243最後に笑う者はだれ?

  聖書箇所[ルカの福音書9章18ー36節]

 辛いことや悲しいことが、生活していると私たちを襲うことがありますね。きっとこれが人生と言うものなのでしょう。では諦めることがいいのでしょうか?いいえ。最後に笑えばいいのでは。そうです、人生とはマラソンのようなもの。長い間にはいろいろな展開があります。でも最後に勝てばいいのです。そうでしょう。途中まで勝っていてもゴール前で抜かれればもともこもないのです。でも最後に笑うっていったいどういうことなのでしょうか。それは人々から尊敬されること。「あなたがいてくれたから、今日の私があるの……」と言ってもらえることです。まかり間違っても「あなたがいたから、こんなことになった。あなたなんかいない方がいいのよ」なんて言われないことを望みます。最後に笑うとは、決して多くのお金を持つようになることではありません。立派な地位を得ることでもありません。神さまの前に人々からの尊敬を多く勝ち取ることです。さて私たちが仰ぎ尊敬するイエスさまはどのような人生を過ごされたのでしょうか。飼い葉桶に寝かされ、ヘロデ王の刺客から逃れるためエジプトへ亡命、そして母マリアも彼の使命を理解せず、最後は十字架の上でみじめな刑死。しかし、「後の者が先になる」というみことばの通りに、三日目にご復活。最後に勝利!
 フランス皇帝ナポレオンポナパルト(18ー19世紀)はこう言いました。「アレクサンダー、シーザー、シャルルマーニュ、そして余は偉大な帝国を作った。何によってか。武力によって。しかし十何世紀も前にイエス・キリストは愛によって帝国を作った。そして今日でも多くの人が彼のために死ぬ」
 私たちはそばらしい模範を得ています。どのようにしたら最後に笑う者になれるのか、学びましょう。

私は何者かを知る

 「私は何○○です」と正しく言える人の心にはいつも平安があります。

 彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」[18-20]

 上の箇所ではペテロが解答を求められています。このような質問に答えるためには自らのアイデンティーが確立していなければなりません。つまり「私は何者か」を知っていなければなりません。30年程前に私はある教会で伝道集会を数多く開いていました。メッセージを聞いてくださった方々と個人的に話をします。私はこう尋ねます。「あなたはイエスさまを信じますか?」「うーん」「いかがでしょうか?」「うーん」首をひねるばかり。ついに「家に帰って、お母さんに聞いてみないと……」このような返事をする人たちにたくさん会いました。もちろん彼らは大人、であるはず、でも……。私はあなたが大人であると信じます。ですから聞いてください。聖書はあなたは何者なのかをこう教えています。神のもとで生まれ、やがて神のもとに帰る者。そうです、その通りです。でもこれは実際のところどのような意味を持つのでしょうか。あなたを正しく評価できる方は天地の造り主である神のみ、という意味です。多くの人が周囲の意見に惑わされ、意見や考え方をふらふらさせています。どうしてそんなに腰が定まらないのでしょうか。どうしてそんなに他者の言うことに影響を受けてしまうのでしょうか。もしその人が言っていることを間に受けて悪い結果になったらその人は責任をとってくれるのですか。またその人はあなたについてあなたの置かれた状況についてどれほど正しく認識しているのでしょうか。全能の、あなたを造った方だけがあなたを正しく評価することがおできになります。あなたを愛する、あなたの親である神さまはあなたの正しい歩みを見て、最後には笑えるように責任をとってくださいます。

私のミッションは何かを知る

 あなたはいかがですか、ご自分のミッションを意識して生活をしていらっしゃいますか。ミッションとは使命、自分の果たすべき勤めです。これを理解している人はいつもいきいき、はつらつ。イエスさまの場合を考えてみましょう。肉の父親ヨセフは早くに亡くなったので、いわゆる母子家庭でした。弟たちや妹たち(人数は不明)の面倒を見ました。いわばお父さん役を勤めました。当然、一家の稼ぎ手であり、大工をしました。女性は働くことが難しいので彼の肩にはずっしりと重いものがありました。でもこれらが彼のミッションでした。同時に律法の勉強もし、ついに救い主の道へと進まれました。彼は私たちの模範ですね。
 立原正秋の随筆『坂道と雲と』の中に女性の後ろ姿について書いてあります。化粧をはじめ、髪型、服装など前面を美しく見せようとする女性は多いが、後ろ姿の美しい人は少ない、と言うのです。これは男性にもあてはまるでしょう。後ろ姿こそは内面を表します。子は親の後ろ姿を見て育つ、と言います。私たちはイエスさまという最高の後ろ姿を見ることができるのです。イエスさまが「私について来なさい」(23)とおっしゃってくださっています。なんという幸い!さて、平行して複数のミッションを私たちは持つものですが、あなたは父親ですか、母親ですか、学生ですか。あなたには神さまが用意して下さった複数のミッションがありますよ。このことを理解する者は人生に、いわゆるぶれがありません。ぶれてばかりいると最後に勝つことが難しいのです。どうぞ周囲を見回してください。あなたの助けを期待している人がいることに気がつくはずです。あなたは必要とされています。神さまはあなたを地上に招くにあたってミッション、すなわちあなたにしてもらいことをすでに用意して下さっているのです。神さまに起源があるミッションであるなら、神さまご自身が最後まで応援してくださるでしょう。途中疲れても大丈夫なはずです。神さまにはあなたを助ける責任があるでしょうから。

私の障害物は何かを知る

 あなたが前進しようとする時に、何か障害物がありますか。あるいはあったでしょうか。私は正しいことをしようとしているのに、今しているのに、なぜ?と、ついつぶやいてしまうようなこと。でも障害物こそがあなたを強くしてくれます。勝つためには、そして笑うようになるためには何にも負けない強さが求められます。障害物とは困難であり、辛苦の体験です。でもこれを私たちは好まないのです。究極の困難とは何でしょうか。

 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(24)

 究極の困難とは何でしょうか。それは命を奪われること。命を守るためなら私たちは何でも差し出してしまいます。いのちに最後まで執着するのが私たち人間の偽らざる姿。

 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(23-24)

 このようなことが言われるのは、いかに私たちは困難や障害物を毛嫌いしているかの証明です。「私は困難が大好き!」という人はなかなかいないものです。でももう一度言います。困難はそして障害物はあなたを最後には勝てる者にする強さをあなたの中に育ててくれます。

 ▲金庫破りの名人が刑務所を出る。各地で同じような手口で金庫が破られる。担当刑事は追跡を始める。が、名人はある町で、銀行家の娘と恋をし、金庫破りから足を洗おうとする。ある日、その銀行の新型金庫に子供が閉じ込められてしまう。子供の生命が危ない。名人は専用の工具を取り出し金庫を開け、その場に居合わせた刑事に自首しようとする。刑事は「あなたを存じ上げない」といい残して立ち去る。(「改心」)
 ▲肺炎にかかった若い女性がアパートの窓から外を見て言う。「最後の一枚が落ちると、私もこの世にさようならするに違いない」。れんが造りの壁に、ユタの枯れ葉が五枚残っている夜、嵐(あらし)になる。朝、一枚が残った。勇気付けられた女性は元気を取り戻す。実は最後の一枚は、事情を聞いた老画家が壁に書いたものだった……(「最後の一葉」)
 短編の名人と言われたオー・ヘンリーの代表作のあらすじである。彼は短期間にこの種の短編小説二百七十二作も書き上げた?いずれも「落ち」が巧妙な切れ味鋭い作品ばかりだ。「刑務所での充電期間がなければ、このような優れた作品は生まれなかったに違いない」「オー・ヘンリー傑作選」(岩波文庫)などを翻訳し、この二十年来、彼の作品に付き合って来た英米文学者の大津栄一郎はは言う……「転々とした人生体験の後に、刑務所でじっくり考える時間を持ち、これが作家への塾生期間になったようだ」と大津はみるのである。(『日本経済新聞』2000.1.19)

 障害物もまた良し、困難もまた良し、ではありませんか。

私を助ける力はどこから来るかを知る

 実際に困ったときにいったい助けは、また必要なエネルギーはどこから来るのか、を知っていなければ前進は難しいでしょう。いわばガソリンスタンドの位置をいつも把握していなければなりません。

 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。(28ー36)

 イエスさまはここでモーセとエリヤと語り合っています。何を?十字架と言うミッションが父なる神さまからのものであるかの最終確認です。もし神さまのみこころを行うのなら何にも恐れることはないのです。途中で燃料切れになることもあり得ません。今、あなたはどこでエネルギーを補充してもらえるでしょうか。ご存知のはずです。それは礼拝の中で。神の霊、聖霊さまがあなたを包み、あなたの中を満たし、天からの力で圧倒するのです。
 静岡県に聖隷福祉事業団があります。創設者は長谷川保は日本で最初のホスピスを作った人です。また日本で最初に特別養護老人ホームを作った人でもありますが、「エデンの園」という有料老人ホームも作りました。彼はあるとき専務理事に「私の人生はあと十年くらいだと思う。その間にエデンの園を100作りたい」と。専務理事は「はい、分かりました」と返事して一生懸命に働きましたが、結果的には11ケ所でした。長谷川氏が亡くなる少し前に専務理事がそのことに触れると長谷川氏は高笑いして言いました。「一割できれば成功。私たちは失敗を恐れるばかりに小さくまとまり過ぎてはいないだろうか」
 もし神さまの大きさを信じるなら私たちにはいつも必要な力が与えられるでしょう。その力によってあなたは最後には笑うのです。