230 究極の教会

  聖書箇所[ヨハネの黙示録1ー3章] 

 今回はこの題名で「究極の教会」について考えましょう。「究極の教会」においてはだれもが、そこで安らぎを得、寛ぎ、愛する勇気に満たされます。この書は『ヨハネの黙示録』と呼ばれますが、『イエス・キリストの黙示』という題名がもしかするともっとも適切かも知れません。というのはイエス・キリストが天使を通して使徒ヨハネに伝えた内容が記されているからです。ただし正確には父なる神がキリストに使信を与え、それを天使が仲介し、使徒ヨハネが聖霊に感じつつ受取った。それを私たちが今読んでいます。三位一体の神がこの書を書かれました。七つの教会(七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会を表しています)について学びますが、七は完全数であること、当時小アジアには他にも教会があったことなどを考え合わせると、七つの教会とは「究極の、理想の教会」像を私たちに見せようとしていると理解できます。七つの教会について一つずつ見て、そこから「究極の教会」についてのヒントを得ましょう。というのはこのテーマに取り組む者には主イエスさまがもう一度来られたときには大きな報いが約束されているから。

エペソ教会[2:1-7]

 エペソとは「好ましい」の意味です。何が好ましかったのかと言いますと、「初めの愛」。でも残念なことにそれからエペソ教会は離れてしまったのです。私たちは良い教会を目指そうと思ったら「初めの愛」から離れないようにしなければなりません。では「初めの愛」とは?それは許し(&赦し)。「私は受け入れられ、私の罪は赦された」というものです。これは実に良い交わりと力ある祈りのための潤滑油。「最近祈れなくなったあー」と思ってはいませんか。「交わりがぎくしゃくして来たー」といったことはありませんか。潤滑油が枯渇しているのかも知れません。「初めの愛」、すなわち許し(&赦し)は十字架から流れて来ます。

スミルナ教会[2:8-11]

 スミルナとは「没薬」の意味です。

 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。      そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。(ヨハネ19:39-40)

 この教会は苦難の教会です。ただし詳細は明らかではありません。何かに攻撃されたのでしょう。助言は次のようです。

 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(9-10)

 たとえどんなに苦しくても死に至るまで忠実でありなさい。これは、どんな場合でも人間の罪の本質であるエゴイズムに負けないようにとの助言です。というのは人間はいざというときに本来有する本性を明らかにしてしまうものであるから。その本性がエゴイズム。これを退治するのに有効なのが試練であり、苦しみです。私たちは聖められ、真のやさしさを身に付けて行きます。共感能力を身につけて行きます。私の大好きなポール・ツールニエが『人生の四季』の中でこう書いています。

 苦悩もまた成長に役立ち得るのです。現在、成長のある段階にとどまっているように見える人々で、もうあと苦悩さえ体験すればさらに先に進むことができるだろうと思われるyぽうな人々を、私たちのうちに何人かは多分知っていることでしょう。

 つまり苦悩が人生を成長させるというのです。たとえば共感能力です。苦悩した人は同じようなことで苦悩した人の気持ちが分かるのです。実際私たちは自分の気持ちを分かってくれる人を探し求めています。真のやさしさに飢えています。私たちの教会がこのようなものを訪ねて来てくれる人々に提供できるとするならなんとすばらしいことでしょうか。もしあなたが何かに苦悩しているとすれば決してそれは偶然ではありません。あなただけが分かることのできる人があなたのもとを訪ねようとしています。それは神さまによるすばらしいアレンジです。神さまのわざはこのようにして今日も前進します。

ペルガモ教会[2:12-17]

 「サタンの王座」があると言われています。この町には偶像エスクラピアスの神殿がありました。それを指すものと思われます。偶像の教えの中に「ニコライ派」がありました。この教えの特徴の一つは聖職者と平信徒とを差別すること。今日の日本にもあります。「献身者が何人」と言った言い方はそうです。ここで意味することは牧師あるいは牧師夫人などを指します。でも聖書はすべてのクリスチャンが献身することを求めているはずです。

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

 ローマ・カトリック教会は一部の人にのみ「聖人」という称号を許します。しかし「聖人」と訳された語は神さまを信じた人、すなわちクリスチャンを指すのです。同じ過ちをプロテスタントもしているのです。気をつけないと私たちの心の中にはいとも容易に差別が発展して行きます。

 愚かな分派心

 コメディアンのイーモ・フィーリップスがよくしていた話です。彼は次のように話して、人々を笑わせていました。最近お近付きになった人と話していたときのことです。話のついでに、
「あなたはプロテスタントですか、力トリックですか?」と尋ねたところ、
その人は「プ□テスタントです。」と答えました。
「私もですよ」と私は言いました。
「どの教派ですか?」「バプテストです。」
「私もですよ」
「北部バプテストですか、南部バプテストですか?」
「北部バブテストです。」
とその人は答え、私は
「同じですよ!」
と叫ぴました。そうこうしているうち、話はとうとう
「北部保守的ファンダメンタル・バプテストの中のグレート・レークス地区1879年総会派ですか、グレートレークス地区1912年総会派ですか?」
というところまでたどり着きました。
「北部保守的ファンダメンタルバプテスト、グレート・レークス地区1912年総会派です。」
とその人が答えたので、私は言ってやったのです。
「くたばれ、異端者め!」(『クレイ』)

 差別とは「私はあなたよりも上よ!」という意識です。そのように言われれば、言われた人は「なによ!」と反発もしたくなります。このようなやり取りの中には決して平和はありません。差別をしない、心の広い人を花のある人と呼ぶことができるでしょうか。

 花のある人

 商業設備空間設計を専門にする(株)夢屋の代表取締役、堤重和氏は、『インターナショナルVIP関西ニュース』で2003年3・4月号)で、次のように書いておられます。「もう昔の言葉かもしれませんが、『あの人には、花があるネ」と言われることがあります。その人が居るだけでぱっと花が咲いたように、雰囲気が和らぐ。人を引き付けるような魅カがある、明るく爽やかでほっとする、そんな人のことでしょうか。いや、それだけではなく、思慮深い人柄や、天性も、この言葉に含まれているように感じます。私は商業空間をプロデュース・設計する仕事をしております。そして、『設計した建物に、花があるか無いか」は極めて重要で、私はいつも、このことを考えながら仕事をさせていただいております。そして、建物が完成し、クライアント、あるいは、来店されたお客様から花があるネェ」の一言を頂くと、それまでの苦労が吹き飛んでしまいます。私の生活にも、あなたの生活にも、一番大事な「花」が添えられると素敵ですね」これを読んで、次の聖句を思い出しました。「しかし、御霊の実は、愛、喜ぴ、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22-23)(『クレイ』2003.7)

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』(2:29)

 聖霊さまが私たちを差別をしない、花のある人へと整えてくださいます。聖霊さまがご支配くださる教会は「究極の教会」です。

テアテラ教会[2:18-29]

 テアテラとは「継続した犠牲」の意味です。主イエスさまはこの教会の長所として「愛と信仰と奉仕と忍耐」を指摘しておられます。つまりちょっとの我慢が評価されています。
 ヴァレー神父さんとHさんとの心温まる出会いが『おむすびの祈り』(佐藤初女)の中に書かれています。片腕のないHさんはたびたび酔っぱらっては物を売りに来ます。ゴムひもであったり、お茶であったりするのですが、神父さんはにこにこしながら物品と引き換えにお金を渡します。そのお金を何に使うかも知りながら。でもやさしく言うのです。「お酒をやめなさいね」教会員は心配して、神父さんに「そんなことは止めてください」と言います。そうこうするうちに会堂の中で祈るHさんの姿がみられるようになります。さらには教会で熱心に奉仕するようにもなるのです。ちょっとの我慢が人を変えるのですね。これがまた一つのプレゼントをあなたに与えます。
 ユダヤのことわざにこのようなものがあります。

 人は人生において三つの名前を持つ。一つは親から付けてもらったもの。二つ目は愛称。三つ目は、何だとあなたは思いますか。三つ目は自分の生涯が終わるまでに獲得する名声。「ほんとに惜しい人を亡くした!」「あの人は真に愛の人だった!」などなど。いずれもちょっとの我慢をしたことにより得られたものに違いありません。

 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』(ルカ19:17)

サルデス教会[3:1-6]

 主イエスさまはこの教会の欠点を言行不一致であると指摘しておられます。

 奴隷を自由にしたリンカーン

 ある時、アブラハム・リンカーンは少女の奴隷を買うために奴隷街へ行った。そこにいた少女の奴隷は、自分を競り落とそうとしている白人の男を見ながら、かつて自分を買い、ひどい目にあわせた男の姿をだぶらせていた。やがて競りに勝ったリンカーンは、自分の所有物である少女を連れて歩きながら言った。
「若いご婦人、あなたはもう自由です。」
「それはどういう意昧ですか。」
「あなたは自由の身になったということです。」
「つまり、言いたいことを言ってもよいということですか。」
「そうです。あなたは言いたいことを言えます。」
「なりたいものに,なってもよいということですか。」
「ええ、何にでもなれます。」
「行きたい所に行けますか。」
「はい、好きな所どこへでも。」
少女は泣きながら言った。
「私はあなたについて行きます。」(『クレイ』2003.6)

 福音はあなたを真に自由にします。教会は人々に真の自由を紹介し、それを実感する喜びを提供する使命があります。私たちは教会に来られる人々に解放感を味わってもらいたいものです。そのためにもまずあなたが福音の提供する自由を楽しまなければなりません。

 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)

 罪からの自由、正しいことをすることの自由、悪習慣からの自由などなど、すべて聖霊さまの力です。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』(3:6)

フィラデルフィア教会[3:7-13]

 フィラデルフィアとは「兄弟愛」という意味です。この教会は大宣教時代の教会です。日本にもやがてそういう時代がやって来るでしょう。多くの教会に人々が溢れるのです。リバイバルではありません。大覚醒時代がやって来ます。多くの人が信仰に目覚め、彼らはあちらこちらの教会へと押し掛け会堂が人でいっぱいになる時代がやって来るのです。私たちの勝利教会も各地に教会を建設し続けています。それは大宮チャペルを母なる教会として、多くのささげものにより遂行されて来ました。大宮チャペルの会員たちは自分たちだけの必要ではなく、他の地方の人々の必要のために多くをささげてくれました。これは兄弟愛です。戦後多くの人が教会を訪れました。でも人々は潮が引くように去って行きました。教会の側に準備がまだできていませんでした。しかし次回には私たちは同じ失敗をしてはいけないのです。しっかりと自分たちを訓練し、教会に来られる方々の必要に応えていかなければならないのです。ゆえに教会は互いの必要のために祈り、助け合わなければなりません。

ラオデキア教会[3:14-22]

 ラオデキアとは「人々が支配する」という意味です。聖霊が主役ではない、人間主義の教会です。聖霊さまのお働きを忘れたり、軽視したりするとテクニックだけの教会になります。顔は笑っていても目は笑っていないという言い方がありますが、そのような教会です。冷たく、思いやりのない教会です。仕方がありません。聖霊さまの出番がないのですから。こうして「究極の、理想の教会」の姿が浮き彫りにされて来ます。聖霊のお働きによってのみ「究極の教会」はあり得る。

 いくつかの粘土の塊が置かれていました。その中になんとも言えない、すばらしい匂いを放つ塊がありました。仲間の粘土が聞きました。
「なぜ、きみは、そんなに良い香りなんだ?」
その粘土は答えました。
「ずうーっとバラのそばにいたもんでね」

 「究極の教会」は究極の香り、すなわち主イエスさまの香りを放ちます。主イエスさまを心の中心に迎えてクリスチャンたちが作る教会はいつも聖霊さまのご臨在とそのご性質とに満ちています。そのような教会に私たちはいつもいたいものです。

 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」(1:10-11)