242 命を選びなさい

  聖書箇所[申命記全体] 

 今回は申命記全体から学んで参りましょう。「私はヨハネの福音書が大好きです」「私は詩篇を愛読しています」とはよく聞きますが、「申命記が気に入っています」と言う人には中々お目にかからないですね。なじみが薄い書物であることは確かです。でもこれを機に親しんでいただけるようになればと願っています。そのメッセージを一言で表現すれば「命を選んで下さい」(30:19)。なんとなくイメージでは分かるような感じの言い方ですね。生活の質、人生の質と言ったらいいでしょうか。日本の生産するものはサービスも含めて世界一です。日本の市場で勝てれば世界どこに行っても負けない、とはよく聞きます。しかし翻って、私たちの生活の品質はどのようなものなのでしょうか。生活の質が高いとはきっと次のようなものなのでしょう。心に喜びがあり、平安があり、前向きで元気で将来には夢を持ってなどなど。これを申命記では「命を選ぶ」と表現します。霊の親である神さまの気持ちが今あなたにそのようにして向けられています。さてその高品質の人生はどこにあるのでししょうか。

 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。(30:14)

 「あなたのごく身近にある」と言われています。安心しました。高い交通費を払って遠い所まで出かけて行かなくてもいいようですね。しかも、「あなたはこれを行なうことができる」と保証付きです。では実際はどのようにすることなのでしょうか。見て行きましょう。

家族を大事にせよ

 ……あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き(30:19)

 「あなたもあなたの子孫も」とは、あなたから家族はスタートし、子孫がそれを拡大させることを意味しています。「あなた」とは夫です。妻と共に家族の誕生です。アダムとエヴァが史上初の家族でした。子どもは順序から言ってその後の話です。聖書全体の考え方でもありますが、家族を重要視しなければなりません。家族が幸せなら人は幸せなのです。幸せの重要な条件の一つは家族単位であることです。それには時間とイベントを共有することです。まず夫と妻は二人きりで何か楽しみを共有するべきです。その場合、子どもがいるとすれば第三者に預けたらいいでしょう。私たちの教会では、まだすべてのチャペルにおいて完全には実現してはいませんが、方針として親子が完全に分離しての礼拝を実現しています。特に若い母親は24時間の子育てです。疲れます。解放される時間が、つまり休みが必要です。聖書は休むことの重要性をたびたび強調しています。そこで安息日の規定があります。土曜日は「休んでもいいですよ」ではなく、「休まなければならない」(申命記5:6)です。安息日と主の日は異なります。安息日は休む日であり、主の日はご復活なさった主のお力をいただこうという日です。この組み合わせが理想です。警察や消防などは例外的でしょう。神さまからのメッセージや精神を正しく汲み取らなければなりません。安息年の規定もあります(レビ記25:4)。土地を毎年毎年使い続けていればやがては何にも栄養のない土地、つまり荒れ地になってしまいます。人間も土地も休みを必要としています。休みがあればこそ、良い働き、高品質の生活ができるというものです。そういう高品質の家族の中に子どもは立派に育つはずです。子どもについてはこう言われています。

 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。(20:18-21)

 かなり厳しい言い方ですね。しかし誤解をしないでほしいのです。聖書の読み方についてです。この部分だけを抜き出してしまうと神さまからのメッセージを曲げてしまいます。たとえば「『神はいない』と聖書に書いてある」という言い方は正しいですか?イエスかノーか、さあ、どちらでしょうか。正解は次のみことばを紹介してお分かりでしょう。

 「『神はいない』と愚か者は言っている」(詩篇14:1,53:1)と書いてあるのです。

 文脈を無視しては正しい読み方とは言えません。先のみことばの前には

 ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、……(15-17)

 とあり、さらにその前には

 あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、……彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。……(10-14)

 とあります。当時の文化において起きていたことですが、前者は複数の妻がいる家族、後者は無理矢理結婚させられた妻がいる家族。どちらも愛情に関して難しい局面を私たちは容易に想像することができます。このような中で子どもはどのように育つのでしょうか。愛情の豊かな家族の中で18ー21節の規定が適用されるようになることはないでしょう。家族とはその中で愛を育むことが必要です。そうであってこそ「命を選んでいる」と言えるのです。

正しく生きよ

 正しいってどういうことを実際には指すのでしょうか。AさんとBさんの二人がそれぞれ自説を主張しています。AさんかBさんのどちらかが正しいのか、AさんもBさんも正しくなく他に正しいことがあるのか。正しいかどうかを確定することは時に難しいことではありますが、非常に大切です。なぜなら、私たちはだれも正しくないことをすることを願ってはいないし、正しくないことが歓迎される社会は住むには耐えられない世界であるからです。練習問題を解いてみましょう。

 あるラビのもとに「聖書のすべてを片足で立っている間に教えてください」という希望が寄せられました。彼はこう答えました。「だれでも自分にしてほしくないことを人にするな」と答えました。これはご存じ、「あなた自身を愛するように、隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)を否定的に表現したものです。なぜ?「隣人を愛しなさい」と言われるよりは、「全世界を愛しなさい」と言われる方が、そして「全世界を愛そう」と言う方が楽であるから。(注:隣人とは見ず知らずの人を指すのではなく、身近にいる人の事です)しかしもっと難しいのは「自分を愛する」ことです。私はよく講壇から「自分を愛する」ことをしましょう、と言いますが、時々誤解されます。「自分のしたいことだけをしていていいんだ」とか、「エゴイズムも許容されているんだ」というふうに。もちろんそれは誤解です。もう一つ「自分を愛する」メッセージは聖書のメッセージとは異なるという批判がキリスト教界にあることです。それは誤解!ヘブル語の構文や文法からもそれは誤解です。「神を愛する」(6:5)の「を」は「エット」で目的格です。一方「自分」と「隣人」を、の「を」は一括して「レ」、「へ向かって」の意味です。したがって「隣人を愛する」ことを正しいとし受け入れるなら、「自分を愛する」ことも正しいことと受け入れなければなりません。

 このように話して来たのは正しい、を確定することのやっかいさを確認したかったからです。でもやっかいだからと言っていいかげんに取り扱うのは間違っています。あくまで正しく、あらねばなりません。

 正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。(16:20)

 正義を、ただ正義を、と二度も表現されています。正義を追い求めることが祝福を受ける条件です。正義を追い求める者をいつも神さまは支持します。あなたが正義を追い求めているとき、いつも神さまはあなたの味方です。何をするにもあなたの中には平安があるでしょう。それには、まずあなた自身をさばくこと。

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。(16:18)

 上の文章を、

 あなたのために(レハー)さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない、と訳することが可能です。さばきつかさとは裁判官であり、判事。つかさたちとは行政官。三権分立を思い出させてくれますね。司法と行政が登場するから。では立法は?この場合不要です。神さま自らお造りになっておられるから。律法がすでにあります。さて、一人のラビが訴えを受けました。「隣の敷地から木の枝が私の敷地に伸びています。裁いてください」しかしラビは「あした来なさい!」。「先生はいつも『あした、来なさい』ですね」彼が戻って来る間にラビは自分の敷地から木の枝が隣地に伸びているのに気がついて切りました。ラビは自らをさばきました。新約聖書的な言い方にすれば「まぜ自分が悔い改めるべき」と言っています。申命記的な表現でした。

強くあれ、雄々しくあれ

 モーセ(申命記の著者)がヨシュアに伝えておきたかったことは二つ。一つはいままで神さまがイスラエルにすばらしい恵みを数多く与えてくださったことを忘れてはいけないということ。恩知らずになってはいけないということ。もう一つは「約束の土地」を下さると言う約束があるにしても、ただ、ぼやーっとしていれば入手できるわけではないということ。イスラエル国防軍へ入隊した新兵には二つのものが渡されます。銃と聖書。前者は強さの、後者は勇気の象徴です。では今私たちは銃の練習をするべきでしょうか。そうではありません。内面的な力、すなわち自制する力こそが求められています。弱い私たちは自分の心をどのくらい制御できているのでしょうか。自制心がしっかりしている人にはどんな問題も恐れる必要はありません。

 元マイアミ・ドルフィンズの選手であったノーム・エヴァンスは、怒りについて次のように証言しています。「プ□フットボール選手が腹を立てることは実際に危険です。選手が怪我をするのは、そのような時だからです。もし相手の選手を怒らせることができたら、その選手は私にばかりに気を取られクォー一ターバック(注1ボールをどう動かすかを判断する最も重要な選手〕からは目が離れます。クォーターバックを防御することが私の役目です」

 年代の終わりにサンディエゴ・チャージャーズで活躍したマイク・フラーも、同じようなことを言っています。「知恵のある相手選手は、いつも私たちを怒らせようとしていたよ。彼らは、もし私たちが怒りの感情をもってプレーするようになれば、より容易にトリックプレーがかけられることを知っていたのさ」

 かつて南カリフォルニアの柔道チャンピオンで、今はメキシコで宣教師として活躍しているボブ・ハツチンスはこの考えに同意しています。「私は並の柔道選手でしたが、相手選手を怒らせる方法を身に付けてからは腕を上げ、最後はチャンピオンにまでなることができました」

 怒りとは恐ろしいものです。怒っている時は、人はまちがった判断を下します。愛する者を言葉で傷つけます。過剰に反応します。必要以上に子供を折橿します。冷静な時にはしないようなことをしでかすのです。(『クレイ2003.10)

 1964年のことです。人気スターの高島忠夫・寿美花代夫妻の長男〔当時5ヶ月〕が、住み込みのお手伝いさん(当時17歳)に、風呂に沈められて殺害されるという事件が起こりました。殺人の動機は、妬みでした。当時夫妻は、長男の育児を付き添いの看護婦さんに任せていました。それを見たこのお手伝いさん、自分は無視されたと錯覚し、犯行に及んだと言います。……嫉妬とは恐ろしいものです。入の心を腐らせるだけでなく、このように殺人まで犯させるのです。(『クレイ2003.10)

 モーセにとってミリヤムはお姉さん、アロンはお兄さんです。その二人が、モーセにクーデターを計りました。扇動したのはミリヤムで、アロンがそれに同調しました。理由は「クシュ人の女を妻にしていた」でした。最初の妻チッポラのことで、「クシュ人」とは、エチオピヤ人のことです。相当の美人であったのでしょう。しかし、外国人の女を妻にしているというのは貴めるための口実に過ぎません。本当の理由は妬みです。彼らはこう言っています。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでし上うか」モーセについて聖書はこう言います。「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」

 イエスさまは酷い仕打ちを受けました。彼には罪がありません。これも妬みと言う罪のせいです。怒りにしろ、妬みにしろコントロールされなければ大きな問題を起こします。他者のみならず、自分をも深く傷つけるのです。ではどのようにしたらコントロールは可能でしょうか。生まれながらの私たちにはその力が備わっていません。聖霊によります。イスラエル人がセルフコントロールできたとき、それは昼間は「雲の柱」、夜は「火の柱」に導かれた時ででした。両者ともに聖霊さまの象徴です。聖霊さまのお働きがあなたに利益を確実にもたらすのです。あなたの人生の質を高めてくれるのです。