254 不正の富で友を作れ

聖書箇所 [ルカの福音書16章1ー12節]

 今回は理解が難しい箇所に取り組みましょう。聖書の中にはこのような箇所がいくつもありますが、その代表的なものです。三つに分けて説明しましょう。

伝統的解釈

 1 イエスは管理人の先見の明を誉めたんだとする解釈。不正は小さかった、つまり無視できることが前提です。
   でもたとえ小さくても不正は不正です。

 2 管理人は実は不正を行ってはいないんだとする解釈。
   これはなんとか不正ではなかったんだとなんとかして説明することに重点が置かれています。しかし8節に「不正   」、そして「不正直」とあるので白を黒と言い換えようとする努力と同じであって無理な解釈と言わざるを得ません   。

 3 イエスはただ「施しをしなさい」とおっしゃりたかったんだとするものです。しかしユダヤ人の生活において施しは日   常生活においてごくごく普通のことであってこんなに手のこんだ言い方をする必要性はないと考えられます。

 一様にこれらの説明は難解、かつ複雑です。真理は万人に理解されなくてはいけない、ゆえに単純なものであって、なぜ複雑なのかは正しい説明ではないことの一つの状況証拠にはなり得ます。昔天動説がおおかたの支持を集めていた時代がありました。これを説明するための数式があるのですが、見せられれば「うん、なるほど、太陽が地球の周りを廻っているんだ、うん」とうなづいてしまうもの、ではありました。でも大変複雑!それに比べて地動説を説明する数式は簡単です。真理は本来簡単なもの、であるはず。簡単に理解するための鍵を知らせましょう。

理解するための鍵

 1 ラビの話し方の特徴。

 ラビは非常に権威のある存在です。ユダヤの社会においてラビたちは大変な尊敬を集めています。生活即宗教の彼ら、神のことばとしてラビの話を聞きます。このようなラビの話し方の特徴を知っておく必要があります。なぜならイエスはラビであったから。ラビが話すことの中心は、特に例え話においてはたった一つ。それは「賢くあれ!」。正しいか正しくないかに焦点は当てられてはいません。このたとえ話がなされたのは人々に「賢くあれ!」と言わんがためのものです。では正しいか正しくないかはどうでもいいことなのかと問うかも知れませんが、どうでもいいわけではありません。それはそれで非常に重要なテーマですから、それにふさわしく取り上げるべき時に取り上げます。ただここでは「賢くあれ!」と話していらっしゃるのです。極めて実際的なのがユダヤ人です。実際的とは日常の生活に密着した有用な考え方をするという意味です。他に有名なのはローマ人です。インフラの整備と言う観点からすれば現代の日本よりも進んでいた面さえあります。たとえば上下水道がかなり整っていました。川から水を水路で町に引き、かつ水洗トイレがすでにありました。道路。帝国の国境へストレートに伸びる舗装道路。戦車が猛スピードで駆け抜けて行きました。2000年前のことです。他のたとえ話ではきっとラビの話し方にはきっと納得が行くのではないでしょうか。夜中にパンを求め、ドアをしつこくノックする人の話(ルカ11:5-13)、祈る時に簡単に諦めてはいけないと教えているのです。文脈から明らかでしょう。ドアは鉄製か、木製かなんて問うのは本質から離れています。パンはフランスパンか食パンかを問うのも同様です(もちろん時代考証を無視していますよ)。放蕩息子の話(ルカ15:11-32)はいかがでしょうか。よく考えてみれば兄息子の方が真面目であったのではないでしょうか。でも放蕩した弟が高く評価されていますね。人生の危機においてこそ利口に振る舞いなさい、というメッセージがここにはあります。先の例でお分かりのように、ノックしたドアはアルミ製であったか、鉄製であったか、はたまた木製であったかはどうでもいいことです。たった一つの教訓を得るようにすることがたとえ話の役割です。

 2 「光の子ら」の意味。

 あなたは「光の子」ですか?あなたがクリスチャンであれば「はい!」と答えるでしょうね。なぜ?そのように教会で教えられているから。その根拠となる直接の聖書箇所は次の通りです。ヨハネ12:36、エペソ5:8、Tテサロニケ5:5。あなたの答えは正しいのです。でもここでは間違いです。この表現はエッセネ派*のいわば業界用語であって、自分たちの集団のメンバーを指します。彼ら以外を「闇の子ら」と呼びます。したがって彼らの用語に従えばあなたは「闇の子」です。「闇の子ら」は「この世の子ら」でもあります。

 3 同様に「不正の富」もエッセネ派以外の人々により得られた富を指します。もうお分かりですね。イエスは皮肉と批判を込めて発言しています。

 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。(8-9)

 イエスはここで分離主義者への批判をしているのです。他にはパリサイ派が有名で、この話を聞いてもいます。もちろんイエスはそのことを承知です。

 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。(14)

 分離主義者は、他のグループとの接触を嫌います。特にエッセネ派は荒野に修道院を築き生活していました。自分たちが汚れるからです。えせエリートです。自分たちは特別だと、高慢な思いでいます。神は自分たちの世界でのみ働くと自惚れています。これをイエスは批判されました。

何を教えているか?

 1 神は大きい

 人間の思いを遥かに越えて大きいのです、神は。勝手に境界線を描いてここまでは神は働ける、でもここから先は神でも手は出せない、なんてことはありえないことです。神に私たちはあらゆることで期待すべきです。祈り求めるべきです。

 2 神の知恵を使うことが一番賢い生き方である

 したがって私たちの生きる世界の場所どこでも、またいつでも神の知恵を用いるべきです。そこに祝福があります。以下に一人のビジネスマンのあかしを紹介しましょう。神の知恵こそこの世界で最高のものであるのです。神の知恵を使う者こそもっとも賢い人です。

池田守男 株式会社資生堂代表取締役社長

創業131年の歴史をもつ化粧品メーカー、株式会社資生堂oその経営立て直しという重責を担い、01年6月に取締役社長に就任した池田守男氏(66)=日基教団・銀座教会員=は社長自らが僕になるというリーダーシップを発揮し、その業績を回復してきた。「サービス(奉仕)・アンド・サクリファイス(献身)が信条」と語る池田氏は、9月に東京・千代田区のホテル・ニューオータニで開かれた「第7回バイブルフレンズの集い」(日本聖書協会主催)、で、その企業立て直しのビジョンについて語った。

社長になれ

2001年3月、池田氏は当時の会長と社長に呼ばれた。そこで池田氏は社長就任を言い渡された。「晴天の霹靂でした。すごく悩みましたね。会社がすごく厳しい状況にあったので、受けるからには『会社を再建する、新しく生まれ変わらせる』という使命感をもてなけれぱできない、と思いました」池田氏は資生堂本社を飛び出し、1時間ほど銀座の町を歩いた。しばらくして、毎週日曜日に通っている銀座教会の前に立った。その時、新渡戸稲造の「Be just and fear not」という言葉が浮かんだ。「Be just and fear not」とは『正しいことを行うのに、恐れることなかれ』という意味です。銀座教会にこの書があるんです。その書が印象に残っていて、それを思い出したんですね」。「天命」と受け止めた池田氏は「一粒の麦に徹しよう」と決意し、社長に「引き受けさせていただきます」と伝えた。

牧師志願から企業人へ

池田氏は、東京神学大学卒業の経歴をもつ。18歳の時に受洗したあと、最初は牧師を目指した。しかし、時は60年安保。キリスト教界にも大きな対立があった。「私自身、一度は神学校に入りました。しかし、いろいろなことがあり、ストレートに牧師になる決心ができなかったのです。『自分を偽らず、誠実に生きたい』そう思い、社会に出ました」61年に卒業後、池田氏は自分が通っていた禅の道場の老師の紹介を受け、資生堂に入社。くしくもこの老師は、資生堂2代目社長松本昇氏の実弟だった。以来、「出会えたすべての方に対して、一期一会の想いをもって深い愛情と感謝の心を注ぐことを大切にしてきた」という。その後40年にわたり池田氏は、秘書、総務の管理部門に歩み、5人の歴代社長に仕えてきた。

店頭基点

舵取りを任された池田氏がまず着手したことは、仕組みを「物」中心から「人」中心に変えることだった。「20世紀後半は物の時代。新商品を出せば売れる時代だった。どんどん物を作って市場に出す。このシステムが定着していた。しかし、市場が安定成長になっていくにつけ、不良在庫をかかえることとなった。これは在庫を一掃する以外に道はない、仕組みを変えないといけないと思った」池田氏は「一番重要な場所はお客様、商品を説明するやビューテ・コンサルタント(BC)、商品が出会う店頭」だと考えからあらゆるものを見直す「店頭墓点」をキャッチフレーズに改革を断行した。

サーバント・リーダーシップ

リーダーシップ、組織の在り方も方向転換した。池田氏は資生堂の創業精神を「美と健康を通じてお客様のお役に立ち、ひいては社会に貢献すること」だと語る。その精神を表している言葉が「おもてなしの心」であり、聖書の一言葉「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20・35)、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7・12)の精神も込められているという。

この「おもてなしの心」を企業活動の中で実践するためにふさわしいリーダーシップは何かを考えた末にたどり着いたのが「人の先に立ちたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(マルコ10・44)の聖書の言葉を具現化したサーバント・リーダーシップだった。また従来の社長を頂点としたビラミッド型の組織図に違和感を感じていた池田氏は、ある時その組織図を逆さまから見たら、自分の思いが具現化していることに気づいたという。「お客様とその店頭にいる販売員が一番重要なのに一番下なのはおかしいと思った。しかし、それを逆さまに見た時に『これだ!』と思った。これは天の啓示以外何ものでもありません」この考えは、のちに聖書的リーダーシップを解説したケン・ブランチャード著『新.リーダーシップ教本』(生産性出版)によっても裏付けられた。池田氏は、社員を支え、お客に接することに徹し、管理職の立場にいる社員にも、サーバントに徹するよう指導している。

精神性復輿の時代

今年、資生堂は朝日文化財団の企業の社会貢献度調査で優秀企業の対象に選ばれた。池田氏は、今最も注目される企業界のリーダーと言ってもいい。その池田氏は「21世紀は精神性復興の時代」だと語る。「教育現場でも、経済界でも、大変厳しい状況が続いている。その一番の原因は精神性が喪失していることにあると思えてならない。精神性の復興、復活なくして日本の経済の復興はありえない。その精神は『おもてなしの心』です」.社長就任後、経営も上向きの資生堂。「まだまだ改革は道半ぼ」と語る池田氏だが、キリスト教精神に立って「おもてなしの心」で、今後どうソーダーシップを発揮していくのか目が離せない。(『クリスチャン新聞』2003.12.21)

  *■エッセネは ?派 前1世紀から紀元1世紀にかけて盛んであったユダヤ教の修道的教派.前2世紀のマカベア戦争以後,新国家ことに大祭司を中心とする指導体制や神殿祭儀とのかかわり,および律法,特に五書の聖潔規定の守り方を巡ってサドカイやパリサイといった主流派から離れて存在した特異な宗派である.
1.名称.〈ギ〉エセーノイまたはエサイオイと呼ばれるが起源は不明.「聖なる人々」「敬虔派」「党派」「いやされた人々」を意味するとの諸説がある.語源が不明であるということは,この名称がエッセネ派自体から出た正式のものでなかったことを示している.
2.資料.エッセネ派に関する資料としてはフィロン(『賢者はみな自由である』12‐91,『ユダヤ人の弁明』11等),ヨセフォス(『ユダヤ戦記』2:8,『ユダヤ古代誌』13:5,15:10,17:13,18:1,『自伝』2),ヒッポリュトス(『異端反駁論』9:13‐28),ガイウス・プリニウス・セクンドゥスすなわち大プリニウス(『自然誌』5),エピファニオス(『80の異端への反駁』10:1),「ダマスコ文書」および「クムラン文書」(特に「宗規要覧」等)がある.1947年のクムラン文書発見以来,研究に携わってきたほとんどの学者がエッセネ派とクムラン宗団を同一視し,エッセネ派の説明にクムラン文書を用いる.しかし両宗団のいくつかの食い違いからクムラン文書を補助的に用いる学者もいる.ただ両宗団が同一か同系異種かを論じるより,さらに重要なのは,当時のユダヤ教が対立状態にあった事実(エルサレムのユダヤ教はイエスのみならずクムラン宗団などによっても批判されていた),ユダヤ教は一枚岩でなかった事実(G・F・ムーアは「規範的ユダヤ教と分派的ユダヤ教」を定義したが,最近のS・サンドメルは「神殿ユダヤ教とシナゴーグ・ユダヤ教」を対立させる)に注目することである.

3.生活.(1)共同生活.プリニウスはエッセネ派の永住地は死海の西岸(クムランまたはその近辺)にしかなかったと述べる.死海近辺がエッセネ派最大の居住地であったことは間違いないが,彼らは広くどの町や村にも住んでいたようである(「エッセネの門」というのがエルサレムにあった).4000人以上も存在した教徒は農業,牧畜,養蜂,工芸に従事したが,各自は私有財産を持たずに共同生活を送っていた.彼らの収入,支出,衣服,食事はすべて共同で,資金は一同から選出された管理人のもとにあった.数人で作っていた小コロニーも同派の客人にはいつどこででも開放された.また盗賊用の自衛武器は持つが戦争の道具は作らなかった.自分たちの生活は質素だが困窮者援助と施与には熱心であった.古参順に4階級に分れていたが,年長者が若年者にふれた時には「まるで異邦人と接触したかのように,後でからだを洗う」(『ユダヤ戦記』)のであった.(2)結婚.フィロンは彼らがその悪因ゆえに結婚生活を拒否したと強調する.また「彼らは妻もめとらず,奴隷も手に入れない.……彼らは自分たちだけで生活し召使の仕事を互いにやり合っている」(『ユダヤ古代誌』)と言われているが,『ユダヤ戦記』では既婚者グループも確認され,クムラン宗団もその事実を例証している.しかしその場合でも快楽を拒否し「種族の繁殖という人生の重要な役目の一つを放棄」しないためにするのであった.(3)入会.志願者には1年の試験期間が課せられ諸集会への出席は許されなかった.2年たって禁欲生活が実証されるときびしい誓約のもとに入会を許可された.正義と名誉を重んじること,支配者への服従,秘密の厳守などを誓約し私有財産を宗団にささげた.(4)日常生活.日の出まで沈黙を守り伝来の祈祷を続けた.午前中の仕事の後,祈りの場へ集まり,亜麻の腰巻をつけて冷水でからだを洗う.きよめのあと聖域で共同食事をとる.祭司の祈祷が前後にある.パンと1わんと1皿のみの料理が祭司によって供される.食事中いくたびか沈黙の時を持つ.食後,仕事用衣服に着替えて働きに出る.夕食も同様な共同食事をなぞめいた沈黙のうちにとる.重過失の現行犯は除名,追放された.しかし,そのような人は時にエッセネ派であった時の習慣や誓約に縛られて他人の食事に加われず,草のみを食べる身となり,死の床で収容されたりしたようである.審問には100名を下らない会員が当り,正確かつ公平を期した.(5)宗教生活.共同生活ときびしい戒律,儀式的洗いと共同食事は上述の通りであるが,律法研究はこの宗団の中心的生命であった.パリサイ派に近い思想を持つが,死者の復活を否定したり(ヒッポリュトスは異論を唱える),終末的,黙示文学的傾向が強い点では相違も少なくない.予定論を説き,安息日を厳守し,排泄など日常生活での汚れを洗う規定が重視された.
4.衰退.その平和主義にもかかわらず,彼らはローマへの大反乱に巻き込まれたらしく,同派のヨハネはティムナ地方区司令官となった.民族的熱狂に対するローマの報復はきびしく,エッセネ派も根絶するまで弾圧された.しかしエジプトのテラペウタイ派ほかの流れの中で存続したようである.
5.初期キリスト教団との関係.従来,エッセネ派とバプテスマのヨハネの運動との類似が指摘されてきた.初代教会とクムラン宗団の慣行との類似点(パン裂き,共有生活,12人の指導者,神殿への態度等)もあるが決定的な相違点も存在する.クムランが律法研究と祭儀修道を中心に排他的エリート集団を形成したのに対し,キリスト教会は受肉のキリストと贖罪,復活の救いを世界に宣教したのである.(岩本助成)(『新聖書辞典 』)