250 良いものだけを造る神

聖書箇所[創世記1章31節]

 堕落前はライオンも草を食べていた、と言いますと驚かれるでしょうか。

 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。(1:29-30)

 堕落後はこう表現されています。

 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。(3:17-18)


 このような事情で、ノアの洪水の後には肉食が許されています。

 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(9:3)

 草食と肉食とではかなりイメージが違うのではないでしょうか。神のお造りになる世界はいつも美しく、残酷なものはありません。神の世界を表現した聖書箇所があります。

 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ11:6-9)

 神は良いもののみをお造りになります。

 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。(創世記1:31)
 
 神に愛されるあなたは神の造られた良いものを楽しむ、これが正しい人生の生き方です。今回はその三つを学びましょう。

いのち

 いのちは神がお造りになったものです。クローン人間などが取りざたされていますが、人間が作るのはすでに用意されている材料を使って、すなわちその組み合わせを変えて作るという意味です。神のなさる創造は無からの創造です。世界の始めは、と言いますと、こうあります。

 地は形がなく、何もなかった。(創世記1:2)

 ヘブル語で、「形がなく」とはトーフー、「何もなかった」とはボーフー。豆腐が暴風に会い、めちゃめちゃになった状態を想像してみてください。これが世界の始め、というよりもはじめには何にもないのでめちゃめちゃになった豆腐でさえも存在しません。分かったような分からないような。とにかく無からの創造は神にしか不可能。さてまず土を神はお造りになりました。そしてこの土にフーッと息を吹き掛けます。すると人間が生まれました。いのちある人間が誕生しました。

 その後、神である主は、土地のちり(アダーマー=adamの語源)で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。(創世記2:7-8)

 ここでいのちが生まれますが、その内容はどのようなものでしょうか。

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(1:26-27)

 神のかたちこそがいのちです。では神のかたちとは?

 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。(エペソ4:22-25)

 真理に基づく義と聖とは神が教える義と聖です。実はこれらは私たち人間の良心に刻み込まれています。世の中に不正が跋扈しています。不条理があります。あなたはそのようなことに悩みませんか。悪いことをしている人が得をし、正しく生きている者が損をするなんて。あなたは他の人に親切にするときに、きっと心の中で純粋に愛そうとお考えでしょう。お返しを求めないでただ愛そうと。それは神があなたに与えた正常な良心の活動です。これを意識して生きる、これがいのちを楽しむことです。人間としての誇りがここにあります。誇りなくして人生は存在できません。

人間関係 

人間関係と聞くと、楽しむことと遠く感じられるかも知れません。でも本来は良いものであり、楽しいものです。さて神の取扱いの中では人間は別格です。他の生き物はただ造られたとしか書かれていませんが、人間は違った書き方です。わざわざ男と女とにと。

 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。(創世記1:25)

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(1:27)

 ここで二つのメッセージを受け取ることができます。一つは人は互いに異なるものとして造られた。もう一つは異なるゆえに互いに必要としている、ということ。この二つのメッセージを理解するときに良好な人間関係が生まれます。それにしても私たちは他の人と同じようになろうとする傾向があるのではないでしょうか。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」というように。

 『カメレオンマン』という映画があります。主人公はニューヨーク生まれの貧しいユダヤ人レナード・セレグ。彼には特殊な能力があります。同化する能力です。医者たちの中にいると医者になり、金持ちたちの中にいると金持ちになり、黒人たちの中にいると黒人にさえなってしまいます。なぜこういう能力があるのか、と女医ユードラ・フレッチャーが研究を始めます。彼女が聞きます。「なぜいっしょにいる人と同じになるの?」「安全だから、好かれたいから」と彼は答えます。精神科医である彼女は愛情を注ぐことで彼に自信を取り戻させようとします。ついに彼はもう爬虫類のような生き方はやめようと普通の人間になります。二人は婚約します。

 彼の心理は普遍的なものではないでしょうか。周囲の人たちと一緒の行動を取っていると安心感があるのです。でもそれではいつも不安と戦っていなくてはいけません。いつもいつも同じになっていなくてはいけないから。それを上手にできるかどうか。究極的な解決、それにはきっと愛が鍵なのです。

 『ママ、もっと笑って』という詩集があります。 

  お母さんの作っている夕はんのにおい。
  「トン、トン、トン」お母さんの作っているごちそうの音。でも、それは一昔前。
  今は台所に電気なんてついてない。
  あまいにおいなんて忘れてしまった。
  もちろん、ごちそうを作る音なんて聞こえはしない。
  お母さんは理容師。夜遅くまで仕事をしている。
  前までは、お母さんが作った料理を食べていたれど、今は出前。
  お母さんが私からはなれて行く。お母さんが私から遠ざかったいく。

 福島県の小学六年生の詩です。愛情の届く距離にいない親子、でしょうか。

 小学一年生の一郎くんが学校から帰って来るなりお父さんに言いました。
 「パパ、今日はね、クラスで、僕しか答えられない質問があったんだ!」
 お父さんはうれしそうに
 「一郎、お前だけが答えられたのか、すごい!おかあさーん。今日はクラスでだれも答えられなかった質問に一郎だけが答えたんだって!」
 「あーら、それはすごい!それでどんな質問だったの?」
 お母さんは目を輝かせて言いました。すると一郎君は
 「先生が、窓ガラスを割ったのはだれかって聞いたんだ」

 きっと両親ともに一郎君を叱らなかったのだろうと推測します。あなたはいかがお思いですか。のびのびと育っている一郎君なのでは。つまり愛情豊かな環境にいるのではないでしょうか。親と子、母親と父親、友人同士、互いに特色があり、生育のペースも違い、したがって取り扱われ方も異なるはずです。お互いに異なる、という理解を私たちがする時に人間関係はもはやぎくしゃくすることは起きにくいのではないでしょうか。
 
働くこと

 はじめの人は「エデンの園」という名の株式会社(?)で働いています。

 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。(2:15-16)

 そこで収穫される実は自由に食べてよいし、おいしそう。

 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。(2:9)

 ここから二つのことを学ぶことができます。一つは、仕事。すなわち働くことは神からのプレゼントであるということ。ゆえに働くことができることに感謝しなけれなりません。もう一つは給料は第一義的に報酬ではないということ。なぜなら人が働く前にすでに実はなっているから。これはさらにもう一つのことを教えています。働いて与えられる報酬は給料ー確かに重要なもののひとつではありますがーだけではないということ。ボランティアの方々の目は実に気持ち良く輝いています。まるで「私は、お金のために働いているんじゃーない」とでも言いたそう。それは真実です。ではこの場合報酬は何でしょうか?それは人々に喜んでもらうこと。実はこれは人間としては最高の報酬です。他には天国に宝を積むというものもあります。いかがでしょうか。決して報酬は一種類だけではないと分かっていただけたでしょうか。このようなことが分かると私たちは働くことが楽しめるようになるのです。お金のためだけでは決して人間の心は満足できません。
 さて最後にどのようにしたらこれら三つを私たちは楽しむことができるのでしょうか。それはイエスさまを心のまん中にお迎えすること。その時にあなたは新しい人(エペソ4:23)になり、良心が非常に適切に働くようになるのです。心の中心にあれば、それは最高!そのためには「私はイエスさまを一番に愛します!」と告白することです。というのはあなたのためにイエスさまはいのちを捨てて下さいました。あなたは周囲のだれかにこう言ってもらったことがありますか?「あなたのためなら死んでもいいわ」と。イエスさまは十字架であなたのために死なれました。あなたを愛しておられるからです。