228 真の安息を求めて

  聖書箇所[イザヤ書40章28ー31節] 

 ゆっくりしたいなあーとはだれも思うことでしょうね。「ほっとする瞬間が私には必要だ!」とは万人の願いでしょうね。そうであってこそ次のような心境になれるというものです。

 主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(同31)

 今回はこれがテーマです。安息日と主の日の相違を考えながら、いかにしたら真の安息を得られるかを学んで行きましょう。

救いを得る

 救いをすでに得ている方はそれを確認をしてください。それによってあなたは安息を経験できます。ところで救いって何?何かからの救いのはずです。では何?それは罪を犯した結果生じる罰、これからの救いです。罪を犯しますと、罰が犯した人をいつまでもいつまでも追いかけて来ます。ゆえに平安はありません。遠藤周作の作品に『深い河』があります。戦争中、外地で悲惨な行軍の中、九死に一生を得て内地に帰還した元日本兵が臨終前に告白する場面があります。「自分は倒れた戦友の肉を食べて生き延び、帰って来た」この告白が良心の責めから彼を解放し、安らかに息を引き取らせてくれます。彼はそれまでこのことをだれにも言えず、酒でからだを壊します。イエスさまのおことばを思い出します。

 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

 安息日の持つ限界があります。安息日とはイスラエルがエジプトを出てシナイ山に留まったときに神さまから与えられた規律(十戒)、その10あるもののうちの四つ目です。

 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。(出エジプト記20:8-10)

 人は良心の呵責を覚える時に忙しくするという方法を採用することがあります。何かに没頭していれば少なくともその間は忘れられるというわけです。しかし没頭できない、没頭するものを持たない休みの日はどのような思いで過すのでしょうか。休みをとらない?いいえ、これも疲れます。休みを取れば空しさや自分を責める思いが襲います。私は10代の頃を思い出します。空しくて空しくて、少しでも笑おうと思って、映画館をはしごしました。植木等の喜劇映画がそれには役立つと思ったのです。確かにたくさん笑いました。でも笑い終わった瞬間に空しさが以前にも増して自分を襲うことには参りました。ごまかすことができない世界がここにはあります。6日間一生懸命に働いても働いても、7日目の休みが安息を約束をしてはくれません。ここでユダヤ人と私たち異邦人との違いを指摘しましょう。罪を認識させるのは前者においては律法ですが、後者においては良心です。

 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:24)

 ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ――(ローマ2:14-15)

 主イエスさまがあなたの罪を十字架の上であがないます。あなたは主イエスさまのわざを感謝して受取る時に、救いを自分のものにできます。もはやあなたを罰が追いかけて来ることはありません。それを確認する日が日曜日です。あがないを完成したあかしに三日目によみがえられました。それを記念する日が日曜日、主の日です。あなたは主の日の礼拝において救いを得て確実に元気になります。

聖さを得る

 聖さを受取るとあなたは安息を経験できます。聖さなくして真の安らぎはありません。ところで私たちの住んでいる世界は罪に汚染された世界です。そういう世界で私たちは生活していると当然それにふさわしい影響を受けます。さて罪の本質は何でしょうか。それはエゴイズム。最近おどろくべき裁判がニューヨークでありました。マクドナルドのハンバーガーを食べたために健康を損なったので損害賠償を請求するというものです。訴えたのは10代の女性二人。一人は身長165センチメートル、122キログラム。もう一人は145センチメートル、77キログラム。さすがに連邦地裁は常識的な判断をし、判事はこう述べました。「肥満になることを予想しながら食べた本人の責任」。でもマクドナルドはじめ他の似たような会社も戦々兢々。というのはこのような訴えはアメリカでは珍しくないからです。エゴイズムの世界です。礼拝が重要なのはその中で私たちは聖められるからです。聖霊さまが働いて、ちょうど洗濯機のように働いてきれいにしてくれるからです。賛美の中で祈りの中で、説教を聞く時の従順の思いの中で。私たちは実際にはその時に何を経験しているのでしょうか。人格と人格の交流です。神と人間、神とあなた。「朱に交われば朱くなる」という言い方がありますが、私たちはできるだけすばらしい人格と交わりたいものです。そうしてすばらしい影響をうけたいものですね。では実際には私たちが聖められたときに、私たちの中にはどのような変化が起きるのでしょうか。それは「神さまのために生きる、行なう」という思いに変えられます。もはや「自分のため」という思いはしぼんでしまっています。「神さまのために生きる、行なう」ことをしているときに、実際私たちは安息を経験します。私は日曜日をはじめとして夜遅くまで礼拝式で説教するするために遠隔地まで出かけています。月に3000ー4000キロメートルの距離を車で移動します。でもそのように忙しくしなくてもいいのです。それは私の自由です。でもしたいのです。そうして心地よい疲れが残ります。これも安息。安息は、何もしない時間を過せば安息できるというものでは必ずしもありません。また働く時間が長ければ疲れる一方とは必ずしも言えません。あなたに質問します。あなたの嫌いなことをしてくださいと言われて、たとえそれが10分という短さでも苦痛ではありませんか。逆に楽しいこと、自分の好きなことなら何時間でも喜びつつできるのではありませんか。今、あなたに用意されているもう一つの安息は「神さまのために」という動機から得られるものです。旧約時代、イスラエル人は働きながら、疲れるか疲れないかの差の意味を安息日に確認していたのです。「神さまのために」という思いが聖さであり、聖さがあなたに安息を与えてくれます。

家族とともに過ごす

 家族の中であなたはほっとする経験をすることができます。ここでは神の家族について考えるのですが、肉の家族でも原理は同じです。「ただいまーッ」「おかえりーッ」といったやりとりは心温まるものがあります。だれも優しさを求めています。あたたかさを求めています。家族はそれを与えてくれます。家族をもって安息を提供できるものにするためには二つのことについて工夫する必要があります。
 一つは人間関係。人間関係で私たちは疲れます。そうですねッ。これを単純なものにしていくことが大切です。ちなみに人間関係の数は次の式で求められます。Hは成員数。

      N(N-1)/2

 二人がいれば人間関係数は1。7人であれば21となります。ただし実際には成員はグループに所属しているので、個人と個人、個人とグループ、そしてグループとグループの関係が生じます。そこで次の式が使われます。

                  (3N-2N+1+1)/2

ちなみに人間関係数は二人では1ですが、7人では966です。

 これだけ多いから私たちは人間関係で苦労をするのです。どうすればこれを単純なものにできるでしょうか。私たちを疲れさせる人間関係とは「互いに愛さない、さからう、見下げる」関係です。私たちはこれとは対極にある「互いに愛する、従う、尊敬する」関係にできるだけ時間もエネルギーも使うようにしたらいいのです。前者に使うとほんとうに疲れます。したがって安息はありません。後者があなたに安息を約束します。 もう一つ、試練について。苦しい時には安息を得ることは難しい、これは確かなことです。でも視点を変えると安息を得ることは難しくなくなります。ある牧師が腎不全になりました。医者との会話です。「これから毎週3回、一回5時間の人工透析をしてください」「いつまでですか?」「死ぬまでです」彼は祈りました。「神さまのために私は働くのです。だからいやしてください!」でも一向に返事はありません。次第に説教も苦痛になって行きました。講壇から教会員に向けて「神さまはあなたを愛しておられます」と言いつつ、「自分は愛されていない」という思いが募るばかりであったから。ある日、うつに悩む年輩のご婦人がやって来ました。カウンセリングをしているときこう言われました。「先生、私は自分の孫くらいの年令の人に相談なんか、と思っていました。でも先生は大変な病気をお持ちなのに、一生懸命に生きておられる。私はぜひ相談にのっていただきたいと思いました」

 彼は知りました。「人を導く器にふさわしくなるべく、私を導いておられる」と。私たちがこういう肯定的な考えができるなら。またこういう考え方をするなら、私たちの霊の家族、神の家族はいつまでもいつまでも多くの人にやすらぎと平和とを提供できるでしょう。
 以上お話した話はともに共通点を持っています。それは神に焦点を当てているというもの。「互いに愛する、従う、尊敬する」関係とは神のお定めになった規律。

 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ2:3-9)

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

 ある人が言いました。「私たちは地雷がたくさん敷設してある荒れ地を歩いているようなものだ」ゆえにどんな場合でも主から目を離さないようにしなければなりません。最後に鉄血宰相と言われたプロイセンのビスマルクが息子に宛てた手紙を紹介しましょう。
 
 「お前が今日したことについて、明日人々は悪く言うだろう。しかし人から褒められたからと言って有頂天になってもいけないし、非難されたからと言って落胆する必要もない、現在、私の心を人々が理解できないのに、百年先、千年先の人々がどうして私の心を理解することができるだろうか。だから全能の神だけが理解してくれると信じていればいい。人からけなされようが、ほめられようがそんなことはいっさい気にしてはいけない。ただ、神からのみ評価されるように努めよ」

 主の日には私たちは思いっきり神さまを見上げればいいのです。神さまはあなたをしっかりと見ていてくださいます。あなたのしたこと、して来たこと、無駄に終わることはないのです。神さまはあなたを見てくださっているのです。ここに真の安息があります。

 人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル第一16:7)