236 サムソン物語

  聖書箇所[士師記(*1)13ー16章] 

 サムソン(*2)って、聞いてあなたは何を思い浮かべますか?えっ?韓国の会社ですか!?確かにそういう名の会社はありますね。でもここでは聖書の登場人 物です。では彼を知っている方にお尋ねしますが、彼にはどのようなイメージ をお持ちでしょうか?失敗者!確かに。実に人間くさい、と言えばその通りな の(事実人間なのですから当たり前といえば当たり前)ですが、強そうに見えても弱い。彼はあなたですよ。大切なことは、彼の物語から得るべき教訓は、弱い人間である彼に神の力が働いた、ということ。あなたも神の力をいただくことができます。三つのキーワードでそのための学びをしましょう。

賜物(タレント、能力)

 彼に与えられている賜物とは何でしょうか?それは怪力。いろいろな場面で発揮されますが、ある時は襲って来る若いライオンをまっ二つに引き裂いてしまいます(14:5-9)。あるいは彼が結婚した女性の父親がペリシテ人に焼き殺された時、彼はロバの顎の骨をもってペリシテ人千人を打ったこともありました(15:15-16)。とにかく強い!さてあなたの賜物は何ですか?愛の神さまはあなたに二つのものをプレゼントしてくださいました。一つは命。ところであなたは命が一番大切なものであると思いますか?日本では「その通り!」という答が多く聞こえて来そうです。しかしこの答は間違っています。もし命が一番大切ならイエスさまはその一番大切なものを十字架の上で捨てることを拒んでも良かったはずです。だって一番大切なものなんだから。でもイエスさまは死なれた。もっともっと大切なものがあり、それのために。それは使命、ミッション。あなたには二つ目のものとしてミッションが与えられています。そのために賜物が用意されています。
 私たちの教会に80才を過ぎたご夫婦がいます。特に夫は体力が消耗しがちです。しかし日曜礼拝に皆勤賞です。代表祈祷をし、妻はOHPや聖書朗読の係。月曜日から土曜日までひたすら体力の蓄積に留意します。その体力は日曜礼拝出席にのみ費やすのです。その態度がいつもいつも礼拝に出席する人々に感銘を与えてくれます。これは彼の賜物。真の賜物は本人にも充実感を与え、周囲の人々にも喜びを与えるものです。さて、あなたの賜物は何でしょうか?それを正しく知るには自分の生きる目的や目標を明確にすることです。あなたの人生において日々どのような目標を掲げていますか。どのような目的を見い出していますか。
 フランスの思想家モンテーニュ(1533-92)はこう言いました。

   「心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける」

 シェイクスピア(1564-1616)はこう言いました。

   「過ぎてしまった不幸を悔やむのは、更に不幸を招く近道である」

 心の中には確かに胃袋のようなものがあり、空腹であるといらいらし、なんでもいいからそれを埋めようという気持ちになります。悪習慣が身につくというのはこの真理を現わしています。良い習慣と同時進行は難しいのです。どちらかです。過去の事にいつまでもこだわっている習性も一種の空腹を埋める方法ではあります。しかし決して前向きなものではありません。憎しみであったり、ねたみであったり、そのような否定的なも のに心が捕われる時、人の足を引っ張ります。他者の成功にいらいらし、それを破壊しようと行動に出る人は少なくありません。あなたがクリスチャンであるなら、正しい目的が何であるかはもうお分かりでしょう。神のご栄光です。神さまに喜んでいただくためにあれをしよう、これをしようとすることです。あなたにはそうしている間、すばらしい神の力に満たされています。
 
試練

 試練は突然やって来ます。だれもが混乱します。失望もさせられます。将来に不安が先行します。どんなに強い人でも試練は辛いものです。サムソンも例外ではありません。怪力の持ち主、でも万能ではなく、全能でもありません。誘惑に負けたり、盲目にされたり、愛する女性に裏切られたり、さんざんです。愛する者に裏切られる経験は実に辛いものであるはずです。尾崎紅葉(1867-1903)の『金色夜叉』(読売新聞に連載)をあなたはご存じでしょう。ダイヤモンドに目がくらみ、裏切ったお宮を貫一は恨みます。その気持ちを現わした有名なセリフ。

 一月十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこでこの月を見るのだろうか。再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!!

 サムソンの心の中はいかばかりか。あなたにも試練があるでしょうね。あったでしょう。いや、現在進行形であるかも。しかし、しかし試練はあなたに対して益となるものです。先に彼が襲って来る若いライオンをまっ二つに引き裂いた例を紹介しましたが、後にはライオンの死骸の中にみつばちを密が生じて彼の糧となったという記事があります。イギリスの有名な説教者であり、『天路歴程』を現わしたジョン・バニヤンはイギリス国教会以外の教会で説教したかどで12年間も投獄された経験がある人ですが、こう言っています。「試練ははじめライオンのようだが、やがては密のようになる」

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

 ジョン・ウェスレー(1703-91)は、メソジスト運動の祖である。オックスフォード大学で学んだ彼は、最初は英国国教会の聖職者となった。在学中に、信仰熱心な友人たちとともに「ホーリー・クラブ」を作ったが、このグループは「メソジスト」とも呼ばれ、それが後のメソジスト派の名前となっていった。彼は、弟のチャールス・ウェスレーやホイットフィールドとともに、英国にリバイバルをもたらす器となった。そのウェスレーの日記のある1ぺ一ジをご紹介しよう。彼がいかに忍耐深い伝道者であったかがわかる。

 5月5日(日〕
  午前:聖アンナ教会で説教をする。もう二度と来なくてよい、と言われる。
  午後:聖ヨ八ネ教会で説教をする。執事のひとりに、「出て行け、ここに近寄る な!」と言われる。

 5月12日(日)
  午前:聖ユダ教会で説教をする。あそこにも、もう行けない。
  午後:聖ジョージ教会で説教をする。またつまみ出される。

 5月19目(日)
  午前:聖○○教会で説教をする。執事が特別会議を開き、私は招がれざる客だ、と言い渡される。
  午後:路傍で説教をする。路傍からも追い出される。

 5月26日(日)
  午前:野原で説教をする。説教中に野原に放たれた雄牛に追いかけまわされて、走って逃げる。

 6月2日(日)
  午前:町はずれで説教をする。道路から立ち退かされる。
  午後:午後の集会、放牧場で説教をする。なんと1万人もの人が来る!(『クレイ2003.8』)

 説教者として、たとえば「説教の内容を理解できない」あるいは「日常の生活とは何の関係もない話だ!」と言われたら、致命傷です。当時の状況において、追い出される理由があったはずです。でもやがて試練は終わる。神さまが終わらせられる。試練には神さまからあなたへのメッセージがあります。「あなたには足りないものがあるのではありませんか」「あなたはもっと変えられなければいけないのではありませんか」などなど。メッセージをあなたが消化 した時に試練は終わります。どうか神の愛を知ってください。あなたは愛されています。子を愛さない親がいるでしょうか。 ここで閑話休題。インターネッ トで見つけたおもしろい話。

 中学校で出た試験。○の中を漢字一文字で埋めなさい。かわいい子には○をさせよ。答は 旅 ですよね。でもこれを見た生徒は 楽 と書きました。

 某一流企業の試験問題で、「○肉○食」という虫食い問題が出たそうだ。受験者の一人が「焼肉定食」と書いていたらしい。

 二番目の話はこの説教のテーマとは無関係です。念のため。

 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:5-11)

やり直し

 サムソンは大きな失敗をします。その経緯を書きましょう。16章4節から直接読んでみてもください。
 サムソンは、デリラを好きになりました。そこでぺリシテ人の五人の領主は彼女に近づいて、「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。私たちはひとりひとり、あなたに銀千百枚をあげよう」と、裏切りを提案した。金銭に目がくらんだデリラは、サムソンに「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう。どうか私に教えてください」と甘い声で尋ねた。しかし、サムソンは簡単には本当のことは言わない。「もし彼らが、まだ干されていない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう」とか、「もし、彼らが仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう」とかいってはぐらかす。デリラは、「愛しているなんてうそでしょう。どうして力の秘密を教えてくれないのか」と、毎日同じことを言ってサムソンを責め立てた。彼は死ぬほどつ辛くなり、ついに「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人(*3)だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう」と打ち明けてしまった。これがサムソンに悲劇をもたらした。ついに彼を捕らえたペリシテ人は、サムソンの目をえぐり取り、青銅の足かせをかけ、牢獄で石臼を引かせるようにした。しかし、彼の髪の毛が少しずつ伸びてきていたのにペリシテ人は気がつかない。ある時、領主たちをはじめ大勢の群衆が神殿に集まり、サムソンの逮捕を祝い、ダゴンの神にいけにえをささげ、大騒ぎをしていた。そこヘサムソンを呼び出し、見せ物にし、からかい、目も見えない彼のおぼつかない動作を笑っていた。

 強いはずのサムソンの弱さが決定的に現れた瞬間でした。でも失敗はだれにもあるもの。そうは言っても自己嫌悪感には陥るし、心は否定的にはなるしでたまらなく辛いものです。最近失敗学なる学問が脚光を浴びています。失敗から学ぼうと言う精神が私たちを励ましてくれます。しかしこのような失敗にもめげずにやり直しをすると、いったいどうなるかもしあなたがそうしたとすれば、あなたは信仰の英雄になれます。というのはサムソンがそうであったから。ヘブル人の手紙11章32節を読んでみてください。なぜ、こうまで言ってもらえるのか。それには理由があります。やり直しの精神こそ十字架と復活という福音の精神であるから。イエスさまは十字架の上からこう叫んでおられます。「あなたのすべての罪を、呪いを失敗を私に負わせなさい。私が焼却処分にしてあげるから」。さあ、続けてサムソンの行動を見て行きましょう。この時、サムソンは、かたわらの若者に「私の手を二本の柱によりかからせてくれ」と頼んだ。そして、彼は主に祈った。「神、主よ。どうぞ私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞこの一時でも、私を強めてください」)するとサムソンに新しい主の力が加わった。彼が二本の柱を力強く引くと、たちまち神殿は崩れ落ち、ペリシテ人は全員死んでしまった。聖書から直接見ましょう。

 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。(16:26-30)

 あなたがもし失敗する時があったならぜひもう一度取り組んでください。やり直しをしてみてください。それがあなたを愛する神さまのお心です。その時にお勧めしたい心の態度は「私の人生をささげます、古い自分を捨てます、神を愛
し、人を愛します」というものです。このような心構えで臨むときあなたにはすばらしい神の力が臨むでしょう。


(*1)ししき 士師記 ヘブル語旧約聖書における第7番目の書で,「前預言書」(ヨシュア記,士師記,サムエル記,列王記)の第2番目に当る.年代的にも,五書,ヨシュア記に続くものである.ヨシュアの死からサムエルの出現に至るまでの歴史を描いているが,この書の中心人物である「さばきつかさ」(士師)という訳語から,習慣的に「士師記」と呼ばれている.・・・・・・

2.イスラエルの士師たち 2:6‐16:31
(1)序文(2:6‐3:6)
(2)オテニエル(3:7‐11)
(3)エフデ(3:12‐30)
(4)シャムガル(3:31)
(5)デボラとバラク(4:1‐5:31)
(6)ギデオン(6:1‐8:35)
(7)アビメレクに関する挿話(9:1‐57)
(8)トラとヤイル(10:1‐5)
(9)エフタ(10:6‐12:7)
(10)イブツァン,エロン,アブドン(12:8‐15)
(11)サムソン(13:1‐16:31).・・・・・・

 士師記には,12人の士師たちが登場してくる.その中の6人(オテニエル,エフデ,デボラとバラク,ギデオン,エフタ,サムソン)については,かなり詳しく述べられている.彼らは必ずしも立派な人物ではなかった.女性関係の乱れていたサムソンは,そのよい例である.しかし彼らの至らなさにもかかわらず,神は信仰のゆえに彼らを用いられたのである(ヘブ11:32).サムソンの道徳的問題については,彼がその時代の子であり,その時代とは背教と退廃の時代であったこと,旧約の歴史を見る時に,霊的に祝福されていた時代に用いられた器もあれば,退廃の中で用いられた器もあること,また旧約の中では,霊的資質にかかわりなく用いられたバラム,ネブカデネザル王,ペルシヤ王クロス等がいたことなどを考慮すべきであろう.
 4.中心的テーマ.2:11‐23には,本書の大切なテーマが要約されていると言えよう.イスラエルが主の目の前に悪を行い偶像に仕えた時に,主の怒りが彼らに向かって燃え上がり,主は彼らを略奪者の手に渡された.彼らが苦しむと,主はさばきつかさを起して,彼らを略奪する者の手から救われた.さばきつかさはただ単に裁判官であったばかりではなく,政治的,軍事的指導者でもあり,また敵からイスラエル人を解放する解放者,救済者でもあった.さばきつかさが生きている間は,主は敵の手から彼らを守られた.しかし,さばきつかさが死ぬと,イスラエル人は再び堕落して,略奪者によって苦しめられた.すると主は,再び別のさばきつかさを起されたのである.この反復によって教えられることは,(1)人間は容易に堕落する性質を持っているということ(2:17,19),(2)神は罪に対しては怒られる方であり(2:11,14),(3)また悔い改める者に対してはあわれまれる方である(2:18)ということである.この書においても,神が主権者であり,申命記に書かれている応報の原則は,この時代においては現代よりもより顕著に,部族や国家の上に反映されていることが分る.12部族の度重なる堕落と失敗は,やがて王制が築かれるためのきっかけとなった.


(*2)サムソン (〈ヘ〉simson,〈ギ〉Sampson) 「太陽の人」「太陽の子供」さらには「破壊的」「強健な」という意味があるとされる.士師時代に生れた士師の一人であり,ペリシテ人に対して大きな力を発揮したイスラエルの英雄である(士13‐16章).士師時代のイスラエルの民にとって,最も恐るべき敵はペリシテ人であり,神はイスラエルの邪悪な行為をさばくためによくペリシテ人を用いられた.サムソンは,ダン部族に属し,父はマノア,母の名は知られていない.彼女は長いこと子がなかったが,主の御告げを受けてサムソンを産んだ.サムソンは誕生の前からナジル人として神に聖別された者であった.ナジル人は,自らを神にささげ,次の3つの誓いを守った.(1)ぶどう酒や強い酒を断ち,ぶどうの実を食べたり,ぶどう汁を飲まないこと.(2)汚れたもの,特に死体にふれないこと.(3)髪の毛を切らないこと.しかしながら,サムソンの生涯は,この3つの誓いを破り,神からの祝福を失うような生涯であった.士14章前半に,サムソンが獅子を殺し,その後,蜂蜜がその死体にたまっているのを見た時,それを集め,自分でも食べ両親にも持っていったことが記されているが,この時サムソンは獅子の死体にふれている.士14章後半で,ティムナにいるペリシテ人の女との婚礼が催されたが,その祝宴の席ではぶどう酒も出されたことは容易に推察できる.士15‐16章には,有名なサムソンとデリラの物語が出てくる.サムソンがデリラと懇意になった時,ペリシテ人はデリラに高額の賄賂を贈ってサムソンの強さの源を探り出そうとする.デリラはその金を受け取り,サムソンの力の秘密を探り当てるためにあらゆる手練手管を使った.サムソンは,3度デリラに言い逃れのうそをついたが,ついに彼女に屈服し,彼の力はナジル人の誓願にあり,髪の毛をそり落すなら力がなくなるだろうと打ち明けてしまった.デリラはペリシテ人に通報し,サムソンの髪の毛を7房そり落させた.サムソンは容易に捕えられ,目をえぐりとられた後,牢につながれた.その後,ペリシテ人の神ダゴンのための集会があった時,サムソンが余興のために引き出された.その時,髪の毛が伸びて力が戻っていたサムソンは,宮の柱に手をかけて宮を破壊し,多くのペリシテ人を殺して自分も死んだ.サムソンは士師の時代に英雄として生きたが,ナジル人の誓いを破り,神に対して不従順な者となった.カリスマ的指導者が,神に不従順となった時の悪い見本であるが,髪の毛が伸びたことにより,信仰も戻ったのであろう.ヘブ11:32では,信仰の勇者の一人にあげられている.


(*3)ナジルびと 〜人 〈ヘ〉ナージール.「聖別する」「分離する」という意味のヘブル語動詞「ナーザル」から出たことばで,「ささげられた者」「聖別された者」という意味.ナジル人に関する規定は民6章に記されている.
1.聖書による規定(民6:1‐21).ユダヤ人の歴史において見られるナジル人の規定の源は民6章にある.その発生の歴史は,モーセ以前と思われる.士5:2に「イスラエルで髪の毛を乱すとき,民が進んで身をささげるとき」という表現があるが,この箇所を,ナジル人の誓願の一つの要素である髪を切らない状態を指すとする注解者がいる.また古代から,人間の力以上の助けを必要とする場合に,髪を伸して,そのわざに従事した風習があり,現代においてもアラブ遊牧民の中に同様の風習が見られると言う.聖書においては母親の誓願によって神からの特別な力を与えられて生れた霊能者(サムソン,サムエル)と同時に,自発的な誓願によって自らを特別な状況においたナジル人がいる.そして,この神への聖別,献身の具体的なしるしは,ぶどう酒と濃い強い酒を断つこと(民6:3‐4),聖別の期間中髪の毛を切らないこと(民6:5),そして,死体に近づいてはならない(民6:6‐8)ということである.民6章のナジル人に関する規定は3つの部分に分けられる.第1の区分は,ナジル人として禁じられていること(6:1‐8)で,その中でも禁酒は重要な条件である.酒に酔うということが,個人的にも社会的にも支障をきたすことに対する警告と見られる.酒を断つことによって,ナジル人は,神と社会への奉仕を自制心を働かせて行うことができるし,カナン的な偶像礼拝に基づく文化に対抗することができると考えられた.この禁酒の条件は,祭司の場合よりもきびしいものである(レビ10:9).次に髪の毛を切ってはならないという条件も独特なもので,祭司の場合は頭をそることは禁じられたが,髪は整えなければならなかった(エゼ44:20)から,ナジル人とは異なっていた.ナジル人という語とかかわりのある「ネーゼル」という語が,時として「髪の毛」「頭」を指して用いられている(民6:7,エレ7:29.参照創49:26,申33:16).髪の毛は一生の間伸び続けるため,古代の人々は,髪は力といのちの源であると考えたのかもしれない.そのため,宗教的儀式においてしばしば,身代りとして髪が奉献された.キプロスの神殿で発見された前9世紀の器の外側に,奉納物として髪の毛がささげられたと記されていると言われる.髪の毛を奉納するという風習は,バビロニヤ,シリヤ,ギリシヤ,アラビヤでも行われていたことが明らかにされている.禁止の第3は身内の者の場合であっても死体に近づいてはならないという条件である.それによって,儀式的なきよさが汚されるからである.これは,大祭司の場合と同じ厳格さである(レビ21:11).祭司の場合は,近親者の死に際しては近づいてもよかった(レビ21:1‐3).ナジル人に関する規定の第2の区分は,誓願が不注意またはやむを得ない事情で破られた場合である(民6:9‐12).このような時には,きよめのための手続きをした後,初めからやり直さなければならなかった(参照民19:11以下).第3の区分(民6:13‐21)は,誓願の期間が無事終了した時に求められる供え物の規定であり,供え物の中には,髪の毛をそって火にくべる行為も含まれている.
2.ナジル人の特色と意義.誓願の条件や手続きとは別に,ナジル人についてその社会的位置を考えてみると,ナジル人は必ずしも通常の家事や社会生活が不可能な状態ではなかったし,いわゆる修道院的な生活を必要としなかった.男女共ナジル人として一定期間の誓願が行われたが,それは完全に個人的なもので,神への奉仕のためにからだと精神との両方を聖別することであった.しかも,ナジル人としての誓願によって,一般大衆が大祭司的な「聖さ」の領域に体験的に入ることができ,また個人に対してレカブ人(エレ35:5)と同じ身分を味わう機会をも与えるものであった(レビ21:6と民6:8,レビ21:11と民6:7).
3.ナジル人の歴史的考察.聖書に記されている初期のナジル人は,サムエル の例に見られる通り,終身のナジル人であった(?サム1:11).クムラン出土の「サムエル記」1:22には「彼は永遠にナジル人となるであろう」ということばが見られる.サムソンもまた終身のナジル人と言えよう.彼は特別な霊能者であって,厳格に禁酒生活をしたかどうか疑問であり,また死体に近づく(士14:8‐9,19,15:15)こともしているが,ナジル人としての生活を送ったことは明白である.アモスの時代には,イスラエル人の不信仰は,ナジル人に酒を飲ませるほどであった(アモ2:11‐12).捕囚期以後は,終身のナジル人に代って,一定期間の誓願によるナジル人が増加した.やがて,ユダヤ教のミシュナ中の小論ナジル人の項で詳しく規定されるようになった.ミシュナは紀元200年にラビ・ユダ・ハナシーによって編集されたと言われるが,6つの規範の第3番目ナーシーム中の第4小論が「ナージール」で,民6:1‐21に基づいて,誓願の種類,日数,供え物の仕方等を詳細に扱っている.新約聖書中ではバプテスマのヨハネがナジル人と思われる(ルカ1:15).パウロは一時的にナジル人の誓願をした(使18:18).エルサレムの教会員で誓願をしていた人たちもいた(使21:23).(富井悠夫)

(『新聖書註解』いのちのことば社)