226 アブラハムの偉いところ

  聖書箇所[創世記12章1ー4節] 

 お母さんが6才の息子に市販の問題集を買い与えました。決して特別なことをしようとしたのではなく、他のお母さんたちがしていることをただしただけです。「このページをやっておきなさい」と言い残して用事を済ませようとしていました。しばらくたって彼の肩ごしに問題集を除いてみると、なんと一問も解いていないではありませんか。そればかりではありません。驚いたことがもう一つあったのです。問題は通常のもので「正しい答の番号を○で囲みなさい」とあります。なんと彼は小さな○をその数字の周りに丁寧に一つずつ書いていたのです。彼女は彼のしたことを受け入れ、むしろ喜びました。エリ・ヴィーゼルは強制収容所体験をしたユダヤ人です。彼の作品に『遠い黄昏』があります。その中で登場人物のペテロにこう言わせています。「もしあなたが答を慌てて得ようとするなら、答はあなたから逃げて行ってしまうだろう。問いと同じように答えにも自由が必要だ。……ただし問いは変わらないが、答は常に変わるものだ」答を一つに固定したときに、人は見えない紐に縛られます。自分だけでなく、他の人をも縛ります。いかがでしょうか。私は思考の柔軟性を話しているつもりです。今回は「アブラハムの偉いところ」という題ですが、それは柔軟性。柔軟性こそがあなたに祝福を約束します。三つ学びましょう。

見知らぬ地に行く

 さあ、あなたはいかがでしょうか。突然未知の世界に旅立つように言われたら。未知の考え、未知のものでも同じです。多くの人は戸惑うはずです。なぜか?未知の世界では未知のものに出会うのでどう対応したらいいか、すなわち対応の仕方が分からないのでつい二の足を踏むのです。人間の心理としては当然と言えば当然です。しかし、しかしです。未知の世界に入れば今まで得たことがないものに出会うことは間違いありません。アブラハムの経験を見てみましょう。

 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(12:1)

 彼はいままでの生活いっさいを捨てて行くのですが、故郷とも親戚とも過去とも別れて見知らぬ土地に行く、という意味です。もはや独身ではありません。妻を連れ、甥のロトを連れ、まさに一族郎党を引き連れての、これは冒険と言っていいでしょう。家畜も一緒です。行った後で、「間違いでした」では済まされない話です。多くの人の生命を危険に曝すことでもありました。さらにカナンでは飢饉が彼を待っていました。人間の弱さを考えたら、「もしかしたら、私の決断は間違っていたのかなあー」とふと脳裏を掠めても不思議はないでしょう。しかし、新しい世界に足を踏み入れることはすばらしいことです。いままで得られなかったものを手に入れる可能性は高いのです。最近、私は神さまから新しいビジョンをいただいています。それはVictory Church Amusement WORLD。略して、ViCAmWORLD ヴィッカムワールド。このコンセプトの要点は二つ。一つは選べること。従来教会ではほとんどの場合、人々に選択肢は限られています。たとえば「礼拝においでください」「何時ですか?」「日曜日の10時半です」「午後ではいけませんか?」「礼拝はそれ一回だけです」こういう会話が当り前のように成立しています。日本の教会の実力不足、信仰不足です。決してその時間に来れないからといって「不信仰」というわけではないのです。でもそのように見られるかも?そこで提案、曜日に関わりなく、しかも毎日何回も礼拝がなされていれば、多くの人に参加のチャンスは広がるでしょう。従来教会は殿様商売的であったのです。「この時間に来なさい。そうでないと不信仰!」と言うふうに。もっと人々に便宜をはかるべきではないでしょうか。それが愛情というものではないでしょうか。もう一つは信者がリーダーシップをとれる活動グループの育成。日本のクリスチャンたちの置かれている典型的なケースは次のようなものではないでしょうか。職場でクリスチャンは私一人、学校時代も私一人だった。おまけに家に帰って来てもクリスチャンは私一人。教会で慰めを受けようと思っていたが、メッセージはこうだった。「あなたが一人クリスチャンであることは神さまがあなたをその世界へ遣わしたことを意味しています。しっかりとあかしをしましょう!」24時間、休む間もなく、あかしの生活。おまけにクリスチャンとして信じていることをノンクリスチャンたちに否定されて、心は傷つきっぱなし。少数派の悲哀。そこで提案。クリスチャンたちが多数派を占めるグループの育成。これが急務です。そういう環境では心強く、決して孤独を感じないでしょう。私の教会における最近の企画を紹介しますと、バザー、お花見&ピクニック、ゲーム&バーベキュー、デイサービスなどなど。いずれもクリスチャンたちが多数派を占めているものです。こういう方針をさらに推進しようと願い、祈っています。霊的ディズニーランド計画です。多くの方が、信仰のあるなしに関わりなく、参加してくださり、彼らに福音も伝えることができます。新しい世界には新しい魅力が溢れています。あなたの心の中に「これはどうかなあー」とちらっとでも魅力的に沸き上がるものがあったら、少なくとも「もしかして、これは良いアイディアかも」くらいには思うようにしてみてください。聖霊さまがあなたに語っておられるのかも知れません。新しい世界に一歩踏み出す、なんとわくわくさせられるものでしょう。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2:13-14)

試練に感謝する

 試練っていやですねえー。苦しいから。辛いから。涙が止まらなくなるから。いやなものはいや。ではアブラハムの場合は?彼もさまざまに試練を経験しました。通常、試練のときには「ぶつぶつ」言いがちですが、彼の柔軟性は、感謝するというもう一つの選択肢を忘れなかったことです。彼の受けた、あるいは自ら作ってしまった試練について考えましょう。創世記21章では自分の不信仰のゆえに産んでしまったイシマエルとその母親を家から出さねばならない事態に追い込まれています。

 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。(創世記21:9-11)

 本妻サラは二人を追い出すように強くアブラハムに主張します。板挟みにあった彼は深い悩みに苦しみます。助け舟を出してくださったのは神さまでした。

 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」(同12-13)

 それ以前にあった試練も彼の過ちから発したものでした。カナンが飢饉であったのでエジプトに下ったのですが、王に殺されることを恐れたアブラハムは「私の妹です」と偽ります。

 創世記22章に書かれているのは、「一人子イサクをささげよ!(薪の上に置いて焼け!)」という神さまの命令をもらうケース(もちろん、イエスさまの十字架を表しています)。これはテストであったのですが、テストを受けている最中はアブラハムにはそれが分かりません。大変な苦しみであったでしょう。察するにあまりあります。でも彼は試練によって、試練を通して磨かれていったのです。ゆえに信仰の父と呼ばれます。そうです、試練はあなたを磨きます。

 『エマオの途上』を描いたのはレンブラント。彼はどんなお客さんの要望にも応えられる画家として有名でそのために多くのお金を得ました。家族とともに何不自由ない生活をしていましたが、ある日妻が亡くなります。この時からすべてが狂い始めます。家に閉じこもり、悲嘆に暮れ、うつになって行きます。もはや絵は描かなくなってしまいました。そのような中で人生について、いのちについて考え始めた彼は主イエスさまに出会い、自分を取り戻します。死は人生の終わりではないと分かった彼は再び絵筆を取り、描いたのが『夜景』。多くの人が求めましたが、「値はつけられない。妻の死を通していのちの意味を知った記念の絵だから」と断りました。次に描いたのが先の 『エマオの途上』。これを描くために18種類の翻訳を読みました。弟子たちの姿に復活の躍動が感じられる作品です。妻に先立たれ挫折した中ですばらしい作品は生まれて行ったのです。

 セルカークという人をご存じでしょうか。今から250年くらい前の人です。海賊船の船員で荒くれ男でした。ある時船長と喧嘩して無人島に置き去りにされます。絶望の中で洞窟に住み、悪臭漂わせる自暴自棄の生活が始まりました。ある日、トランクの中に一冊の聖書を発見します。お母さんが入れておいてくれたものでした。何もすることがない彼は早速読み始め。悔い改めてクリスチャンになります。以来、彼は変わります。他にだれもいないのですが、身綺麗にし、生活も規則正しくしました。ついに一隻の英国船が島にやって来ました。ヤギ肉をごちそうし、乗り組み員からはその謙虚な態度に驚きの声が上がりました。やがて故郷に帰った彼はその変身振りによって多くの人に感銘を与えます。この経験がもとになってあの名作『ロビンソン・クルーソー漂流記』は生まれました。

 試練は決して無駄なことでもなく、無視していいことでもありません。すべては愛と善意の神さまの御手の中で起きているのであって、ここに私たちの希望はあります。試練に感謝する柔軟性を持ちたいものですね。

子孫に財産を残す

 財産というとすぐ思い浮かぶのは不動産とか、金銭でしょうか。アブラハムが子孫に残した財産はそのようなものではありません。ではどんな財産を残したのでしょうか。それは正しい考え方。ユダヤ人が優秀であることは世界中が認めるところです。偉人を数多く輩出しています。彼らは流浪の民であって、決して金銭や不動産には執着しません。いつ奪われるかも分からないからです。代わりに大切にしたのは教育。子どもへの教育には多くの犠牲を払いました。教育とは、ものごとを正しく考える力を養うこと。私は自分の子どもにはいつも「よーく、考えること」と言い聞かせて来ました。軽率な振る舞いや判断を避けねばなりません。そうでないと自分が結局は損をしますし、周囲の人々にも迷惑をかけます。そして考えがすべてを決めることを知らねばなりません。したがってどのように考えるかが大切です。最近経済ニュースで二つの感動を経験しました。デフレで物が売れないという嘆きがビジネスの世界では聞かれますが、とっても売れているという報告です。一つは、裾上げをしてあるズボンで、しかも長さ2センチ刻みで多数用意したというもの。もう一つは靴。従来は、25.5センチの上は26.0センチというふうに5ミリ刻みですが、2.5ミリ刻みにしたというのです。さらには左右で異なる寸法でも可能と言うのです。腕の場合も左右で長さが異なります、足の長さが異なるのも当然と言えば当然ですが、コロンブスの卵!これは、アイディアですねえー。感心しました。アイディアとは考え。よーく考える、しかも正しく考える。この場合、「売れない売れない」とお客さんの責任にしてはいけないとという考えを教えているでしょう。これはほんとうに大切なことです。考えるとはサングラスをかけるようなものです。青い色をつければ世界はすべて青に見えます。黄色をかければすべて世界は黄色に見えます。人を尊敬していれば、することなすことすべてが良いことに見えます。逆に軽蔑していればすべてが悪いことに見えます。あなたに世界がどのように見えるかはすべてあなたの考え方次第です。あなたの考え方が正しければあなたは祝福を神さまから受けます。

 実は正しい考えとは神さまを信じることです。ちょっと説明しましょう。クリスチャンとは「神は存在する」と考える人のことです。すべてのクリスチャンはクリスチャンになる以前は「神は存在しない」と考えていました。考えを変更したのです。これを悔い改めと言います。ギリシア語でメタノイア。「神は存在する」と考えることは正しく考えることをしたと言うことができます。そこでこう言われています。

 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。(ローマ4:3)

 義とみなされた、とは祝福された、です。あなたも正しく考えることによって祝福されます。それには柔軟性が大切です。