234 人生の不動の礎

  聖書箇所[ペテロの第一の手紙5章1ー11節] 

 私が現在住んでいる家は25年も経っています。廊下やその他の部分を歩けばミシミシギシギシ言います。天井を見上げれば雨漏りのしみが見えます。けれども住んでいて不安感はありません。なぜなら土台がしっかりとしているから。床の下を覗いたことがあってその時に確認しました。人生も同様に土台、すなわち礎がしっかりとしていれば、何があっても何が起きても心配は不要です。今回は人生の不動の礎を据えるための小道具を三つご紹介しましょう。いずれもあなたの身近にあるものです。愛の神さまが用意して下さった、あなたを引き立てる引き立て役です。

苦難

 5章1節で著者ペテロは「苦難の証人」と自らを紹介しつつ、手紙の受取人たちを慰めています。当時ローマ帝国の皇帝はネロ。残虐で気分屋で悪名高い人でした。有名な話を一つ紹介しましょう。ある時玉座で得意に歌を披露していました。その間周囲の人々は吐き気を催すのをひたすら耐えていました。やがて歌い終わり尋ねます。「余の歌をどう思うか?」まかり間違っても下手ですとは言えない、首が飛ぶから。しかし上手とも言えない。一人の賢者が言いました。「陛下の歌を評価できる者などこの世界には一人と言えどもおりません」
 ある時気紛れに思いました、「ローマの町並みが汚い」と。そこで火を付けました。ちょうど良い具合にその頃目につくようになっていたクリスチャンを犯人に仕立てました。こういうことを平気でするのですから、彼の帝国内で指導者になっている者たちはそれを真似するのです。こうして帝国内に迫害は確実に広がって行きました。ペテロの手紙はそのような迫害の中に苦しむ小アジア地方に住むクリスチャンたちに宛てたものです。しかしここに冷静に考えなければならないことがあります。苦難はだれもが好いてはいませんが、これがあなたを祝福する小道具になります。あなたの心を強くします。心が強いと目標達成は容易になります。あなたに目標はありますか。イギリスの有名な歴史家トインビーは『歴史の研究』でこう言います。「古代史を注意深く読んで行くとある文明が発生し、繁栄する場合を観察してみると生物学的に頭がいいとか悪いとかに関係ない。あるいは地理的な条件が良いとか悪いとかには関係ない。むしろ困難な環境にある方が目覚めて立ち上がる」確かに聖書もこの考えを支持しているようです。「ナザレから何の良いものが出ようか」と言われたそのナザレからイエス・キリストは登場しておられます。当時の大都市ダマスコやエルサレムからではありません。神さまの力は弱い所に働くのです。

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Uコリント12:9-10)

 最高殊勲選手ランディ・ジョンソン

 1996年と2001年のワールドシリーズで最高殊勲選手に選ぱれたランディ・ジョンソン選手(メジャーリ一グ投手)が、以下のようにあかしをしている。今から3年ほど前、非常につらい経験をした。父が亡くなったのだ。当時私は、クリスチャンになろうかどうか、迷っていた。しかし、父の死によって、決心がついた。私は、『主よ、私のいのちをささげます、球場の中でも外でもあなたの栄光を現わすような生活をします。」と祈った。過去3年の生活を振り返ってみると以前よりは感受性が豊かになり、主に仕えたいという思いがより強くなってきた。それは、私がクリスチャンとして歩み出したことの良い結果だと思う。地上生涯における道はただ一つしかない。それは。クリスチャンとして歩む道だ。(『クレイ』2002.9)

 私たちは苦難の時にへりくだり、神の愛を知るべきです。御子をさえ惜しまなかったその愛を思い返し、善意と誠実さとに思いをはせるべきです。そうすればしかるべき時にあなたには慰めが与えられます。主から直接。あなたにはとっても辛い経験がありますか?きっとおありでしょうね。思い出してください。だれかが善意ではあるのですが、あなたの近くに来てしゃべる声がうるさく響くのを。とっても辛い時にはどんな慰めのことばも役には立ちませんね。またその辛さをことばで表現することも難しいですね。このような時に沈黙が有効です。そばにいてくれるだけでいいのです。黙ってそばにいてくれるだけで。しかし、しかしです。まだ慰めはあなたのもとには来ていない。真の慰めはどこから来るのでしょうか。人間の限界がここにあります。真の慰めは天地の造り主からのみ来ます。カール・ヒルティはこう言います。
「元気をなくすな。勇敢であれ!慰めはしかるべき時にやって来る」
 そう言えばこうみことばにもあります。

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(Uコリント1:4)

 苦難はあなたを高める小道具です。この小道具があなたの人生の不動の礎を据えてくれます。

思い煩い

 ペテロにはいくつもの傷付いた経験があります。イエスさまを裏切ったのです。だれもが知っていることですね。実はこのような過去の経験が思い煩いを生じさせます。「二度あることは三度ある」と言いますが、「一度あることは二度ある」と言いたくなるし、「三度あることは四度ある」ともつい言いたくもなります。なにしろ過去に起きたことがあるのですから。こうして変な預言が適中してしまいます。またそれが思い煩いを強くさせもします。「こういう失敗の多い私、これからどうなって行くのかなあ」というふうに。では思い煩うあなたは異常な人間なのでしょうか。いいえ異常ではありません。弱さを持つ人間としては正常であると言えます。思い煩うのが人間なのです。理由は二つ。一つはだれも完璧な親に育てられてはいないこと。もう一つはだれも罪を持っていること。むしろあなたはこう考えるべきです。思い煩いはあなたを高める小道具です。

 カリフォルニア大学バークレー校が、アメーバを使って次のような実験をしたそうです。アメーバを全くストレスのない完壁な環境の中に置きます。理想的な温度、湿度、そして豊かな栄養。つまり、アメーバは全く環境に順応する必要がないのです。さあ、このアメーバはどうなったと思いますか。なんと幸せなアメーバーと思われるかもしれませんが、そうではなかったのです。この微生物は死んでしまいました。オートバーグ師は、「すべての牛物に共通するのは、生きるためにはチャレンジが必要だということだ」と語っています。アメーバでさえも例外ではありません。人問もそれと同じで、生きるために空気や食物が必要なように、変化、適用、チヤレンジなどが必要なのです。理想的な環境というものは、実は私たちを死に追いやるものなのです。

 A・B・シンプソン師のアドバイス

 シンプソン師(1844-1919)は、カナダで生まれ、長老派の牧師としてオンタリオで牧会を行ないました。その後、米同ケンタッキー州にある教会の牧師になりました。その教会で開かれたリバイバル集会で、彼は聖霊の満たしを経験し、新しい働きを始めるようになります。彼は、二つの伝道団体を設立しますが、それらは後にクリスチャン・ミッショナリー・アライアンスとして知られるようになります。彼の著作は、今も世界中のクリスチャンたちに大きな影響を与えています。その彼が、クリスチャン生活について、次のように語っています。「もし霊的に成長したいと願うなら、神が私たちに送られるすべてのことを受容せねばならない。私たちは、今のレベルで満足してしまうことが多い。そのような場合、神は試練を送り、神の恵みに頼らざるを得ないような状況に私たちを追い込まれる。それは、私たちの霊的成長を促すためである。それはあたかも、洪水を送り、低地に安住している私たちを高地に追いやるようなものである、あるいは、母鳥が、心地よい巣をわざと壊し、ヒナ鳥たちを何もない空間に突き落とすようなものでもある。……(『クレイ2002.7』)

 思い煩いは実にあなたの信仰を高めます。いったい私の人生を決定するのはだれか?だれが私の運命を決めるのか?と問わせるのが思い煩いの効能です。あなたはもちろん、「天地の造り主だ!」と叫ぶのです。そういう意味で思い煩いはあなたを高める小道具です。では何がこの思い煩いを効果的に活用させるようにしてくれるのでしょうか。それは、神に委ねること。こうしてこの小道具があなたの人生の不動の礎を据えてくれます。

 イギリスのジョンバンヤン、『天路歴程』で有名ですが、これを書き上げた場所は牢獄でした。宗教裁判で負けてうつうつとしていた時に、彼はからし種ほどの信仰を奮い立たせました。「私は天地の造り主なるお方に人生を委ねる」と。そうして一生懸命に書き上げました。神に委ねることは何もしないことではありません。むしろ一生懸命に行動することです。ただし自分のできることだけをすればいいのです。あとは神さまがしてくださる、そしてこれを信じるのです。こうして神さまに委ねたことになるのです。あなたを良い結果が待っていることは言うまでもありません。

サタン

 サタンが日夜働いています。

 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(5:8-9)

 サタンもまたあなたを高める小道具です。この小道具があなたの人生の不動の礎を据えてくれます。

 ペテロはサタンの働きを身を持って経験しています。ところでサタンはいつ働くのでしょうか。これが分かれば事前に対策を立てることができます。参考となる場面を見ましょう。

 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:21-23)

 主イエスさまが救い主としていよいよその道を進まれる時にそれを邪魔すべく働いたのがサタンであり、それがサタンの働く時です。つまりあなたが成功するしている時に、順調に物事が進んでいる時に襲うのがサタンです。気をつけてください。その心は、ねたみ!ねたみが心の中にある時にサタンに用いられます。ということは私たちはサタンと波長が合わないようにするためにもねたみを克服しておくべきです。波長があってしまうとサタンとともにあなたは加害者になってしまいます。だれかを妬んでしまったらすぐに悔い改めることが肝要です。このときあなたには正しい祈りがなされていると言えます。ちなみにあなたがサタンの攻撃をあるいは誘いを受けたとしたら喜ぶべきです。なぜって。あなたはVIPだから。サタンは重要人物を狙い撃ちにしますよ。その重要人物を倒し、周囲の人々をも巻き込む。これがサタンのやり方です。心の中に正しく祈ることが大切です。悔い改めることです。聖霊さまが働きます。あなたは聖められます。イスカリオテのユダはなぜ救われなかったのですか?ペテロと同じようにサタンの誘惑に負けているのですよ。

 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」(マタイ26:6-9)

 「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とはなんとすばらしい言い種でしょうか。こう言った弟子たちの中に彼がいました。彼はこの正論を盾に自分が会計係としてお金をごまかしていたことをみつからないようにしています。でもすべては神の目に明らかです。彼が滅んだのは悔い改めることをしなかったからです。ペテロは悔い改めました。それは真の祈りをする場合にのみあり得ることです。

 堕落した二人の青年が町へと急いでいました。今夜も一騒ぎ起こしてやろうと計画しています。ちょうど教会の前を通りかかると夕拝の最中で説教題が掲げられていました。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)Aはかちんと来ましたが、今日は町へ行くのを止めようと言い出しました。Bはそれを怒り、Aをなじりました。結局Bは一人で町へ行きました。Aは教会の中へ入って行き説教を聞きやがてクリスチャンになりました。その後政治家になりついに大統領になりました。その就任の日、マスコミは大きく報道しました。しかしその日、悪名高い刑務所にBはいました。「今度大統領になった男は以前俺と一緒に堕落していたやつだ。でもあいつは大統領になり、俺は一生ここから出られない。あー、なんとみじめなんだ」
 Aとはアメリカのクリーブランド大統領のことです。

 聖霊さまはあなたの祈りを正しく導きます。その時サタンがあなたが恐れる相手ではなくてあなたの人生を祝福する単なる小道具となります。

 あなたが不動の礎をあなたの人生に据える時、日常生活の中に何が起きてもあたふたすることはありません。安心感、そして落ち着きがあります。台風が海面を大きく激しく波立たせても、海底は何ごともないかのように。