222 復活の証人たち

聖書箇所 [ヨハネの福音書20ー21章]

 今回はイエスさまのご復活について考察しましょう。理由についてはわかりませんが、人類にとって偉大な教師と呼ばれる人々がいまから2000ー3000年前に登場しております。ブッダ(紀元前566ー486)、孔子(紀元前561ー479)、ソクラテス(紀元前470?ー399)、イエス・キリスト(紀元1世紀)。この中で二人だけ全世界で突出しているのが、ブッダとキリストです。共通点は誕生日が祝われていること。でもクイズ。相違点は?きっと正しい解答をお持ちでしょう。一つあげれば、ブッダには遺骨(仏舎利)はありますが、イエス・キリストにはありません。そうです。よみがえられました。ところでよみがえり(復活)と生き返り(蘇生)とはどう違うのでしょうか。蘇生について説明しましょう。心臓や肺臓が一時機能停止しますと脳への血流が停止します。心マッサージや人工呼吸により、3分以内であれば脳血流は回復できますし、蘇生します。これは溺れたりした時によく見られます。しかし、脳血流の停止が3分を越えて、特に5分以上になると確実に不可逆の脳障害を起こして植物状態や脳死になります。前者はたまに回復例がありますが、やがてほとんどは死亡します。脳死も同様に不可逆であり通常5日以内に固体死に至ります。したがって蘇生とは脳死が起こる前の、3分前あるいは5分前に心マッサージか人工呼吸によって心肺機能を回復させて起きることです。イエス・キリストが蘇生したのであれば十字架の出来事のいずれかの時点で心肺機能が停止して後3分ー5分以内に心マッサージか人工呼吸かがなされる必要があります。もちろんそのようなことはなされませんでした。イエス・キリストは蘇生ではなく、ご復活なさったのです。今回はご復活なさったイエス・キリストに出会った人々の受けた恵みを共有しましょう。

マグダラのマリア[20:1--18]

 「イエスさまのお体がない!なんてこと!なぜ?どうして?だれかが持っていった?!」マリヤは心を混乱させたまま墓の前に立ちつくしていました。イエスさまが十字架に付けられて三日目、その日の早い朝でした。マグダラのマリヤ、イエスさまの弟子たちの中で、マリヤほどイエスさまを愛した者はいない、とだれもが認めるマリア。マリアに生きる貴び、慰め、そして力をくださったイエスさま、そのイエスさまが十字架で殺されてしまった。マリアはせめて、お墓の、そう、ご遺体のそばにでもいたい気持ちでした。なんと岩をくり貫いて作った墓の入口が開いたままになっていた。確か、大きな石でしっかりとふさいであったはずなのに。今はもうまるで不用品であるかのようにわきに転がしてある。番をしていたローマの兵士たちもいない。
 マリヤは商業の盛んな、また経済的に豊かなマグダラの町で育ちました。それは都エルサレムの北方ガリラヤ湖の西岸にありました。イエスさまは近くのカペナウムですでに名を響かせていたので、マリヤの耳にもそのうわさはすぐに届いていました。彼女は病んでいました。「あの女は七つの悪霊につかれているんだよ!気違いなんだよ」。人々の陰口は彼女の心を傷つけるばかり。実際、突如奇声を発したり、走り回ったり、みだらな振る舞いをしたり、そういうことがあった。でもだれにも彼女を癒すことはできなかった。それをイエスさまは癒された!彼女はふと我に帰り、今までに経験したことのない平安を感じた。「あっ、いま、私、ここにいる。私は私。そう、これが私。ありのままの私、そうこれでいいんだ」こう思うと、イエスさまがそのような思いにしてくださったのだが、彼女はうれしくてうれしくて涙が止まらなかった。「でも、あのイエスさまはもういない!あーあ……」。そんな悲しい思いにうちひしがれているとき、「マリヤ!」のお声。「マリヤですって!ああ、主はよみがえられた!」。マリアは再び、イエスさまと出会い、癒された時の感動を思い起こします。私たちは自分を肯定する生き方をしなければなりません。「私は私でいいんだ!」、「私は神さまから、社会から受け入れられ、歓迎されている!」と理解して生きなければなりません。十字架はその保証書です。自分を受け入れられない人が、自分を否定するばかりでなく、他者をいじめます。私たちは自分を肯定するような生き方をしなければなりません。そのために一つのヒントは愛の神さまに自分の名を呼んでいただくことです。練習しましょう。霊の耳を敏感にする練習です。あなたはご復活のイエスさまがあなたの名前を呼んでおられるのを聞くでしょう。ヨハネの福音書3章16、17節をお開き下さい。この中に「世」という語があります。これをあなたの名前に置き換えてください。さあ、やってみてください。

トマス[20:24-29]

 トマスはいらいらしていました。「いったいこの三年間は何だったのか」。というのは彼にはイエスさまに期待していたものがあり、それが見事に外れたからです。彼はイエスさまに軍事的政治的メシアという役割を期待していました。これは当時の一つの世論でもありました。支配者であるローマ帝国を軍事的に政治的にうち負かしてくれる期待が彼の中にありました。それを裏切ったイエスさまに対しては非難の気持ちと、甘い見通しを持った、ふがいない自分自身への責める思いが錯綜していました。ですからイエスさまが十字架にかけられた翌安息日は雲隠れしていました。ようやくもとの仲間たちに顔を見せたのは週の最初の日〈現在の日曜日)の夕方でした。ところがまたも彼を混乱させるようなことを経験させられます。「トマス、先生はよみがえられた!」「私たちはその先生にお目にかかったんだ」。「なにっ、よみがえられた!?そんな、そんなばかなことが……」。彼はこう言いました、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(20:25)。でもよみがえられたイエスさまはこのことばを聞いておられました。彼はとても言葉では言い表すことのできない恥ずかしさを感じました。でもなんというやさしさ、イエスさまは暖かい愛とともにこうおっしゃいます。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27)。伝説によると、トマスははるか遠くインドまで宣教に出かけたと言います。南インドのトマス教会はその実です。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とは今様に言えば、「夢を、ロマンを持ちなさい!」です。あなたはいかがですか。神さまから夢をロマンをいただいてください。元気になりますよ。そのための助言は三つあります。好きなことを、賜物を核に、そして他者もともに喜んでくれるものを選んでください。私も青春時代に悩みました。いったい、何を夢として生きたらいいのかと。あるとき会社でスキー旅行とか海水浴とかを計画しました。私が何から何までこなしました。24時間寝ないで大活躍。マイクロバスの運転手兼ガイド。眠くて眠くて帰り道はふらふらの運転でした。でも帰って来てからだれからも感謝されました。私の賜物は幹事をすることだと分かった瞬間でした。以降その種のことばかりに取り組んでいます。そして現在は牧師。なんとかして、人々に楽しんでもらえる教会、種々の楽しみがある教会、かつ自分の好きなものが選べる教会をあいことばに奮戦中!私が一番楽しんでいます。ほんとうにありがたい!

ペテロ[21:1-23]

 イエスさまが十字架にかけられた後、漁師に戻っていたペテロには、「一匹の魚もとれない。徹夜したのに……」と出てくるのはためいきばかり。そして「そうだ、あの日も、不漁だったなあー」と空を見上げた。あの日とはイエスさまと出会った日。でも思いだせば余計疲労感に襲われる。彼には罪責感も強く残っていました。イエスさまを裏切ったことから来る暗くて重い心でした。悔やんでも悔やみ切れない、大きな失敗をしてしまった。あのいまわしい夜、三度もイエスさまを知らないと言ってしまった。でもそういう心をイエスさまはご存じでした。優しいお方です。 実際、よみがえられたイエスさまは彼の前に現れてくださり、お声をかけてくださいました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」。三度も聞いてくださいました。三度目の時、「主よ、私はあなたを愛します」とペテロが言った時、彼の中に何かが弾けました。罪の意識。失敗者が持つ特有の敗残者意識。彼はこうして立ち直りました。私たちは人間である限り、罪を持ち、それゆえに弱さがあり、失敗をします。弱さがあるから罪も犯します。でもイエスさまはそれを責めるようなことはなさらない。よみがえられたイエスさまと出会うとき、私たちはペテロと同じように新しい自分を見い出すことが出来ます。私たちはどのようにしたらキリストと触れ合いことができるのでしょうか。マザー・テレサがそのためのヒントをくれます。

 貧しい人に触れる時、私たちは実際のキリストのおからだに触れているのです。私たちが食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは、飢えて、裸の、そして家なしのキリストに、なのです。

 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25:34-40)

 あなたが日常的に出会う、最も身近な人を愛する時、あなたはご復活のキリストに出会っています。