229 詩篇 と うつ

 聖書箇所[詩篇3章、42章1ー5節] 

 詩篇は別名「うつへの処方箋」と言われます。詩篇を読み進めて行きますと、神への賛美、感謝、喜びの表現が随所に見られますが、同時に悲しみ、嘆き、辛いこと、孤独感の訴えも多く見られます。ちょうどsin波〜〜〜のように。喜べる時もあれば、うつのときもあるように。でもこのような姿は決して異常ではありません、人間には感情があるのですから。ただしうつ的になったときに適切な手当てをしないと、場合によっては再度上昇して行かないこともあります。今回はどのようにしたらうつを攻略できるかを考えましょう。特に3章と42章を取り上げましょう。本論に入る前にヒントを差し上げましょう。うつに入り、その状況から抜け出ることが難しい人には一つの心のくせがあります。そのくせによりいわば自動的にうつにはまって行きます。それは自動思考回路とでも呼べるものです。たとえばまずステップ1に入りますと、何の抵抗もなくステップ2へと導かれます。そうして3、4と進み、ばっちりとうつにはまります。その進行過程においてはほとんど抵抗がありません。この循環回路に変更を加えなければなりません。さあ、やってみましょう。

一呼吸する

 3章の背景は

 ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌

という説明で理解できます(サムエル第二15,16)。

 ダビデは自国の政治的安定の為に日夜心を砕いているときに、なんと息子にクーデターを起こされたのです。ダビデは少数の部下のみを引き連れエルサレムから荒野に逃げます。泣きっ面に蜂、サウル一族サムイもダビデを呪います。

 ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。(サムエル第二16:5-7)

 まさに四面楚歌。あなたは実の息子から、親族から、信頼している者から裏切られたときの気持ちを想像できるでしょうか。私たちの社会は信頼関係で成り立っています。レストランに入り、テーブルに座ります。運ばれて来た料理には目の前に置かれてある調味料を使用します。だれもが疑わずに。赤ちゃんは母親のおっぱいに毒が入っているとは思ってもいません。人間社会において信頼関係を破壊する罪は最悪のものです。ところで私たちはあまりにも疲れると寝たくなります。少なくともその間はその辛さを忘れていられるから。でも寝ているからと言って必ずしも状況が好転してくれているわけではありません。相変わらず目を覚ましたときには、辛さがどっと襲って来ます。この詩は朝の祈りです。

 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。(5)

 でも彼は相変わらず圧倒する敵に囲まれたまま、そうして彼の心は深ーく傷ついたまま。彼を嘲る声はこだまします。

 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ(1-2)

  注目しましょう、最後のセラに。これは小休止の意味です。あなたはあまりの辛さのゆえにうつに入り込みそうと思ったら、大きく深呼吸してみてください。もちろんたばこの煙りがもうもうといったような場所でではなく、新鮮な空気のある中で。そうして、聖霊が充満している場所で、礼拝の中で。少なくとも自動思考回路の前であなたはそのまま吸い込まれるのではなく、立ち止まります。

良い神さまを思い出す

 良い神さまを思い出すとあなたの心は明るくなります。明るい心の持ち主は良い信仰の持ち主です。良い信仰はあなたに確実に祝福を持って来てくれます。さて民数記13章に出て来る一つの記事を思い出してください。神さまがイスラエル人にカナン(パレスチナ)の土地をくださるという時に、事前調査の名目でモーセが12人の偵察員を送り出します。

 主はモーセに告げて仰せられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」……モーセは彼らを、カナンの地を探りにやった……四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。……彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。……そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

 十人の内に起きたこと(否定的に解釈した)を「悪いことの過大視」、あるいは「恣意的推論」と言います。厳密には両者には違いがありますが、ともにうつの典型的な症状です。たった一つの悪いことをもって総合的に否定的結論を出すというものです。あなたは先週何か失敗をしましたか?そのたった一つの失敗を根拠に「だから私って、ダメ!」「もう私の人生、終わり!」っていう結論を出したりしないことを望みます。たった一つの失敗があっただけではありませんか。でもうつはそうはさせてはくれません。ちなみに反対にかわいらしいこともあります。たとえば、こういう例がありました。中学校のグラウンドで男子生徒たちがサッカーをしていました。それを一人の女子生徒が眺めています。ある男子生徒が走り終えるたびにズボンを持ち上げます。それを見て彼女はうっとりとしています。ただ単にゴムが緩くてずり落ちるので持ち上げるだけですが、彼女にはそれがたまらなく甘く見えるのです。こういう例なら笑えもし、微笑ましいのですが、先のようですと、尋常ではありません。そこで必要なのが「視点の転換」。ダビデはこう歌います。

 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。6私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。(3:3-4,6-7)

 ダビデは結局勝ちます。神は彼の祈りに答えました。神さまは実際に良い方です。どうか、あなたも良い神さまを思い出してください。あなたを愛し、あなたの人生に限りなくあたたかな配慮を下さる神さまを思い出してください。

60点主義にする

 60%達成できたらOKですよ。私は8つの教会を牧会しています(2003年現在。他にもう一つの教会もグループ内にあります)し、一つの伝道会社や各所に神学校も経営していますが、唯一の専任者です。したがって多忙でもあります。そこで現実に起きる困ったことがあります。集会をすっぽかすことがあるのです。もちろん悪意はないのですが、つい忘れてしまいます。手帳に記してはあるのですが、それでもぽかをします。謝ります。会員たちはやさしく愛があるので、責めることはしません。それでもなんとか教会そして教会グループは元気に成長しています。決していい加減にしていいというわけではありませんが、互いに私たちはピリピリしない方がいいでしょう。完全主義者はうつになりやすいし、周囲の人々もともにぴりぴりしなければなくなります。うつの症状の一つに「二分割思考」があります。「あれかこれか」、または「オール・オア・ナッシング」。試験で言えば「100点でなければ無意味、0点と同じ」といったたぐいです。もしあなたが60点主義にできたら、すばらしいことが二つありますよ。一つは他者に出番をあげること。2003年5月30日に放映されたNHKドキュメントはほんとうに感動を与えるものでした。元暴走族「極連会」が「GOKURENKAI」を結成してボランティア活動をするのです。リーダーは26才の工藤良さん。この転換も見事ですが、もう一つのことに私はさらに感銘を覚えました。市民の方々から信頼を得て、駅舎の壁に絵を描く依頼が来ました。早速その作業が開始されましたが、その一日目に彼はリーダーを引退します。理由は自分が手取り足取りしている限りメンバーがいつまでも自立しないから。一時混乱はありましたが、ついに彼らは立派に絵を描き上げ、市民から喜ばれます。他者に出番を与える、これは愛。60%主義者には愛があります。二つ目は神に出番があります。もしあなたが100%何でもします、というなら神さまに出番はありません。私は大宮駅前で路傍伝道をして今日の勝利教会を立ち上げました。23年前のことです。そのときいろいろと人間心理の研究をして、「イエスさまを信じますか?」の問いに「はい!」という答を道行く人々から引き出しました。私は有頂天になりました。「やったーッ!」という思いでした。しかし彼らはその後ことごとく前言を翻しました。私はとても大切なことを忘れていました。永遠のいのちは神さまが独占的に与えるものであることを。私は自分で100%果たそうとしていました。悔い改めました。でも動機の正しさを神さまは認めてくださったのでしょう。あわれみによって今日の絶えまなく前進する勝利教会はあります。ハレルヤ!うつの人の神はうつです。なぜか?って。ひまだから。何もすることがないから。リストラされたようなものだから。神さまをレストラしてはいけません。神さまにはおおいに働いていただかなければ。

神に期待する

 ゆえに最後は神に期待することです。42章の中の1ー4節と5節とを比較してみましょう。

 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。(1-4)

 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5)

 両者には感情(前者1-4)と理性(後者5)との葛藤が見られます。感情が勝つと何が起きるでしょうか。悪い「自己予言」が起きます。「私にはやがて悪いことが起きるだろう。私の人生は呪われている」というような。そうしてその通りになります。というよりもそうなるように意識無意識のうちに振る舞います。恐い!ですよ。気をつけなければなりません。これもうつの典型的な症状の一つです。では理性が勝つと、どうなるのでしょうか。あなたの理性はこうあなたに言います、「神を待ち望め」と。理性、それはロゴス。

 初めに、ことば(ロゴス)があった。ことば(ロゴス)は神とともにあった。ことば(ロゴス)は神であった。この方(ロゴス)は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方(ロゴス)によって造られた。造られたもので、この方(ロゴス)によらずにできたものは一つもない。この方(ロゴス)にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:1-5)

 あなたはあなたの中に住まわれるロゴスにあなた自身に向けて語らせなければなりません。「神を待ち望め!」と。