235 慰めと勇気
  聖書箇所[ヨハネの福音書16章33節]
 
  最近(2003.7-8)宮城県を中心に大きな地震がありましたね。多くの人が亡くなりました。また中学生が幼い子どもを殺す事件も報道されています。中学生と言えばまだ子ども。共に人生が破壊されたと言ってもいいでしょう。このような事件を耳にするにつけ、命とは何だろうか、人生とは何だろうかと考えさせられます。また悲しみに暮れたり、とまどいを感じ、物事に手がつかなくなったりと私たちは思い悩みます。私たちの救い主イエス・キリストはこのような思いに時に沈んでしまう私たちと連帯なさるお方です。今回はイエス・キリストのおことばをいただいて慰めと勇気を得られるようにしましょう。

ヨハネの福音書12章46ー47節

 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

 世とは何でしょうか。それは私たちであり、あなたです。上のおことばは一言でこう言い換えることができるでしょう。「私はあなたに光を持って来た。あなたに救いを持って来た」私たちの生活には突如として試練が襲うことがあります。なぜ?どうして?私たちはとまどうばかり。心は暗くなるばかり。ゆえに光も救いも必要です。では試練の時に私たちはどのように考えたらいいのでしょうか。ヨハネの福音書9章1節以下の記事からそれを知ることができます。

 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(1-3)

 つい、「だれの責任だ?」とあたりを見回し、犯人探しをするのが罪人の習性ではありませんか。イエスさまのお答えは「神のわざがこの人に現われるため」。これが起きる時、救いはあります。光は来ています。どうか大切な一つのことを忘れないで下さい。あなたは神の子ども。寝ても覚めても子どもを忘れないのが親というもの。あなたが救いに光に飢えたままでいることは親である天の神さまが許しません。あなたが現在求めている、必要な救いが与えられます。私は中学一年生の後半から、ある一つのことに心は捕われました。なぜ生きているのか?です。だれも解答をしてくれませんでした。親に聞いても「そんなつまらないことを考えていないで勉強しろ!!」という返事が関の山。私はこの質問への答がない間、何にも手がつけられない状態と生活に陥りました。そうしてついにビリー・グラハム大会に出席したのです。彼の話したことの内容は何一つ覚えていません。でもたった一つ、「今日は寒いから早く話を切り上げましょう」のひとことを除いて。私は勝手に思いました。「このハンサムな長身の、真っ白なスーツに身を包んだ、この人には真理があるかも知れない」と。私は紹介された教会へと行くようになり、ついにイエスさまとの出会いを果たしました。イエスさまに期待しました。こうして私に待ちに待った救いがやって来たのです。

 映画『サウンド・オブ・ミュージック』はひとりの修道志願者(ジュリー・アンドリュース)が自分の生涯に対する神のみこころを探し求める物語です。彼女は修道院の生活になじめず、トラップ家の家庭教師として送り出されます。彼女はそこで、白分がほんとうに修道女になれるのか、それとも神は彼女のために別のご計画をお持ちなのか、知ることができると思ったのでした。トラップ大佐に対する自分の感情に困惑して、マリアは突然逃げ出し修道院に戻ります。修道院長は、どうして戻されたのかと尋ねます。マリアはおそるおそる、恐れと困惑のため修道院に逃げ帰って、やめる決心をしたと認めます。修道院長はきっばりと言いました。「修道院を逃げ場所にしてはいけません。あなたは何に直面できなかったのですか?」マリアはトラップ大佐が好きになったかもしれないけれど、自分でもよくわからないと答えました。「それで苦しんでいるのです。私は神から遣わされて行きました。男の人の愛を求めることはまちがっています。私はもうあそこにはいられません。」修道院長は言います。「マリア、男女の愛も聖なるものです。あなたは大きな愛の可能性を持っています。あなたが知らねばならないのは、その愛をどのように使うことを神が望んでおられるかということです。」マリアが自分は一生を神に仕えて過ごす決心をしていると言うマリアが、自分は一生を神に仕えて過ごす決心をしていると言うと、修道院長は答えます。「娘よ、あなたがこの男性を愛したとしても、神に対する愛が少なくなったというわけではないのです。あなたはそれを知らねばなりません。トラップ家にお戻りなさい。」マリアが反論しようとすると修道院長は言いました。「修道院の壁は問題から逃避するためにあるのではありません。あなたは問題に直面しなければならない。あなたはそう生きるように定められた人生を生きるのです。」(『クレイ2003.7』)

 救いを得るにはイエスさまに期待をしなければなりません。そうして期待する者に神の救いは来ます。

ヨハネの福音書14章1ー2節

 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

 一言ではこう言い換えることができるでしょうか。「あなたには何も心配することはありません。わたしはあなたのために立派な住まいを用意しました」すまいという表現がとても良いですね。やまとことばだからでしょうねえ。漢語では住居とか、家屋とか、堅い感じがしますね。すまいという語にはやさしさが漂っています。やさしさ、だれもが求めています。女の人はもちろん、男の人だって。自分の妻に向って「お母さん!」と呼ぶ人は少なくありませんね。お母さん→はなまるき(味噌のメーカー)→味噌汁→おふくろの味→やさしく包み込んでくれるイメージ。連想ゲームです。すまいにはこの種のイメージが伴います。ほっとさせられる、あたたかく包んでもらえるなどなど。さて、天のすまいとは?それは天国。しかしその天国の前味とも言うべきものが、すまいがあります。それが教会。教会の中であなたはやすらぎ、まるで温泉に浸かるよう。いま、私たちには神さまからの期待があります。立派な教会を建ててくださいと。私たちが安心していいのは、神さまが立派な材料を用意してくださっているから。その材料について説明しましょう。まずは土台。それは信仰。さて信仰とは?具体的に理解してください。「イエスさまは日常生活の中で私に必要なものをすべて与えてくださる救い主であると信じる」こと、これが信仰です。救いとはギリシア語でソーテリア。これは私たち人間が必要としているあらゆるものへの充足を意味する語です。永遠の命はその必要の頂点に位置します。そうして信仰とは理念でもあります。家庭でも職場でも理念が一致していないといけません。私たちには今いる場所が自分の理念と一致しているかどうか本能的に分かります。一致する理念とともに前進。屋根は希望。あなたには希望がありますか?夢がありますか?夢がないと立派な教会は建てられませんね。オリンピックの金メダルを取ろうといったことではありません。生活の上で楽しみを持っていますかと問うています。さて次はもうお分かりですね。愛、です。壁と柱がなければ家ではありません。愛がなければ教会ではありません。互いに尊敬し、許しあうことです。子どもから愛を学びましょう。

 子どもによる愛の定義

 子どもの目から見た愛とは、何なのでしょうか

 「おばあちやんが関節炎になったとぎ、かがんで足の爪塗れなくなったの。そしたらいつも、おじいちゃんが塗ってあげてた。おじいちゃんの手が関節炎になってからも。それが愛。」

 「だれかが私のこと、愛してくれたら、その人が私の名前を言うとき、言い方が違ってくる。それで、その人は私のことを悪く言わないということがわかる。」

 「愛とは、だれかが感情を害するようなことをして、すごく腹が立ったときでも、相手の感情を害さないために、ののしり返さないこと。」

 「愛とは、ママがパパにコーヒーを入れてあげるとき、出す前にちょっと味見して、味が0Kかどうか確かめてるとき。」

 「愛とは、クリスマスの日、プレゼントを開けるのをちょっとやめて耳を澄ましたとき、そこにあるもの。」

 「愛とは、おじいさんとおばあさんが、お互いのこと、ずっと長いことよく知り合ってるのに、まだ仲がいいこと。」

 「愛とは、ママがパパのことをうっとりながめて、いまだに『ロバート・レッドフォードよりハンサムよ。』って言ってること。」 「愛とは、1日中ほったらかしにしてたのに、子犬がペロペロ顔をなめてくれること。」

 「本気でないなら『愛してる。』なんて言わないこと。でも、本気なら、たくさん言わなきゃ。みんな忘れてるよ。」(『クレイ2003.8』)

 ヨハネの福音書16章33節

 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 このおことばはこのように一言で言い換えることができるのではないでしょうか。 「あなたは落ち着いていなさい。そしてすでに勝った私の側にいなさい」平安でいなさいと勧めていただけるのはうれしいですね。イエスさまにはそれをおっしゃれるだけの根拠があります。しかしたびたびイエスさまはこうおっしゃってるのにはわけがあります。私たちは平安を失いやすいからです。もし平安がそんなにいとも簡単に手にはいるものであるならこんなに頻繁におっしゃる必要はないはずです。だれかが言いました。平和とは戦争と戦争の合間にあるもの。確かに争いはどこの世界に行ってもあるものです、常習的に。国と国が争う前に国の中で争いがあり、個人の心の中に争いは絶えることがありません。何が問題でしょうか。それは自我。たとえば私たちは人を愛します。しかしだんだんと「私はこれだけ愛しているのに、あの人は私を愛してくれない」「…………、感謝の気持ちも持っていない」などなど、苦情が自分の心の中に沸き上がって来るのを禁じ得ません。なんと愛することは難しいのでしょうか。愛は無償の行為です。無償だからお返しを求めてはいけません。しかしつい少しは返せと心の中で私たちは叫びます。こうして私たちの心の中はおだやかではなくなります。平和はなくなります。平和な心を持っているためには平和そのものであるイエスさまの中に、あるいは側にあなたがいることです。いわば勝ち組の中にいましょう、というわけです。イエスさまにあってあなたの人生は成功します。職場生活は成功します。教会生活も、信仰生活も。あなたは恵まれますよ!イエスさまの側にいるかぎりあなたはイエスさまのあがないのわざの恩恵を受け続けるからです。
 一人のイギリスの青年が毎日ぶつぶつ言ってはブリキを金づちで叩きながら箱を作っていました。彼の心の中は劣等感、自己嫌悪感、反抗心でいっぱいでした。「こんな汚い工場で、こんなちっぽけな工場で毎日同じことばっかり、あーあこんな俺にだれがした!!親だ、親が悪いんだ!」37才の寒い冬の日、ロンドンの路地をうろうろしている時に小さな教会を見つけました。なんとはなしに入ると牧師が説教しているところで、ちょうどこういうセリフが彼の耳に飛び込んで来ました。「あなたは新しく生まれ変わらなければならない」彼は思わず「そうだ!その通りだ!」と叫んでいました。福音を聞き、彼は救われました。日記にはその時の事がこう記されています。「私の金づちはいまでは歌い、踊る。私の瞳は輝き、心の中にはいのちが溢れている。イエスさまが私の中におられるからだ」彼は生まれ変わりました。仕事が楽しくなり、やがて実業家として成功して行きます。それで得た資金で教会をささげ、やがて牧師になりました。神の愛を伝えずにはいられなかったのです。彼はその喜びの気持ちを歌に託しました。賛美歌280番です。

  我が身の望みは ただ主にかかれり 
  主イエスの外には 依るべき方なし
  我が君イエスこそ 
  救いの岩なれ 救いの岩なれ