないでしょうか。愛が生きていると言えるのではないでしょうか。受難週に思いめぐらすことについて分かち合いました。