224 沈黙と奇跡

 聖書箇所[士師記4章] 

 今回は士師記から学びましょう。ページ数は少ないのですが、舞台となる時代は300年という長さにわたっています。この書物を読むと分かるのですが、一つのパターンが見られます。はじめにイスラエルが苦難に陥ります。そこで彼らは神さまに助けを求め、救助される、というものです。そういうパターンの典型の一つを今回は学びます。きっとあなたにも困難な時があるでしょう。あったかも知れないし、あるいは今そうなのかも知れません。4章に出て来る話を三つのキーワードで解きあかしましょう。

沈黙

 その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。エフデは死んでいた。それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた。彼は鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に叫び求めた。(1-3)

 20年間の苦難の始まりです。さすがにこの年数は長いですねえ。あなたはこの長さをどう思いますか。多くの人は20分だってごめんだ、と思うでしょうね、いやたったの2分だって。苦難の時、私たちはまるで神さまはいないかのようにさえ思ってしまいます。神は、他の人を助けはするけれども私を助けることはなさらない、などと考えることもあるでしょう。ゆえに沈黙、と呼びましょう。このような沈黙の時に、私たちはどのように考え、あるいはどのような態度を持ったらいいのでしょうか。続けて見ましょう。

 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。(4)

 女預言者デボラの登場です。日本語でさばいていた、という表現は強いのですが、指導していた、くらいに受けとめておいたらいいでしょう。さて、彼女の登場に意味があります。修飾句は、ラピドテの妻。ラピドテとはラピッドの兄弟語で炎、あるいは燃え盛る火、の意味です。旧約聖書を理解する時の一つの秘訣はシンボル的に読むことです。イスラエル人の歩みは人のあるいはクリスチャンの人生の歩みととらえます。さて聖書によれば夫婦は一体であって、その性質を共有します。女預言者デボラには夫の持つ炎、燃える火が期待されています、このような人々が苦難の時代に、人々の信仰が弱まっている時代にこそ必要とされるものです。もしあなたが、神さまが沈黙している、と思えるような場合には、あなたの出番が来ているかも知れないのです。野球でもサッカーでも主力選手が休むことがあります。これは大変良いことです。選手を長もちさせなければなりませんから。聖書は昔から定期的に休暇をとるように教えています。もう一つの良いことは他の選手にチャンスを与えることです。だれにもチャンスは与えられねばなりません。チャンスを与える、これは愛です。主力選手とは神さま、そしてあなたに「あなたの出番ですよーッ」と合図を出しています。私がはじめてお世話になった教会は東京の後楽園球場(今はドーム球場)の近くにありました。公民館を時間借りして日曜日の午前中しか活動のない、しかし愛のある教会でした。やがて神学校を卒業した牧師が赴任すると同時に練馬に家を借りて、心機一転再スタート。しかし私には何かが物足りないと感じました。私の理想とするものが一つ見つからないのです。私はそれを考えている間、神の沈黙を経験しました。そうしてこう理解しました。「そうだ、私の出番だ!」こうして私はまもなく新しい教会を開拓しました。それが現在の勝利教会です。あなたは今、神の沈黙を感じますか。あなたの出番なのではないでしょうか。きっと何かをするように神さまはあなたに期待しておられるのです。でも分からない?神さまとあなたの間に目に見えない壁はありませんか。それを打ち壊す簡単な方法があります。あなたの近くにいる人に向ってスマイル、ちょっと微笑んでみてください。どうでしょうか。相手の人もあなたに笑顔を返して来ますね。神さまに向って同じことをしてみてください。そうして最後は自分に向って。壁は崩れたでしょう!今、神さまがあなたに向って微笑んでいますね。あなたにはあなたにできることが分かって来たのではありませんか。神さまが何もしてくださらない、と思う時、神さまはあなたに「○○をしてほしいなあ〜〜」とお思いです。

奇跡

 あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。(6-10)

 デボラは実際に敵に勝つためには軍事力が必要と考えてバラクに援助を頼みます。少なくない場合に、女性は男性の助けがないと物事を成し遂げることができません。この話の隠れたテーマは「男と女のコンビネーション」です。「人が一人でいるのは良くない」とは神さまのおことばです。さて、すぐれたコンビネーションは奇跡を産みますよ。案の定イスラエルは勝利しました。どこでも、家庭でも、職場でも、学校でも、教会でもすぐれたコンビネーションがあなたに奇跡をプレゼントしてくれます。特にこの場合は異質のものの組み合わせです。神さまはスマイルを忘れないあなたに優れたコンビネーションを日常生活の中でプレゼントしてくださっています。それに気がつくことが大切です。ちなみに二人のコンビネーションがどのような内容のものであるか、調査してみましょう。バラクは雷の意味です。古今東西その意味は同じでしょう。大木をもまっ二つにしてしまう力。その強力さ。電光石火ということばもあります。その名にふさわしく敵を粉砕しました。デボラはみつばち。働き者です。こつこつと目標を忘れず努力します。少なくとも一生に一度命を賭ける時があります。出産の時です。新しいものを産み出すのが仕事。この二人は行動と信仰をそれぞれ表現しています。二つのもののコンビネーション。最高でした。クリスチャンはときどき誤解するかも知れません。「祈っていれば大丈夫!」と。確かに祈っているしかない場合もありますが、多くの場合は祈りつつ、行動をしなければなりません。あるいは信じつつ、行動をしなければなりません。でもある人たちは行動しません。だから祝福が足りません。これはほんとうにあった話なのかは知りませんが、もしかすると事実であったかも知れません。ある教会で会員が選挙に立候補しました。当選するように教会で祈祷会をしていましたが、気がつくと投票時刻が終了してしまっていました。投票には出かけなければいけません。行動は実際は難しいことではありません、もし信じていれば。反対に信じていなければ難しいのです。あなたはバスや電車に乗るときに車両の頭に書いてある行き先表示を信じますか。もちろん信じますよね。信じているから、その電車に乗るのです。信じていなかったら、乗れません。あるいは無事に目的地に到着すると信じていなければ。そうです、行動は信じていれば実に容易なことなのです。行動が難しいのは信じていないからです。信じられないのであれば、よく祈らなければなりません。デボラは祈りの人でもありました。ことばを信じることのできる人ですから。ちなみにデボラはダバルの兄弟語でダバルはことば、という意味です。スマイル、しているとあなたの中に、「私の出番かなあー」という勇気が湧いて来ます。その後です。あなたにすばらしいコンビネーションのアイディアが示されるのは。この、すばらしいコンビネーションこそがあなたの生活の中に奇跡を起こします。私の愛読者は、聖書を除くと2冊。一冊は新渡辺稲造の『武士道』。もう一冊はサンテグジュペリの『星の王子さま』、彼の作品に『スマイル』があります。彼の自伝と思われる話ですが、紹介しましょう。スペイン戦争で捕虜になってしまいます。明日は死刑だと彼は分かります。からだには震えが止まらない。止めようとたばこを一本取り出します。口にくわえ、マッチがないことに気がつきます。目の前には格子越しにいかつい顔の看守がいます。「すみません、マッチありますか?」うさんくさそうに、相変わらずの恐い顔、でも振り向いて火を付けてくれました。その時です。目と目があったのです。思わず彼は二コッとします。看守も二コッ。ここで看守は彼に聞くのです。「お前には子どもがいるのか」「ああ、いるいる、見てくれ!」こう言って家族が写っている写真を見せました。看守は黙ったままで、牢獄の鍵を開け、背中を向け、暗に俺の知らないうちに逃げろと合図しました。奇跡が起きました。すばらしいコンビネーションの世界。脚本家は神さま。あなたを愛してくださる神さまはあなたの日常の生活の中にいろいろと不思議なことを起こしてくださいます。感受性豊かに、神さまの導きと祝福を受けて下さい。

 複雑

 世界は複雑、人生も複雑。次の話を見てください。ヤエルが敵の将軍シセラを殺したときのこと。どう考えてもえげつないやり方です。

 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕にはいったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。シセラはまた彼女に言った。「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか。』とあなたに尋ねたら、『いない。』と言ってください。」だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。(18-22)

 戦争なのだからと言えばそれまでです。でも神さまの支援する戦いであるはずです。そしてつぎのおことば。

 女の中で最も祝福されたのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。(5:24)

 最近(2003.4)イラク戦争が終わり、だれもがほっとしています。今回も戦争に対して賛否両論がありました。クリスチャンとしてはどう考えたらいいのでしょうか。「戦争反対!」と叫ぶのは簡単です。そして叫ぶだけでは戦争はなくならないでしょう。ならば戦争に賛成なのかと言われそうです。こういうふうに考えてみてください。あなたはある日の夕方、一家団欒の時を迎えていました。笑い声が家の中をこだまし、だれもが幸せそう。そこへ刀を持った強盗が押し入って来たのです。「まあまあ、まずは話し合いをしましょう」と言うのが正しいやり方でしょうか。腕力のある息子が立ち向かった時に、強盗に怪我をさせてはいけないと制止するのが正しいでしょうか。ちょうど事件に警察官が気がつき、拳銃を向けました。「私は武力行使に反対です!」と叫び、制止した方が良いでしょうか。

 では戦争はした方が良いのでしょうか。絶対無抵抗主義という考え方があります。非常に立派な思想です。絶対に暴力を振るわないのです。印度独立戦争のときにガンジーの採用した方法です。平和後進をしましたが、殴ったり、果ては殺そうとするイギリス兵士にいっさい抵抗をしません。人々は倒れて行き、道路は血の海です。とうとう良心の呵責に耐えかねたイギリスは独立を認めます。立派な思想です。前者との間に中間思想はありません。自分は武力(軍隊やガードマンや警察官)に守られていて、「あなたがたは武力を行使してはいけません」というのは倫理的にも論理的にも問題があり、問題外です。クリスチャンには以上のような二つの立場がありうるのです。ともに正しいのです。だから世界は複雑です。ねずみ小僧やロビン・フッドは義賊として知られていますが、つまり金持ちから金品を奪って貧乏人に配ります。あなたは彼らの行動を支持しますか。正しいと思いますか。昔は金持ちはかなりの悪事を働いて金持ちになっていたし、実際それが理由で貧乏人は餓死して行ったのです。こういう状況ではいかがでしょうか、あなたの判断は。世界は複雑です。これは間違いのないことです。今、私たちが知らなければならないことは、たとえ説明の出来ないことが私たちの周囲にあったとしても、神さまを信じなければならないと言うこと。なぜ複雑と見えるのか、それは私たち人間はあたまが悪いから。天国に行けば分かります。天国で「あー、そういうことだったのか」と納得します。人をさばかず、つねに神さまの前にへりくだるべきです。それが神さまを真に信じること。それには神の愛を知ること。「私は神さまに愛されている」と分かれば、どんな場合にもあなたは神さまを信じることができます。神を信じているかぎり人生に希望はあります。
 むかし「私は七面鳥だ!」と自認する王子さまがいました。お父さん王は悩んでいたところ、一人の賢人が「私が直してあげましょう」と名乗り出ました。七面鳥ですから、素っ裸で、しかも口で食べ物を食い散らかします。彼は王子さまに近づいて仲良くなります。もちろん素っ裸になりました。ある時、シャツを何枚か王子さまの前に広げてこう聞きました。「王子さま、シャツを着ると七面鳥ではなくなってしまうとお思いですか?」「いいや、シャツを着たって七面鳥は七面鳥に決ってる!」「では、ちょっと着てみませんか?」続けてズボンをいくつか広げて、「王子さま、ずぼんをはくと七面鳥ではなくなってしまうとお思いですか?」「いいや、ずぼんをはいたって七面鳥は七面鳥に決ってる!」「では、ちょっとはいてみませんか?」さらに、テーブルと椅子を用意して、「王子さま、椅子に座って食事をすると七面鳥ではなくなってしまうとお思いですか?」「いいや、椅子に座って食べたって七面鳥は七面鳥に決ってる!」「では、ちょっとそうしてみませんか?」こうして王子さまは病気が直ったというのです。
 あなたは七面鳥になりたいですか。キリストは神でありましたが、人間イエスになられました。神でありながら、人のレベルに迄ご自分を下げました。さらには罪人のレベル迄。十字架のことを話しています。ついには命をあなたのために投げ出されました。あなたには神の愛が分かりますか?愛が分かる時、だれでも神を信じることができます。神を信じているかぎり人生に希望はあります。