227 クリスチャンの特権

  聖書箇所[ローマ人への手紙4章16節、ヤコブの手紙2章5節] 

 クリスチャンの特権とはなんでしょうか?今回はこれをテーマに学びましょう。あなたがまだクリスチャンでないのなら、ぜひクリスチャンの特権を知っていただきたいし、すでにクリスチャンであるなら、再度確認したり、他の人々に紹介するお手伝いとしたいと願っています。答は、神の国がもらえる、です。これはいわば霊的不動産です。これを相続できる、というわけです。どのようにして可能になるのでしょうか。今回のみことばを見てみましょう。

 そのようなわけで、世界(注:神の国のことです)の相続人となることは、信仰によるのです。……(ローマ4:16)

 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国(注:神の国のことです)を相続する者とされたではありませんか。(ヤコブ2:5)

 イエスさまを個人的な救い主と信じること、それは同時に貧しくあることでもありますが、これによってあなたは特権を入手可能です。このことについては最後に述べましょう。まず相続ということばについて考えましょう。相続は遺言により発生します。ところで聖書には契約ということばが登場します。聖書には旧約聖書と新約聖書とがありますが、旧契約聖書、新契約聖書の省略形です。契約は遺言(ゆえに旧遺言と新遺言と称することが可能です)とも言い換えることが可能です。ちなみに契約の原語はディアセーケーです。新約聖書に33回登場します。ヘブル語の旧約聖書では70人訳がベリートの訳としてあてたために(270回)、新約聖書もこれを踏襲しています。それでギリシア語のディアセーケーについて説明したいのですが、似た語にスンセーケーがあります。これは双務契約と訳される語で人間同士が協議して内容を詰めるものです。それに比べてディアセーケーは神が一方的に内容を決定してしまっています。このように一方的に神が内容を決めてしまったものをあなたが相続する、これが神の国がもらえる、です。一つ確認しましょう。神さまのすばらしい頭脳で考え尽くされた内容なので一切手を加える必要はありません、これが神の国です。ところで本論に入る前に神の国は成長することを指摘しておきます。

 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」(マタイ13:33)

 あなたの中にまず神の国が生まれます。その後少しずつ成長して行きます。さあ、その内容を見て行きましょう。

喜び

 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。(ヨハネ13:33、他15:11など)

 喜びって何?質問するほどのものでもないでしょうね。あなたは今喜んでいますか?先日ある集会で私はこう聞かれました。「井上先生、早く天国に行きたいですか?」私は「いやー、まだ。まだ行きたくはないですねえー。今毎日がとっても楽しいから……もったいない」そう応えながら、私は心の中でこう反すうしていました。「こんなに毎日が喜べるようになったのは、クリスチャンになったからだなあー、それ以前は悲しかったし、辛かったし、心の底から笑ったこともなかったなあ」喜びって何でしょうか。生きている充実感でしょうか、満足感でしょうか。きっと二つの要素があるでしょう。一つは主イエスさまが自分の中にいてくださること自身。

 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10-11)

 もう一つは他の人に紹介したくなるというもの。例えればちょうどこんなふうでしょうか。「あれ、こんなところにレストランがあった。入ってみようか……」ところが注文して食べたものがなんとおいしかったこと。きっとあなたは友人にその経験を話したいのです。そのことによりさらにあなたの中の喜びは大きくなる。この例えの中に喜びをあなたが得る秘訣とそれを成長させる秘訣とが隠れています。すなわち主イエスさまを救い主と信じ受け入れることによりあなたの中に喜びが生まれ、その喜びを友人に伝えることによりそれは大きくなる、というものです。いかがでしょうか。こういう、悪循環ならぬ、良循環に入ってみませんか。[受けるー与える]の喜び増幅セットです。

聖霊

 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2:38-39)

 約束はついに果たされました。聖霊が下りました。聖霊に満たされると実に不思議かつすばらしいことが起きます。ところでとても重要なことでありながら、かつ誤解されやすいことについて触れましょう。聖霊に満たされるという表現はガソリン満タンと言うように、100%入っている状態です。少なくともことばの意味はそうです。すると人の中では0%か100%かのどちらかの世界です。聖霊が0%と言えば、クリスチャンでない人です。確かにこれはその通りなのですが、何かおかしくないでしょうか。そうです。中間の目盛りがないのです。よくキリスト教の世界で「日本にリバイバルを!」と叫ばれるのですが、私は「日本にはリバイバルは起きないでしょう」と言い続けています。なぜなら全体的に見て日本はキリスト教国であったことはないからです。リバイバルの本来の意味は「信仰を失っていたが、復活した」という、これがその正しい意味です。したがって正しい言い方は「日本に霊的覚醒を!」でなければいけません、私たちはこう祈るべきです。さきの聖霊に満たされるという言い方に戻りますが、中間の、つまりクリスチャンの成長を加味して正しい言い方を私は考えてみました。それは聖霊占有率(シェア)です。たとえば聖霊占有率10%、20%というふうに表現すればいいのです。聖霊占有率100%を聖霊充満と呼ぶことができます。中間の数字は各人の成長度を表します。ちなみに聖霊は人格ですから、「Aさんが私に満ちた」という言い方は違和感を覚えさせますね。実はこういう言い方はヘブル人の表現法で、このように説明すればご理解いただけると思います。世の中には立派な人物がいるもので、そのような人の近くに行くと圧倒されますね。あなたにもきっとそういう経験がお有りと思います。それは人格の持つ、目に見えない何かがあなたに量的質的に影響を与えているのです。それを占有率で表現するのも手かなと思います。さて、聖霊占有率が高くなると、高くなるにしたがって、不思議なことがあなたに起きて来ます。それは世界が変わって見えて来るということ。「なぜ、私に、こんなことが起きるの!!?」とぶつぶついいがちな生活から、「ありがとう!」と心からすべてのことに感謝できる生活への転換です。世界が変わって見える、すなわち世界が自分に対して好意的に見えて来る、これはなぜか?答え、自分へのイメージが変わったから。二年前に八人の子どもを殺傷した宅間守被告の論告求刑公判が開かれました(2003.5.22)。その中で明らかにされた彼の心の中。新聞ではこう伝えました。「元妻との復縁がかなわず、社会へのうらみをはらす、児童だけしかいない(井上注:反撃を受ける可能性のない相手を選んでの意味)教室を選んで、凶行に及んだ。さらに「ダンプで大量殺人をやった方がずっと満足できた」と彼は言います(『読売新聞』2003.5.22)。世界へのイメージが悪いのです。「世界は私の敵だ!」「周囲は私に対して好意的ではない、いつも私に対して悪意を持っているというふうな。彼の生い立ちについては私は何も知りません。きっと辛い過去があったのでしょう。それゆえに自分へのイメージが否定的です。自分へのイメージが否定的だと世界へのイメージも悪くなるのです。正しくかつ明るいイメージが聖霊さまによってあなたの中に作られます。三浦綾子さんは自らを病気の百貨店と言われました。でもそのような環境の中ですばらしい作品をいくつも書かれ、多くの人に慰めと希望を与えておられます。彼女の世界を見る目はやさしい、なぜ?自分へのイメージが肯定的であるからです。星野富弘さんも同様です。首から下を動かせない、でも彼の見るお花を中心とした世界はあたたかさを醸し出しています。自分へのイメージが前向きだからです。聖霊さまはあなたのイメージを明るく良いものにしてくださいます。だから、「世界は私の味方、私にいつも良くしてくれる、安心だ!」と信じていられます。もちろんそのような世界を指導しておられるのは神さまです。そのことも聖霊さまが同時に教えてくださいます。では正しいイメージはどこにあるのでしょうか。あなたが勝手に作ったらいけません。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。(イザヤ43:4)

 いかがでしょうか。あなたは「わたしは、安っぽくて、卑しい」と思ってはいませんか。そう考えるのは罪です。天地を造られた神さまの作品です。不良品であるわけがない、出来損ないであるはずがありません。もしあなたがこのイメージを受け入れるならあなたは自由。

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)

 あなたが愛そうと思えば、愛せます。赦そうと思えば赦せます。なんとすばらしい世界でしょうか。福音はあなたを自由にします。ハレルヤ!聖霊さまにあなたの心をニュートラルにしてください。自分で決めてしまう前に相談してください。あなたの心の中で会話が、しかも素敵な会話があるでしょう。そうして示された通りにすれば、そのときあなたは理想とすることが実行できます。感謝!

天国

 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル4:1)

 天国の魅力については下の経験談が参考になるでしょう。

 1974年の夏、私が八歳の時、ある日学校から帰つてその日の聖書の箇所を読もうとして私は聖書を手に持ってベッドに横たわりました。しかし私の頭が枕に触れるやいなや、聖書、ペッド、私の部屋、さらに私のからださえもが消えてしまったのです。何の前触れもありませんでした。突然、現実のこの私□バーツ・リアドンが猛スピードでいくつかの天を通り抜けていたのでした。私はからだを揺さぶって、自分は夢を見ているのではないかどうか確かめました。これらすべての出来事はとても速く進んでいました。しかし私に語りかける声が聞こえた時、現実のことだと分かりました」。私が振り向くと、全き栄光のうちにおられるイエス様がそこに立っておられました。私はひざを曲げ、顔に涙が流れ出しました。それは止めようとしても止まらなかった。それから彼は話されました。「私はあなたを大いに愛しているゆえ、あなたを天国に案内したいのです」また涙が顔に流れ出しました。イエス様は言われました。「さあ、もう泣かないで、喜びが顔にあふれるなら、私もうれしくなります」それから彼は笑い、私も笑いました。彼は私のところに来られて、私を起こし、涙をぬぐってくださいました。私の涙は悲しみの涙ではなく、恐れの涙でもありませんでした。イエス様はその巨大な門を通って私を案内してくださいました。初めに私が見たのは、一つの道で、それは金の道でした、後で天国を通って歩いた時、道はすべて文字適り純金でできているように見えました。私たちが歩いて行くうちに、天国の雰囲気がすばらしいのは、それが御霊の実でエネルギーを与えられているからだと気付きました(ガラテヤ5:22-23)。そよ風すらも神様の臨在で満ちていました。私たちが邸宅の玄関に着くと、イエス様は歩いて行ってドアをノックしました。私たちは三分間ほど待ち、それからだれかが玄関に出て来るまでイエス様はもう一度ノックしました。すると一人の小さな紳士がドアを開け、頭を出して私たちに話しかけました。そして彼は私たちを中に案内し、イエス様と私は歩いて中に入り、座りました。さて、天国にあるソファは地上のものとは違います。地上の家具は、時には快適でなくなってくることもあります。天国ではいつでも快適です。私が黒いべルベットのソファに座ると、心地良さが伝わってきて私を包み込みました。私はとても快適で、座り直す必要は全くありませんでした。いたるところに植物もありました。付け加えて言えば、その邸宅は美しい家具や贅沢品がいっぱいありました。私には何かわからない物もありました。それぞれの邸宅は、そこに住む人に合ったものでした、というのは、神様の子ども一人一人が天国に自分自身の邸宅を持っているからです(ヨハネ14:2)。その邸宅にはさまざまな部屋がありました。食堂、居間、台所、私室などです。その男の人は私に大きな果物を食べさせてくれました。それはりんごのように見えるもので、とてもおいしいものでした。その後で私たちは別れを告げて裏側のドアから出ました。私が見かけた人はみな、完全な状態であり、人生の最盛期にいるように見えました。みな三十代の人のように見えました。たぶん、それで聖書は、私たちが彼のようになる(第一ヨハネ3:2)と言っているのでしょう。三十代はイエス様が復活して天に帰られた時の歳でした。私は子どもを一人も見ませんでした。けれども、子どもたちがいることは、なぜか分かりました。子どもたちは他の場所にいて、私はそこへは行かなかったようです。また人々の年令は、地上にいた時の肉体の成長に従ってではなく、彼らの霊的成熟さに従って数えられていることに気付きました。あなたが天国に来ると心の隠れた人(第一ペテロ3:4)の霊的年齢になるのです。イエス様と私は歩き続けました。私は犬、子やぎ、カ強いライオンなどを見ました。木々には鳥がさえずつていました。大小さまざまな大きさの鳥が、同じ歌を歌っているように思われました。鳥たちが歌うのを止めると、自分たちの間で話をしているかのように思われました。遠くに別の動物も見えましたが、何かはわかりません。しかし、これらの動物は、人々から逃げることも、人々に襲いかかることもしませんでした。みなおとなしく、平和でした。恐れは天国では見られませんでした。神様の臨在があまりにも強く、恐れ、混乱、疑い、病気、心配などはそこには見い出されませんでした。(『私は天国を見た』エターナル・ライフ・ミニストリーズ ロバーツ・リアドン)

 私たちの日々の生活は天国を最終目的地と考えて生きることをお勧めします。今、私たちは旅行中の身なのです。今の、目に見える生活が最終的なものではありません。天国の生活をさらに楽しみなものにするには天国に宝を積むことをお勧めします。そのためには人々を愛すること。でも心配ありません。小さな親切で十分。

 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25:40)

 たとえばやさしいひとこと、「こんにちは」「元気?」などなど。下の記事は以前ある方からEmailでいただいたものです。

    優しさのない言葉からの脱却

 「言語施」という言葉をご存じでしょうか?誰かにあたたかい言葉をかけてあげるという行為です。言葉は目には見えませんが、あたたかい言葉をかけられるだけで、人は愛に包まれるのを感じるそうです。とてもつらくて悲しいときには、たった一言のあたたかい言葉をかけられただけで、涙が出るほどうれしいことがありませんか?あなたが今人にしてあげられることがないと思っていても、一言のあたたかい言葉をかけてあげることができるはずです。そのひとことでだれかが元気になったらその元気はあなたにも返って来ます。……あたたかい言葉をかけることは決して相手にゴマをすったり、おだてたりということではありません。その人が元気に一日を過すことができるように心を込めて一言のおはようが」言い、気分よく一日を終えることができるように「またね」と言えたら、その一言だけで人と人とがあたたかい気持ちで触れ合えるようになることは間違いありません。そんなことで……と言わないでください。……心を込めて誰かにおはよう」と声をかけてみましょう。……
 あなたは小さな親切によって天にしっかりと宝を積むことができます。さて、これらの特権をいただくためにはどうしたらいいでしょうか。それには貧しくなること。

 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国(注:神の国のことです)を相続する者とされたではありませんか。(ヤコブ2:5)

 貧しさとはふたつ。一つは、私には罪がありますが、赦してくださってありがとうございます、と言うこと。二つ目は私に声をかけてくださってありがとうございます、私を選んでくださってありがとうございます、と言うこと。

 あなたはいかがですか?特権に預かりたいですか?