244  イエスさまのスタイル

 聖書箇所[マルコの福音書10章42ー45節]

 人には自分を大切にする義務があります。なぜって。人は神のもの、神の財産だから。ゆえに自分への対し方は神への対し方と同じと言えます。同時に他者への対し方も。そこで今回は自分をどう取り扱おうかをテーマに考えましょう。それには明確な目標が必要ですね。すばらしい目標が私たちにはありますね。それはイエスさま。最高の人間!最高峰の人間!キーワードを使ってイエスさまの(生きる)スタイルを学びましょう。

人を自由にする

 キーワードはしもべ。マルコの福音書10章42ー45節をお読みください。

 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。(43-45)
 
 イエスさまは人に仕える方でした。それは自由な気持ちにさせること。そのためにご自分の賜物、時間、労力をささげ、ついには命を提供されました。人を自由にする者はどのような恵みを受けるのでしょうか。人々から強く歓迎されますよ。「あなたがいないと、ほんとうに困る」と人々は口々に言うでしょう。あなたが部屋に入るとパアーと明るくなります。もちろんだれもがそのことには気がつきます。なんと嬉しい光景でしょう。人々は実際にあなたの前でリラックスさせ、顔にはスマイルが絶えません。あなたはこのような人になりたいですか。自由の反対語は何でしょうか。束縛?でしょうか。関連する言葉に操作があります。manipulationと言いますが、隠れた動機と欲望とで人を動かすことです。操作されたかどうかは簡単に見分けがつきます。結果がそれを証明します。操作された人は苦い思いを経験するからです。「私は利用された」という思いです。操作は人を道具として使います。道具ですから、役に立たないと判断した時点で迷うことなく捨てます。でも捨てられた人はたまりません。これは一種の病気です。病気ですから名前があります。それは「神になりたい」病です。人を人と見る私たちはこう言うことができたら良いでしょう。「もし、何か、ご用がありましたら、どうか私を使ってください」目を見ながら握手をして、このようにあなたの友人に言うのはいかがでしょうか。あなたはその友人を自由にします。彼は自由を満喫し、あなたに大きな拍手と感謝をささげるでしょう。でも先のように私たちは実際に無理なく言えるものなのでしょうか。「もし、何か、ご用がありましたら、どうか私を使ってください」と口は言いつつ、顔の筋肉はピクピクしているのでは。現実にありそうです。まず自分自身が自由にならなければなりません。それには自分の中にこの病気があると知らなければなりません。病識と言われるものです。つまり自分が病気であるという意識です。これを原罪と言います。最初の人アダム以来、すべての人にはあるものです。これを罪と認識して悔い改めましょう。このときにあなたは真のクリスチャンになります。あなたの中にはすばらしい平安が訪れます。
 彼は21歳の若さで大きな船のオーナーになりました。この年頃は全能感に捕われやすいもので、例にもれず彼は高慢でした。道徳や宗教をばかにし、つまりキリスト教を見下していました。つまり「神になりたい病」にかかっていました。ある日、その船グレイハウンド号は激しい嵐に遭遇しました。9時間にも及ぶ格闘の末、船員たちも彼もあらゆる努力を諦めました。この時彼ははじめて祈ったのです。神にへりくだった瞬間でした。彼の祈りは聞かれ、船は助かりました。この後、イギリスに帰り、次の有名な歌を書きました。

 「おどろくばかりのめぐみなりき この身のけがれを知れる我に」

 彼とは奴隷売買の商人をしていたジョン・ニュートンです。

人の中に神を見る

 キーワードはアブラハムの子。ルカの福音書19章1ー10節をお読みください。

 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。(8-9)

 アブラハムの子ってどういう意味でしょうか。選びの子の意味です。イエスさまはこう言われました。

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

 なぜあなたは選ばれたのでしょうか。神のかたちを回復するため。ザアカイはそのかたちを表現しました。イエスさまとの出会いがそうさせました。それが8ー9節に表現されています。彼の中には本来このような性質が存在していたのです。あなたはこのことに驚きますか。もう一つの質問。あなたの中にもこのような美しい性質があると思いますか。答えはイエス!あるのです。ただ生まれながらの状態では機能しません。故障しているからです。イエスさまは故障を直すためにこの世界に、またあなたのもとに来てくださいました。あなたがイエスさまを救い主として受け入れる時、あなたの中の美しい性質は機能しはじめるのです。なんとすばらしいことでしょうか。ハレルヤ!あなたはそれを信じますか。そのすばらしい性質とは、愛、思いやり、寛容、ゆるしなどなど。もしあなたが他者の中にこのようなすばらしい性質を見てとるなら、あなたも同じように見てもらえます。あなたは人々から大層好かれるようになるでしょう。そのようなあなたへとご自分を変えようとあなたは望みますか。自分への対し方はとても大切な、生きるときのテーマです。またこのような生きるスタイルを有している者は人間関係の中で誤解を避けやすいことも恵みの一つです。

 「君は、お年寄りが心を開いてくれないと嘆いているね。しかしそれは君の心の硬さを、お年寄りが反射しているだけなのだ」浜田先生の、思いがけない指摘だった。「君は吉川英治の『宮本武蔵』を読んだことがあるかね?」「いいえ、ありません」「こんな場面がある。修行中の武蔵が道を歩いていると野良仕事の老人が、異様な殺気を発していた。この殺気は何事か、と武蔵は身構える。老人は答えていわく『あんたが感じた殺気は、あんた自身が発したものじゃ、ワシはそれを鏡のように返しただけだ』と。なにを言いたいか、わかるかね」「君に返したわけだ。表情が硬いとか、なにを言ってもガンコで聞いてくれないとか、君がお年寄りに感じたことはみんな、君自身の心のあり方を映しているのだよ」「うーん」ケンジを気づかってか、先生の歩調がゆっくりになった。「どうだね、思い当たるかね」「そう言われてみれば」「他人がどう見えるかは、自分の心のあり方しだいだ。つまり、君の周りにいる人たちは、君がどんな人間なのかを映してくれる鏡なんど。これは老人の話ばかりじゃないよ。だれも愛してくれないと嘆く人ほど、人を愛していないものだ。(『楽しくなくっちゃ介護じゃない』    )

 私の教会では礼拝のプログラムのはじめの部分でこういう歌を歌いながら互いに笑顔で握手を交わします。

 「♪あなたを 主イエスの愛で 心込めて 愛します。あなたの中に 主の姿が 映し出されているから♪」

 とっても気持ちの良い時間です。だれもが心の熱くなる時間です。ではどのようにしたら人の中に神を見ることができるのでしょうか。それはまず自分自身の中に神を見ること。神の形を見ること。どうか、あなたにお願いします。あなたの中には良いものがありますよ。それを分かってください。神の愛を感じてください。あなたの中には神の愛がありますよ。
 ミッションバラバの金沢泰裕牧師はクリスチャンホームに育ちました。中学生の頃まではお父さんに連れられて教会に通い、聖歌隊で歌ってもいました。しかしやがてワルの仲間に入り、ついにやくざになります。悪の限りをつくし、覚醒剤、脅し、入れ墨などなど、どんどん悪い世界にはまって行きました。その後命を狙われるようになり、大阪から東京へ逃げて来ます。しかしここでもやくざ家業は捨てきれず、悪いことばかりしていました。ある日、「父、危篤」の連絡が来ます。すぐにも死にそうな父親の姿を前に彼は初めて真剣な祈りをささげます。「僕みたいな悪党の命と引き換えに善良なお父さんを助けてください」神さまが彼に触れた瞬間でした。すぐに教会に行き、悔い改めの祈りをして救われました。彼の中にある美しいものが復活した瞬間でした。もともとあったものが表に現れました。私たちの日常の生活の中に、神の干渉があります。謙虚な気持ちでいるときに私たちは気がつくことができます。あなたは選ばれた人であるから。もしあなたが自分の中にこのような美しいものを見ているなら、それは他者を見るときの余裕となります。

人の中にユニークさを見る

 キーワードは「人の子」。

 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」(ルカ9:22)
 
 あなたは人の子ですか?戸惑わせられるような質問ですね。犬の子ではありませんから、そういう意味では人の子。イエスさまが「人の子」と自称されるとき、特別な意味があります。神に起源のある、特別な使命を持った者、すなわち救い主。ところであなたにお勧めしたいのは、一般的な意味で人の中にユニークさを見てあげる態度、そのようなことができるあなたであろうとすること。ユニークさを人の中に見てあげると、その人はあなたに大変感謝をするようになるでしょう。「そりゃー、ほめられたら、だれだってうれしい……」、確かにその通りです。でももっと重大な事が隠されています。その人は自尊心を持つようになるか、あるいは少なくとも持てるようになるためのお手伝いをすることになります。これは実に重大なことです。というのは自尊心がないと人は生きてはいけないからです。つまり「自分なんか、いなくてもいいんだ」とほんとうに思ったら、人は実際には生きていくことは不可能です。この重大なものをあなたは人にプレゼントするのですから、これはこれはすばらしいことではありませんか。あなたは愛されますよ、好かれますよ。ここで自尊心について考えてみましょう。自尊心がない人は、厳密に言えばそれに悩んでいる人は、あるいは健全な状態でない人は、いったいどんな生活をするのでしょうか。それは攻撃!人を攻撃する生活です。人には二種類あります。自分と他者。まずは自分を攻撃します。その症状は劣等感。「おれはだめな人間なんだ!」と責め続けます。しかしいつまでもこれをし続けますととても辛いので、まもなく返す刀で他者を責めはじめます。成功を妬み、欠点を探し出し追求し、足を引っ張ります。このような人はあなたの近くにいませんか。あなたに厳しく当たる人。あなたをいつも裁く人。あなたの成功にけちをつける人。そうです、いますね。罪の世界に私たちを生きています。だからいるのです。でも正しく自尊心を持っている人は決して妬みません。自分のすべきことを分かっているし、それを成し遂げるために忙しいので他者の悪口を言ったり、足を引っ張ったりする時間も余裕もありません。ひたすら健康な精神と生活を維持します。このような健康な自尊心は自分の中にユニークさを自ら発見する中から育てられるものです。ではユニークさはどのようにして他者の中に見つけられるものなのでしょうか。何か一つか、二つ、他の人と異なるものがあればあなた自身がユニークな存在となります。まずこのことをあなたはすべきです。これは好き!、興味がある!、楽しい!といったものを愛したらいいでしょう。それであなたは十分ユニーク!イエスさまも人の子としてはごくごく普通に生きておられました。お父さんとお母さんがいて、弟たちと妹たちがいて、一家団欒はおそらく6人以上であったでしょう。お父さんが早くに亡くなったので母子家庭。でも、これも珍しいことではありません。一家を背負った、これも世間にはよくあることです。弟たちと妹たちが自立したので自分の使命に生きはじめる、これも普通。でも特別な「人の子」。たった二つのユニークさのために。それは罪がないことと救い主であられること。これらを除くとごくごく普通の人の子。でもイエスさまはユニークな人。あなたもユニークであってください。私の教会グループには現在9つの教会があります。それぞれ個性を追求してほしいと願っています。それぞれ他の教会と違ったプログラム、文化、方法などユニークであってほしいと祈っています。そこに健全な自尊心が育つはずです。巨人の川相昌弘選手が送りバントで世界一を達成しました。彼はこう言います。「送りバントは自分が死ぬことだが、自尊心だけは捨てない」。自尊心、それは自分を愛すること。