251 死について

聖書箇所 [ルカの福音書16章19ー31節]

 ミシガンの三十八歳の母親の話。
 わたしは出産後に出血多量でショック状態に陥ったのですが、その時の部屋の様子をはっきりと認識することができました。自分が診察台の上に横になっているところまで見えたのです。音も聞こえていましたーーーまるで魂が体から抜け出して上から自分を見下ろしているような感じでした。 (レイモンド・ムーディー.Jr『かいま見た死後の世界』評論社)

 臨死体験と言われるものです。ご存じでしょうか。一度死後の世界に行った人の話です。以前はまゆつば物と言われておりましたが、現在では研究が進んで信ぴょう性の高いものと言われております(もちろん偽物の報告も少なくありません)。どのようなものか、典型的な例をもう一つご紹介しましょう。

  「ベッドの手すりから私は抜け出て、病室の天井の一隅にいました。眼下に、お医者さんや看護婦さんたちが慌ただしく病室に入ってくるのが見えました。私の心臓に電気ショックを当てていました」 

 今回は死についてご一緒に考えましょう。二つの意義があるでしょう。
  1)死に直面して慌てないため。
  2)今をどう生きるかを知るため。
 これらは実際には一つのテーマです。あなたがマラソンのスタート地点に立っていることを想像してみてください。「ヨーイ、ドン!」で飛び出しました。その時です。「あれ、ゴールはどこだっけ?」これでは走れません!今を大切にするためには地上生活の終着駅、すなわち死について真剣に考えなければなりません。

 死についての正しい案内書とは何か?正しい案内人とはだれか?

 死に関して正確な情報を載せてある書物は世界にあるでしょうか?本屋さんに行けばその種のものはたくさんあるでしょう。各宗教で説明は用意されているでしょう。ゆえに何が正しいか、何に正しい情報が収録されてあるかを知ることができなければなりません。もう一つの質問は実は実質的に同じことを聞いています。死についていったいだれが正確な情報を提供できるのでしょうか。それは、イエス・キリストです。なぜ?死を、そして死後の世界を経験した方だから。経験者は語る、です。聖書はこの方が死後の世界について正しく語っていると証言しています。

 しかし、これらのこと(聖書、の意味)が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)

 あなたは、正しい案内書が聖書であり、正しい案内人とはイエス・キリストであると信じることができるでしょうか?今ここに一つの事実があります。彼はあなたを愛してご自分のいのちを提供してくださったという事実が。あなたのためにいのちを投げ出す者がいたという事実。ここにあなたの彼への態度が生まれます。

 死後、人はすぐにどこへ行くか?

 ちなみに死とは、霊魂と肉体とが分離することです。
 創世記2章7節と8節とを見てみましょう。「息」を吹き込まれて人間は人間となったと分かります。それまでは、土を原材料とした動物であったのです(ですから動いていました)。「息」は「霊」とも訳せる言葉です。創世記35章18節を見てみましょう。ヤコブの妻ラケルが死ぬときのことが書かれてあります。私たち人間が(正確には地上に)生を受けるとは、霊魂が土を材料とした肉体をもらうことであり、死とは「霊魂」が肉体を離れることであると理解できます。 ー参考:旧約聖書(ヘブル語)でも新約聖書(ギリシア語)でも「魂」、「霊」と訳される言葉は相互に交換可能な言葉でもあります。18節で「魂」とは「霊」の部分をも含めた表現と思われます。人間には「霊魂」がありますが、動物には「魂」しかありません。犬などと気持ちが通じ合うといった感じがありますが、それはこのためです。「魂」を共有しているからです。でも「霊」を持っていない動物は「霊」である神とは交流できないので、礼拝をすることができません。−
 さて人は死んで後、どこへ行くのでしょうか。天国、それとも地獄?正しくお伝えしたいと思います。即、天国や地獄に行くことはありません。死者はみなシェオール(日本語では、よみ)に行きました。創世記37章35節や詩篇88篇3節を参照してください。さらには、

 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(詩篇16:10)

 死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。(同6:5)

 地獄へ行くのではなくてハデスへ、別名「苦しみの場所」、「よみ」、「陰府」、「黄泉」。もう一箇所はパラダイス(ルカ23:43)、別名「アブラハムのふところ」、「慰めの場所」。私たちはだれもこれらのどちらかに行きます。これらはそれぞれ地獄と天国への待合室です。行き先が交差することはありません(16:26)。旧約聖書ではまだこのあたりのことが明らかではありませんでした。死者はみなシェオールに行くと理解はされていましたが。ちなみにこのシェオールを「地獄」と訳すと、イスラエル人はみな地獄へ行くことになり、おかしなことになります。16世紀まで多くの人々に誤解がありました。それはルカの福音書16章23節のハデスを地獄(英語でhell。17世紀の欽定訳King Jamesも、比較的新しいNew Internatinal Versionも未だに)と訳してしまったからです。正しくは人は死んだ後にみなシェオールに行く、そしてこのシェオールは少なくとも二つの部分に別れていることです。ところで金持ちはなぜハデスに行き(地獄へ行く運命を得)、ラザロはパラダイスに行け(天国へ行ける約束を得)たのでしょうか。お金の多い少ないの問題ではありません。彼はエゴストであったのです。ラザロは私たちには分からなくても確かに神さまの目にはパラダイスに行くにふさわしいと写ったのです。私たち人間の目の判断には限界があります。
 シェオールで人はどのように過ごすのでしょうか。ここでの状態は次に行くべき場所を生活を予想させるものです。ハデスに行った人は苦しくてたまりません。やがて地獄ではさらに苦しい状態に置かれます。ヨハネの黙示録20章12ー15節をお読み下さい。パラダイスでは温かい気持ちで神さまからご褒美を待つ状態です。天国で実際にそれをいただけます。ルカの福音書から少なくとも4つのことがシェオールに関して浮かび上がってきます。
 1)人間はある種の霊の形を持っている。というのは金持ちもアブラハムも互いを認識できているからです。
 2)互いに会話が成立している。これはテレパシーの類いでしょう。
 3)もはや新たに善行は不可能(24-25)。最終的な精算所。善悪の言動及びその結果についてもはや変更不可。
 4)ハデスもパラダイスも同一平面に存在する。つまり上下に別れているのではない。

 その後、天国と地獄へ
 天国と地獄について情景を説明することは用意ではありません。もちろん私も訪問したことがありません。でも聖書ではこうあります。

 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(黙示録21:1-5)

 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ11:5-9)(千年王国についての描写と言われますが、天国をイメージするのに役立つでしょう)

 結論
 このように学んで来てみますと、いま私たちには死への二つの準備が考えられます。一つはイエス・キリストをしっかりと信じて罪の悔い改めを確認すること。これによりあなたは確実に天国に行くことができます。もう一つは良い行いに励んでおくこと。これはあなたが天国に到着したときに下ろせる貯金です。私たちはいつか死にます。そしてそれがいつであるかだれにも分かりません。あなたにも分かりません。いつ死を迎えても、「ほんとうに良い人生だった!」と満足しながら逝けるように備えましょう。死に際してあらゆる不安のないように備えていましょう。 

 神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。