231 真の友情を求めて

  聖書箇所[ヨハネの福音書15章13ー16節] 

 良い家具や家を建てるために良い材質を選ぶのは当然ですが、良い材質は檜でも杉でも必ず林の中で、すなわち他の木と共に育った方が真直ぐで均等になり、良い材質となります。一本だけの場合にはくせがついたり、節がついたり貧弱であったりします。共に生きることは木だけに限らず私たち人間でも同様です。今回は友情についてご一緒に考えましょう。題して真の友情を求めて、そうしてどのようにしたらそれが得られるかを4つのキーワードで考えましょう。

犠牲

 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(13)

 犠牲を払うと友情がスタートします。主イエスさまは十字架の上でご自分の命を犠牲にされました。あなたを救うために。どう思いますか?有島武郎だったと思いますが、間違っていたらごめんなさい。英語が日本にどんどん普及していった頃、I love you.をどのように訳すかに悩みました。「私はあなたを愛しています」では味気ないと彼は日本人の心情を揺さぶるような訳語を文学者として考えていたのです。そうしてついにこう訳しました。「あなたのためなら死んでもいいわ!」あなたにはこのように言える相手がいますか?あるいはこのように言ってくれる人がいますか?いかがでしょうか。ことほどさように真剣な話です。犠牲はだれをも感動させます。なぜ?やさしい関心であるから。ではやさしくない関心はあるのかと問われるならば、こうです。あります!恩着せがましく、「あなたのためにしてやったのよ!」こういうことを言われたら決して人は友情を感じないでしょう。やさしい関心こそが友情にスイッチを入れてくれます。やさしい関心を私たちは求めています。人生でもっとも友人を必要としている時期は思春期です。親でもなく、先生でもなく、友人が一番大切です。その友人のやさしさが求められています。真夜中に原宿など繁華街をたむろする女子中学生が後を立ちません。「なぜ?」って聞くとこういう答が返って来ます。「だって、ここではみんなやさしいもん!」家にいれば「勉強、したのッ、えッ!?」と判で押したようなせりふばっかり。もちろん彼らにやさしくするのは大人たちの見え透いた下心からです。でも人生経験の少ない彼らには見分けはつかないのです。やさしい関心を彼らは求めています。第二の思春期と言われる40代では最近インターネットの世界で同窓会のサイトが人気を集めているそうです。ここでもやさしい関心が、隠れてはいても実際はこれがテーマです。久し振りに会って「よおー、元気?いま、何してる?」って声をかけてほしいのです。でもほとんどの人はがっかりするようです。当然です。需要と供給の関係がアンバランスだから。だれもが、求めて行くのです。だれが与えるのでしょうか。ということはあなたがちょっとの犠牲を払うことで友情は生まれると言えます。聖霊さまはあなたの良心に働いて「これをあの人にしてあげてみたら……」と教えてくださるのです。ありがたいことです。先日テレビで億万長者の話をしていました。日本人女性と結婚する人が多いそうです。億万長者であると名乗ると結婚したい人が殺到するので、身分を隠して付き合い始めますが、その間に日本女性特有の習慣に彼らは感動するのだそうです。何だと思いますか。それはテーブルを囲んでいるときに、おかずをお皿に取り分ける行為です。レディーファーストの習慣が行き渡っている世界では男性がすることはあっても女性がすることはありません。そこでこれが大変新鮮であり、大きな感動を男性たちに与えるのだそうです。ちょっとした犠牲は日本人全般に得意と言えます。決して難しいことではありませんね。

 『柔和な憐れみ』という映画があります。正反対性格の男女が暮らしています。彼の名前はマック。酒に負けた男です。一方彼女は物静かで柔和で哀れみに富み、貞淑な妻です。いつか神さまは彼を救ってくださると信じています。ある時、彼はうつの発作を起こし、家を飛び出ます。やがて帰って来た彼が見たのは彼の救いのために一生懸命に暗唱聖句を繰り返す妻の姿。この時です。彼が変わるのは。彼女のちょっとした犠牲が奇跡を起こしました。

信頼

 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(14)

 これ、お願い!」と言われて、「はいッ」の一つ返事で応答できるなら、そこには友情があると言っていいでしょう。
 16節は以下のようなことをおっしゃっているのでしょう。

 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼ばない。しもべには秘密は言わないもの。でもあなたには隠すものはないよ。父から聞いたこともみな知らせるよ。それにあなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ、あなたを任命した。なぜって。それは、あなたが実を結ぶ(私の期待に応えてくれる)ことが分かっていたから。ゆえにわたしの名によってあなたが何かを父に求めるなら、父はそれをあなたに与えるよ。

 こういう言い方をされて感激しない人はいないでしょうね。あなたはいかがですか。「私は信頼されてるーっ!」と思うのでは。これは友情の次のステップです。
 ならば彼(彼女)のことばを信じてあげること。話を信じてあげること。「上手ですねエー」って言われたら、「ウッソ オー」とは言わないこと。「ありがとう」と応じてください。ザアカイは彼を知るほとんどすべての人から嫌われていました。ルカの福音書19章を参照してください。イエスさまを一目見ようといちじく桑の木に登った彼と主イエスさまの目が合います。その時、

 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

 こう言われたザアカイは「ウッソ オー」とは言わなかった。

 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。(5-9)

 彼に奇跡が起きました。ことばを丁寧に扱う。これは人間関係の基本です。次のような記事を目にしました。参考までに。

 「お前は気楽でいいよなあ」千葉県に住む主婦(38)は、昨年秋に夫(41)から言われたひと言が忘れられない。夫は金融関係の会杜に勤め、五、六年ごとに転勤を繰り返している。その時も、夫は鹿児島県から東京への転勤を命じられたばかり。関連会社への出向だったこともあり、「今度は大変そうだ」と落ち込んでいた。妻は夫を励まそうと、「苦しい時はチャンスの時よ」と明るく声をかけた。その時、夫の口から返ってきたのがそのひと言だった。「北海道や九州にも一緒についていった。生活の環境が大きく変わる中で、二人の子供も懸命に育てた。それなのに、彼は私をずっと『お気楽者』と思っていたんでしょう」その言葉に悪意は感じなかったが、それだけに本音のように思えた。「心の中の信頼度の目盛りが、100から0に向かってぐんぐん下がっていく」ような気がした。「このまま心が離れていったら、離婚してしまうのかな」。結婚以来、離婚の文字が頭に浮かんだのは初めてだった。夫が都内に転勤、自宅を千葉県に移してから、彼女は近所で事務のパートを始めた。「もう二度とお気楽者』と言われたくない、あのひと言を聞くまでは最高の夫婦だったのに、あの日から並の夫婦になってしまいました」。その後、夫と口げんかするたびに「私はお気楽者ですから」と言ってしまう自分だ、嫌気を感じることもある。言われた夫が、「ごめん」と謝るだけなのも情けない。「頭では『許さなくては』と思います。でも、心が言うことをきかないのです。群馬貝高崎市に住む主婦(36)は昨年春、会杜員の夫(40)が言うことに対し、すべて「はい」と言ってみることにした。長男の学校間題で悩みを相談した知人に「一人で抱え込まず、あきらめずに夫にぶつけてみることが大切。手始めに『はい』と言ってみて」と助言されたからだ。夫は毎朝、旱く出勤し、深夜まで帰らない。結婚して十年目、妻は自分だけが家事や育児に束縛されているように感じていた。その不満から、「家庭内のことは一切白分で切り盛りするんだ」と意固地になっていた。服従するみたいで抵抗があったが、「はい」と答えるようにすると、夫は自分の考えをよく話しかけてくるようになった。夕食の献立など日常のささいなことを決めるのにも、夫の言藁に耳を貸していなかった。そんなこれまでの自分の態度にも気づいた。自分一人で解決しなければという気負いが薄れ、部屋の空気が緩んだ気がした。親子の会話も増え、長男の問題も気にならなくなった。「どちらか一方に従うというのではなく、相手を受け入れる気持ちがあるかどうかが問題なのですね。夫婦の会話は、家族の雰囲気も変えることに気づきました」と妻は振り返る。(『読売新聞』2003.6.19)

同志

 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(15)

 最近小泉首相がブッシュ大統領を訪問しました。彼の牧場に招かれました。またCIAの秘密情報を一緒に聞きました。秘密や私生活を共有するということはもはやしもべ(使用人)ではなく、友人であり同志です。主イエスさまは弟子たちとビジョンを共有しておられます。世界に福音を伝え、人々を解放しようというビジョンです。「あなたは私の同志です」という言い方をされて感動しない人はいないでしょう。ちなみにしもべとはいったい何かというと道具です。道具なら徹底的に使って、消耗しつくしたら捨てるものです。

 人を道具扱いしたら何が起きるか。これはほんとうに真剣に考えなければなりません。ちょうど良い教材があります。

 カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。……あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記4:3-13)

 カインのささげものは神さまに受け入れられず、彼は怒りました。なぜ受け入れてもらえなかったのでしょうか。動機が悪かったのです。どういう動機でしょうか。自分の欲望を満たすため、しかもそのために神さまを利用しようとしたのです。それがばれたために彼は怒っています。隠していたものが露見したのです。露見させられてしまったと言ってもいいでしょうか。しかしどのように言い換えてもカインにとっては不愉快です。彼は本当は神さまに仕返しをしたかったのですが、それは不可能。そこで割を食ったのがアベル。殺されてしまいます。なんということでしょうか。すべては他の人格を道具扱いしたことからスタートしています。私たちは他の人を道具扱いしてはいけません。たとえ夫婦の間でも兄弟姉妹や親しい友人の間でも。道具扱いしているときには一つの症状がはっきりと現れます。それは期待がどんどん高まり際限がなくなること。やがて裏切られたという気持ちになります。だれも裏切ってはいないのです。だれも裏切られてもいないのです。ただそう思い込んでいるだけです。残念なことに多くの人が巻き添えになります。私たちは友情を育てようと思ったら他者を決して道具扱いしてはいけません。「お願いできませんか?」と言うべきです。「一緒にさせてもらえませんか」「協力させてもらえませんか」と言うべきです。強制したり、脅迫したりしてはいけません。友情にはもともとそのようなものは必要がないのです。だから友情です。

完全

 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(13)

 主イエスさまの友情だけが完全です。私たち人間にはいかなる人と言えども完全な友情を持った者はいません。それゆえに持っているような芝居をすることさえあります。これは私たち人間の弱さです。持っていないのに、持っているようなそぶりをする、できないのにできるそぶりをする、してもいないのにして来たような素振りをする。厳密に言えばうそなのですが、うそというふうには重くは考えないのも真実を見てがっかりすることを避ける一つの工夫でもあります。

 ある雑誌にこういうマンガが載っていました。二人の紳士が殴り合いをして倒れています。介抱しながらボーイがこう言っています。「だから当店では『平和論だけはお断りしています』って言っておいたじゃあないですか」平和団体ほど争いの多い団体はないのではないでしょうか。こういう話もあります。死刑廃止論者と死刑存続論者とが激論を交わしていました。ついに死刑廃止論者がこう叫びました。「死刑を廃止するにはすべての死刑存続論者を死刑にしてしまえばいいのだ!」なにかヘン。戦争を繰り返す歴史と聖書とから学んだユネスコ憲章はこう言います。「戦争は人間の心の中で始まるのであるから、人間の心の中に平和の砦を築くこと、これこそが世界平和実現の一歩である」

 私たちは自分に対してうそをつくべきではありません。自分の持つ友情は完璧なものだなどと。では本物はどこに?あなたの中に。主イエスさまが真の友情。ではどこに?あなたの中に。主イエスさまはあなたのために命を捨ててくださいました。あちらこちらと出かける必要はありません。スカルの井戸の女のように(ついには6人目の男と同棲しているのですが、友情を求めて終わりのない旅をしています。ヨハネ4章)。あなたの中に真の友情はすでにあります。でもそれに気がつくには謙虚さが必要です。

 次のようなはっとさせられる文章を見ました。

   2自分白身の中にある破れ

 分析心理学の創始者C・G・ユングが、あるクリスチャン女性に次のような内容の手紙を書き送ったということを読んだことがある。「あなたがたクリスチャンには、非常に美しいものがあります。あなたがたは飢えていいる人、渇いている人を見るとき、そこにイエス・キリストを見ていますね。路上の裸の人に衣服を着せるときも、その人にキリストを見ています。牢獄の囚人を訪ねたり、入院中の病人を見舞うときも、キリストを見ているでしょう。そして、見知らぬ人を喜んで歓迎するときも、やはりキリストを歓迎しているのです。しかし、私が理解に苦しむのは、あなたがたが、自分の内にある貧しさを見ようとしないことです。あなたがた白身の心の破れの中に、イエスがおられることを見ないことです。あなたがた自身の心の破れの中に、イエスがおられることを見ないことです。なぜ外側にばかりイエスを見、自分の内側に見ようとしないのですか。あなたの中の弱さや破れ、そのすべてにイエスがおられるのに、どうして見えないのでしょうか。(ジャン・バニエ『小さき者からの光』あめんどう)

 謙虚な者にはいつもイエスさまのすばらしい友情、真の友情が身にしみます。