239 未来に向って前進する人々

 聖書箇所〔エペソ人への手紙5章18節ー6章9節〕

 未来に向って前進する人って誰でしょうか?あなたですよ!そして、教会に興味を持ち、あるいは教会生活を喜んでいる、いわば教会人を指します。今回は上記の箇所から学びますが、エペソ人への手紙全体からのメッセージも含めてお話しましょう。この書物は神学書と呼ぶにふさわしい内容を持っています。特に教会論は核心的なテーマです。大きく三つのメッセージを見ることができます。
 1)教会とは、世界が創造される前にイエス・キリストのうちで選ばれた人々によって構成された神秘的な共同体である。
 2)教会とは、キリストをヘッドとし、教会人はその身体である。
 3)教会はキリストの再臨により始まる天国の住民として地上から移される、その共同体集団である。
 このように見て来ますと、教会人は未来に向って前進する人々と呼ばれるにふさわしいと言えます。今回は教会人の地上で生きる心構えについて学びましょう。

キリストに従う[5:22-33]

 妻には「夫に従う」ように、そして夫には「妻を愛する」ようにと助言しています。これは夫婦の倫理です。ともに聞かされただけで、「難しいなあー」とため息をつかざるを得ない表現です。しかしこれ以上この種の話はしないようにしましょう。なぜって、険悪になるからです。「お前が従えば、俺だって愛するよッ!」「あなたが愛してくれれば、私だって従うわよッ!」というふうに。
 さて教会論においては、妻とは?教会のことですね。夫とは?キリストのことですね。もはや「キリストが私を愛してくれたら」、なんていうセリフは通用しませんね。十字架であなたを愛してくれましたよ。ところで私たちが従う場合に、具体的にそれはどのようなことを意味するのでしょうか。それは、キリストの掲げる理念に従うことです。しかもその具体的な内容が分からなかったら、従う方も従うことができません。ではキリストの理念とは。 

 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23)

 ここでは十一献金(形式でもあります)に触れた後で、正義・あわれみ・誠実の重要性を強調しています。ちなみに「律法の中で」とは「聖書の中で」の意味です。あわれみが正義と誠実とにサンドイッチされています。いわばあわれみは具です。キリストの理念とはあわれみです。

 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(同22:35-40)

 ここでは「神を愛し、自分を愛し、他者を愛しなさい」とおっしゃっています。その鍵はあわれみです。自分に向けてあわれみのない人は他者にあわれみを向けることができません。両者が争う中に神への愛は存在しません。あわれみはまず自分に対して向けるべきです。自分を責めたり、裁いたりしている人は他者に対して同様のことをします。あなたは自分を追い詰めたり、責めたりしてはいませんか。もしあなたがこのような、あわれみというキリストの理念に従うならあなたは日常の生活の中でたびたび救いを経験するでしょう。というのは私たちは人であるゆえに、弱さと罪を持っていて、それが物事を試みて失敗もさせるし、自己嫌悪感にも陥れます。そこからの救いはキリストの理念に依らなければなりません。どうか聖書を読むときに心で読んでください。どういうことでしょうか。私の愛読書の一つにサンテグジュペリの『星の王子さま』があります。この書物の中で星の王子がこう発言しています。「砂漠って美しいね」。あなたはどう思いますか?生命が生きにくい世界ですね。彼はその理由をこう言います。「砂漠は井戸を隠しているんだ」。あなたが心で聖書を読む時に、キリストの理念に触れることができ、心からキリストに従って行こうという思いになれるはずです。

指導者に従う[6:1-4]

 子は親を尊敬し、従って行かなければなりません。「尊敬しなければいけません」と言いますと、ついこういう反論が口から出てくるものです。「尊敬に値するならば」。聖書のどこにも「親を採点しなさい」とは書いていません。採点することなど不必要です。ただ、すなおに、「そのようにいたします」と言い、尊敬し、従えばいいのです。教会論としては、子とはフォロアーであり、親とはリーダーです。「教会のリーダーたちに従いなさい」と勧められています。もし従うとあなたにはどのような恵みがあるのでしょうか。「長生きする」と書いてあります。幸せになるともあります。実際そうです。反抗的な人って幸せにはなれないものです。反抗的な子どもって幸せには育たないものです。親に従うのはなぜ?親は子どもの幸せを心から願っているから。親になれば分かります。高価な学費だって、払います。場合によっては高価な物だって。なぜ?愛しているから。これが親というものです。自分は爪に火を灯しても、自分の子どもには高額なものをあてがうものです。これが親!親とはMade in Japanならぬ、Made in God。神さまの手になる発明品です。さて指導者たちに従うには謙虚さが必要です。

 イタリアにマリオとアンセルモという親友がいました。ともに修道院に入りましたが、金持ちの家の出であるマリオは有名な説教者になる夢を描き、アンセルモはしもべとなるべく入りました。やがて卒業しましたが、明日初めて説教をするという日の晩、マリオは落ち着きません。アンセルモは彼に近寄って「祈っているよ、大丈夫だよ」とやさしく声をかけました。以来、マリオが説教するときにはいつも会堂の片隅で祈るアンセルモの姿が見られるようになりました。マリオはやがて説教者として名を上げて行きますが、少しずつ二人の間の距離は開いて行きます。ついにマリオに聖ペテロ教会で説教する依頼が来ました。一生に一度あるかないかの晴舞台です。彼はしっかりと準備を重ね、当日を迎えました。さあ、説教がスタートです。しかし彼自身分かりました。調子が出ません。いつものような力がないのです。聴衆のがっかりする様子も感じられます。最後まで不満の残る説教になってしまいました。マリオは家に帰り、アンセルモの消息を尋ねました。アンセルモはその日の朝、息を引き取っていました。だからいつもいてくれるはずのアンセルモの姿が会堂にはなかったのです。墓の前で祈っていると、修道院の院長先生がこう聞きました。「説教者としてやりなおせるように祈っていたのか?」「いいえ、私にもアンセルモのような謙遜な心をください」と祈っていました」と彼は答えました。最も高価な香水は小さな瓶に詰められていますね。神さまの前で自分が小さい者であることを認めるべきです。

 『神さまから、四つの「ノー」』というお話をしましょう。

 1)私は神さまに忍耐をください」と祈りましたが、答は「ノー」。
    「ノー、忍耐は与えられるものではなく、努力して得るものである」

 2)私は神さまに幸福をください」と祈りましたが、答は「ノー」。
    「ノー、幸福を与えることはできるが、それを感じるかどうかはあなた次第である」
 3)私は神さまに霊的な成長をください」と祈りましたが、答は「ノー」。
    「ノー、あなたは自ら成長しなければならない。私はすでにあなたのために実を用意した。あなたにはただ捨てるべきものがあるだけだ」
  4)私は神さまに高慢な心をなくしてください」と祈りましたが、答は「ノー」。
    「ノー、それは私がすることではなくて、あなたがするべきことだ」

倫理をもって働く[6:5-9]

 しもべと主人の関係が言われています。しもべとは部下、労働者そしてフォロアー。主人とは経営者、社長、そして上司。しもべには「従う」ように言われています。主人には、しもべを自分の欲望を満たすための道具とは見るなという意味の事が言われていますね。「人間として見よ!扱え」というわけです。両者はどのように異なるのでしょうか。道具とは何でしょうか。ゴミの日に捨てることができます。故障したり、何かの不具合が出れば捨てられても、他に取り替えられても文句は言えません。道具だから。でも人間は違います。神のかたちに造られており、一人一人がかけがえのない存在であり、代用がありません。小指を考えてみてください。とても小さな、身体の一部分です。ちょっと怪我をした場合に、「切り捨ててしまえッ!」とはだれも言わないでしょう。主人としては自分としもべの関係は50%対50%でなければなりません。取り分のことです。もし主人が仕事の成果を100%独占したとすれば、しもべは「私はただの道具として利用された」と思うでしょう。事実そうです。利益は折半でなければなりません。これがキリスト教倫理です。2000年前に唱えられたものですから、驚きます。主人がしもべを「おどすこと」(9)をするのは隠れた動機や野望があるからです。50%50%の利益折半にすればしもべだって気持ちよく従うことができるはずです。このような利と義の葛藤は昔からのものです。

 利と義    火坂雅志

 歴史小説を書いていて、つくづく思うのだが、人の一生は「利」と「義」のはざまで揺れ動いているものではないだろうか。「利」とは、文字どおり利益のことだ。利益を追及し、よりいっそう豊かな暮らしをするために人は懸命に働く。人間が持って生まれた本能といってもいい。しかし、「利」には裏面がある。欲しいものを手に入れるためなら、裏切り、課略、人殺しと、いかなる非情な仕打ちもする。戦国時代、人々は「利」を得ることのみに血道をあげ、ルール無用の下克上の戦いが展開された。自分がのし上がるためなら何をしてもいい、どんな汚い手を使っても実利を得ることを究極の目標とする。そんな「利」に生きる武将、いわゆるきゅう雄と呼ぽれる者たちが頭角をあらわした。具体的には、美濃の蝮といわれ詐略のかぎりをつくした斎藤道三、足利将軍しいした松永弾正、比叡山や伊勢長島で大虐殺をおこなった織田信長なども、この系譜に入ってくる。いわば、マキャベリストの流れである。だが、利益優先の世にあって、目先の利益よりも、人としての生き方の美学「義」をつらぬこうとした一群の武将たちがいた。その代表が、上杉謙信である。越後の虎と恐れられた謙信は、「利」よりも「義」を重んじ、みずからの美学に反するいくさは終生、しなかった。謙信の合戦は、そのほとんどが、人を助けるために兵を出す”義戦”。であり、領土欲は薄かった。川中島で五度戦った永遠のライバル、野心家の武田信玄とは、対極にあるといっていい。ー(中略)ー人はいまも、「利」と「義」のはざまに生きている。たしかに「利」は人が生きていくうえで必要不可欠なものだが、それだけにとらわれていると、大事なものを見失う。背筋をのばし、自分自身の美学をまっとうする生き方こそ、学ぶべきなのではないだろうか。短い夏を惜しむように鳴くヒグラシの声を聞きながら、そんなことを考えた。(作家)(『日本経済新聞』2003.8.28)

 義を追い求めたいものです、教会人として。それにはーーーー。

 飛行機に乗った一人の乗客のあかし。

 その日は何かの理由で出発の時刻が遅れていました。出発ロビーは人々であふれかえっていました。ようやく搭乗のアナウンスが流れ、人々は飛行機に吸い込まれて行きました。でも満員。もちろん立席はないのですが、雰囲気は険悪。だれもが疲れていました。乗客たちはスチュワーデスに当たります。でも一人のスチュワーデスは終始なごやかでした。どんなに乗客たちが不機嫌であろうとにこにこと笑顔を絶やしません。彼はこう言いました。「あなたを雇っている航空会社は幸運ですね」「私は会社のために働いているんじゃありません」驚いた彼はついこう聞き返しました。「ではだれのために働いているんですか?」「私はイエスさまのために働いています。会社はただ給料をくれるだけなんです」

 すべてのことを主イエスさまに対してするごとくする、これがその処方箋です。良いことをしている限り、いつも心は聖く正しいのです。キリスト教倫理とは正義の極みです。聖霊さまと歩みましょう、聖霊さまに満たされるようにましょう(18)。聖なる神さま、正義なる神さま、そして全能なる神さまの仕事分野です。聖霊さまとともに歩む者にはいつも未来があります。前進があります。あなたの教会人としての歩みに主の祝福を祈ります。