256 希望に生きた人々

 聖書箇所〔へブル人への手紙11章〕

私たちは常に希望をもって生きて行きたいですね。ところが、最近我が国の自殺者が5年連続で3万人を超えたことが明らかになりました(2004年1月調査)。特に目立つのが中高年男性の自殺です。リストラなど時代を反映した結果が如実に読み取れる結果です。今回はどのようにしたら希望を絶やさず生活ができるかがテーマです。その前に一つのことを確認しておきましょう。それは、私たちは罪の世界に生きていること。それは常に私たちには問題が襲ってくるという意味です。「一難去って、また一難」という言い方もありますが、これが現実です。罪の世界とはそのようなものです。私たちは理想を追いかけつつも現実を直視しなければなりません。問題に直面させられることは避けられません。ならばどうしたら良いのか、その最善策を考えましょう。聖書に、特にへブル人への手紙11章に登場する信仰者を中心に4つの組に分けてどのように希望を持ち続けたのかを学んで参りましょう。へブル人への手紙11章1節と2節にはこうあります。

信仰は望んでいる事がら(これは目に見えない)を保証し、目に見えないもの(これは希望)を確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

信仰にはいつも希望が働くものです。

アブラハム*1+パウロ*2

アブラハムの人生には危機が幾度となくありました。カルデヤのウルを出たときやカランを出発したとき、そしてハガルとその子イシマエルを家から追い出したときなど。その中でもっとも辛かったのは、「あなたの愛している一人子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい」と神から言われたときであると言えるでしょう(創世22:1-19)。彼は絶望の闇の中にいる自分を経験したことでしょう。に突き落とされたことだろう。老年になってやっと与えられた子、この子をいけにえとして神に捧げる、つまり殺害することは家系の断絶を意味しました。「わたしは生まれてくる子イサクと永遠の契約をたてる」(創世17:19)と仰せになった神との契約はどうなる。彼の信仰の危機でもありました。しかし彼は信仰によってこの危機を克服していったのである。パウロは言います。

「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました。……」(ロマ4:18,21)

 このような彼の信仰を終末信仰ということができます。たといイサクが死んでも神は生き返らせてくださると信じ、希望を抱いて、服従し、モリヤ山でイサクをいけにえとして捧げることを実行したのである。ナイフを振りかざし、いざというとき神は介入、阻止されました。この信仰をパウロは継承します。パウロは長距離かつ苦難の伝道旅行を成し遂げ、AD68年頃ローマで殉教したと伝えられています。伝道旅行中に遭遇した苦難がコリント人への手紙第二に記録されています。

私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Uコリント11:23-29)

 このことばほど終末信仰.を美しく表現したものはありません。たとえ癌が癒されても、所詮人間は信仰者といえども死ぬ。だから終末信仰が必要です。終末信仰をパウロはこう表現します。

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:14)

 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(Uテモテ4:7-8)

死後の世界において報いを受けることに焦点を当てて生きる、これが終末信仰です。この信仰があるとき、私たちはどんな場合にも希望を持って生きることができます。あなたに与えられたすべての賜物を死後のことを考えて使うようにしましょう。

 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:20-21)

ヨセフ*3+ルツ*4

ヨセフの人生は韓国の金大中や南アフリカのネルソン・マンデラ氏を思い出させますね。何度も失脚し、そのたびによみがえる。ヨセフは兄弟からねたまれて穴に突き落とされます。砂漠の隊商にも売られ、つにエジプトでは奴隷となります。運良く役人ポティファルの家に拾われ成功するも妻の讒言により失脚、嶽中生活を強いられます。その辺の事情を聖書から直接見るようにしましょう。主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。(創世記39:2-23)

後に彼は総理大臣に任命され、ついに大成功を勝ち取りました。成功の秘訣は何だったのでしょうか。いつでも「神の御手が」彼とともにあったからです。彼は苦しい目に遭うたびに、「自分の人生はもうこれで終わりかも知れない」とそのつど考えたことでしょう。しかし彼は摂理の神を信じたのです。すなわち神はすべてを益に変えてくださると信じたのです。「主がヨセフとともにおられたので」(39:2,21,23)という表現はどんなに困難な条件におかれても、なお「神には良いことが出来る」という信仰の根拠となります。だから常に希望を持って立ち上がることが出きました。この信仰を摂理信仰といいます。

ルツも摂理信仰に生きた人です。ユダから飢饉を理由にモアブに移り住んだナオミ家。二人の息子に嫁いだモアブの女性ルツとオルパ目でしたが、不幸はナオミ家を襲います。夫は死に、二人の息子も子どもなく死にます。絶望の思いの中に沈む残された三人の女性たち。二人の息子に嫁いだモアブの女性ルツとオルパでしたが、ナオミは二人に実家に帰るように勧めます。オルパは従いますが、ルツは『あなたの神は私の神です」と信仰を告白し、ナオミについてベツレヘムに帰ります。傷心の二人に故郷の人々は同情します。だがここから彼らの運命の歯車は好転し、次々と好条件に恵まれます。親戚の有力者ボアズと出会い、彼はルツを愛し、結婚を決意する。彼女を親戚たちの面前で買い戻し、ついに妻とします。やがて二人の間にオベデが生まれ、彼は王ダビデの祖父となります。ルツはその信仰のゆえに異邦人女性でありながらダビデ王家に組み込まれる栄誉にあずかります。しかしそもそもはナオミの信仰の不足から生じた失敗からこの話はスタートしたことだったことを忘れるわけにはいきません。でもすべてを益となさるのが、太っ腹なわれらの神であるのです。私たちの失敗や能力不足にもかかわらず「すべてを益としてくださる、神は」、と信じるのが摂理信仰です。あなたも信じてください。

モーセ*5+エステル*6

モーセについては後に書きましょう。エステルはペルシャ王アハシュエロスの王妃でしたが、廷臣ハマンの策略によりユダヤ人は虐殺の危機に直面。しかし神の介入によって大虐殺は阻止された。エステルの養父モルデカイは「着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり出ていった」(エステル4:11)彼はエステルに「あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこの時のためであるかもしれない」と伝えると、エステルは「わたしも断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は死ななければならないのでしたら、死にます。」(4:14,16)と返事を送る。この決死の祈りと断食と覚悟が神の介入を呼びます。エステル記には「神」という語も「祈り」という語も見えない。しかしエステル記が信仰の書であることに疑いはない。その信仰とは契約信仰です。たとえどんなに事態が悪いように見えても、神はご自身が約束なさったことは必ず果たされる、必ず祝福される、という信仰です。

モーセはヨルダン川から約束の地を臨みつつ、イスラエルに惜別のことばを送り、その中で主がいかに過去の歴史の中でイスラエルに恵み深かったかを語ります。(申命32:1-43)。この中で「主は荒野で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、ごれを守られた。」(10)と言う。これは神の契約に基づくのです。ゆえに契約信仰と呼びます。希望を失いそうになったときには契約を思い出せばいいのです。たとえば、聖書カウンセリングではこうします。カギとなるみことば(たとえばコリント人への手紙10章17節の「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」)を選び、毎日起床時と就寝時に唱えるようにします。このようなやり方はあなたの契約信仰を強化してくれる役割を果たします。聖歌604「のぞみも消えゆくまでに」は「かぞえよ主のめぐみ、かをえよひとつずつ、かぞえてみよ主のめぐみ」とある。過去を振り返り、一つずつ主の恵みを数えることはうつや沈んだ心の状態から解放される最も有効な手段です。詩篇136篇は「主に感謝せよ」に始まり、過去のイスラエルに対する主の恵みを一つずっ数えています(同じく78,105,106他)。

ダニエル*7たち

ダニエルはバビロン捕囚時代に王ネブカデネザルの下で生きた人です。彼は王の見た夢の解釈に成功し、王の信任を得、高官として仕えます。ある時金の像を拝めとの王の命令が発せられ、ダニエルの三人の友人たちは燃える炉の中に投げ込まれる脅しにもめげず拒否します。そのときの返答が実にすばらしいものです。

「私たちの仕える神は火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。もしそうでなくとも、王よ、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むことをしません。」(ダニエル3:17-18)

 彼らは炉に投げ込ままれましたが、焼けることはありませんでした。王は驚いて神を礼拝しました。これはダニエルの信仰です。それは死を覚悟して貫く究極の信仰です。人間的なすべての手段が閉ざされた絶望状態においてもなお希望を持たせてくれる信仰です。信仰とは結局、神への信頼です。神は常に善意のお方なのだ、と信じる信仰です。これを善意信仰と呼ぶことができます。神の善意を信じるならば私たちはどんな場合にも希望を持つことができるのです。神の善意のあかしは十字架上のイエス・キリストの存在です。

*1アブラハム (〈ヘ〉abraham,〈ギ〉Abraam) 
 別名アブラムという呼び方は,創11:26‐17:5,T歴1:27,ネヘ9:7に出てくるのみで,ほかは,アブラハムである.前19世紀のアッカド文書中に,族長たちの名と呼応するアブラハム,イサク,ヤコブ,ヨセフという名が出てくるが,その中のアブラハムに相当する語は,「アバアムラマ」「アバラマ」「アバアムラアム」等と読まれる.ウガリット文書(前14?13世紀)の中では「アブルム」「アビラミ」という語が見られる.アブラムという意味については,アブは「父」を意味し,ラムはアッカド語の「愛する」か,西方セム語の「高い」という意味で,「父は愛する」「彼は父を愛した」または「彼は父のゆえに高められる」「高められた父」という意味になる.創17:5では,アブラハムとは「多くの国民の父」という意味とされているが,アラビヤ語で「多くの」を意味するルハムと同種の語と,アブとの結合によるものであろう.アブラハムの生涯についての主資料は,創11:26‐25:10に記されている.テラの子であるアブラハムはノアの子セムの系図で10番目になる(創11:10‐26).アブラハムにはナホルとハランという兄弟があった.彼の妻はサラ(別名サライ)で異母妹であった(創11:29,20:12).アブラハム一家は,カナンの地目指して生れ故郷であるカルデヤ人のウルを出発した(創11:28,31,15:7,ヨシ24:2‐3,ネヘ9:7,使7:2,4,ヘブ11:8).カラン滞在中再び神の召しを受けたアブラハムは75歳の時,妻とおいのロトを伴いカナンに向かった(創12:1‐5).シェケムに滞在中,さらに神の約束を与えられ,主のために祭壇を築き,旅を続けてベテルとアイの間に来た.そこにも祭壇を築き,主の御名によって祈った後,南へ向かった(創12:6‐9).そしてききんのためにエジプトに下った時,妻サラを妹と偽って身を守ろうとしたが,露見し,再びネゲブに帰った(創12:10‐20).その後,先に祭壇を築いたベテルとアイの間に天幕を張ったが,牧草地のことで争いが起り,アブラハムはおいロトに優先権を与えて別れることにした(創13:1‐13).ロトと別れたアブラハムに神から土地所有の約束が与えられ,アブラハムはヘブロンに移ってマムレの樫の木のそばに住み,祭壇を築いた(創13:14‐18).次の14章では,アブラハムは「ヘブル人」と呼ばれている(創14:13)が,それは「川を渡る」「場所から場所へ渡り歩く」という意味である.彼は,東方からの4人の王に略奪されたソドムとゴモラの財産およびおいロトとその財産を,自分のしもべ318人を召集して奪い返した.そして,シャレムの祭司であり王であるメルキゼデクの祝福を受け,十分の一をささげた.その後再びアブラハムは神からの約束を受け,それを契約締結という儀式で具体的に確認した(創15章.参照エレ34:18).カナンの地に入って10年がたったが,サラには子が生れないため,彼女は女奴隷ハガルを第2夫人として提供し,アブラハムが86歳の時,イシュマエルが生れた(創16章).その後の13年間は事もなく過ぎ,99歳のアブラハムは,神から決定的な約束を与えられる.すなわち,アブラハムとサラとの間に約束の子が生れるということ,アブラム,サライという名がアブラハム,サラと変ること,神とアブラハムとの間の契約のしるし,繁栄のしるしとして,割礼が制定されたことである(創17章).マムレの樫の木のそばで3人の使者がアブラハムを訪れ,アブラハムのもてなしを受けた後,約束の子イサクの誕生を確約して去る(創18:1‐16).同時に,ソドム,ゴモラを滅ぼす計画がアブラハムに示され,アブラハムは町の中の正しい者たちのためにとりなしをする(創18:17‐33).アブラハムのとりなしによって,おいのロト一家だけが滅びの中から救出されるが,ロトの妻は振り向いたために塩の柱となってしまった(創19章).ネゲブに移ったアブラハムは,ゲラルの王アビメレクに対しても妻を妹と偽った(創20章).約束の時がきて90歳のサラと100歳のアブラハムにイサクが与えられる(創21:1‐5)が,イシュマエルとの間を心配したサラの願いで,アブラハムはハガルとイシュマエルを送り出した(創21:9‐21).アブラハムの生涯の最大事件は,イサクをモリヤの山で主にささげたことである(創22:1‐19).ユダヤ教では,これはアブラハムへの最後の試練であり,第10番目のテストであったと考えられ,「アケダー」と呼ばれている.この信仰の試練を経て,アブラハムは,ついに約束を確かなものとする.妻サラの死を契機として,ヘブロンに墓所を購入し(創23章),イサクの嫁をアラム・ナハライムの地に求め(創24章),イサクの結婚後,再婚して多くの子をもうけたが,彼らには贈物を与えて東方の国に移らせ,全財産をイサクに与えた.アブラハムは175歳で死に,イサクとイシュマエルの手によって,マクペラの洞穴に妻と共に葬られた(創25:1‐10).アブラハムの先祖が異教の神々に仕えていたという言及は,ヨシ24:2に出てくるほかにイザ29:22にもほのめかされている.アブラハムは「神のしもべ」(創26:24,詩105:6,42),「神の友」(U歴20:7,イザ41:8,ヤコ2:23)と呼ばれた.彼は寄留者として,平和を愛した者として,旅人をもてなした者として,友を愛してとりなしをした者として,その他数々の美徳の持主として旧新約聖書およびコーランにも記されているが,最も大切な点は「彼は主を信じた.主はそれを彼の義と認められた」(創15:6)ということにある(ロマ4章,ガラ3章,ヤコ2章).アブラハム時代の生活を理解する聖書外の資料としては,ヌジ文書(前15?14世紀),マリ文書(前18世紀)がある.(富井悠夫)

*2パウロ (〈ギ〉Paulos) 
 ユダヤ名はサウロ.キリスト教徒の迫害者であったが回心し,初代教会最大の宣教者,異邦人への使徒となった.彼の記した13の手紙と,同行者ルカの手になる使徒の働きから,おもに回心から始まりローマに至るまでの活動と,彼の神学を知ることができる.
1.生涯.(1)背景.誕生から,エルサレムで迫害者として登場するまでのパウロに関する情報は,ごくわずかである.彼は小アジヤのキリキヤのタルソで生れたユダヤ人で(使9:11,21:39,22:3),ベニヤミン族の出身,またパリサイ派に属していた(ロマ11:1,ピリ3:5,使23:6).生れながらのローマ市民であったことや(使22:28),おそらくは,13歳のバル・ミツワを迎えてからエルサレムに上り,姉妹の家に滞在しながら(参照使23:16),1世紀最大のラビ,ガマリエル1世のもとで学んだと思われること(使22:3)などから,家庭はかなり裕福だったのだろう.タルソは当時,アンテオケやアレキサンドリヤと並ぶ学術都市であったから,生粋のユダヤ人としての教育(律法や天幕作りの技術の修得)ばかりでなく,ギリシヤ・ヘレニズム文化にもふれ,異邦人伝道への備えがなされたと思われる.
(2)回心.「同年輩の多くの者たちに比べ,はるかにユダヤ教に進んでおり,先祖からの伝承に人一倍熱心」であった(ガラ1:14)パウロは,新興のキリスト教を危険視した.彼が,十字架につけられる前のイエスを知っていたかどうかは明らかでない.しかし直接目撃しなかったとしても,同じ町で処刑されたナザレのイエスについて,ある程度の情報を得ていたことであろう.とにかくパウロには,そうしたのろわれるべき方法で殺された人物をメシヤとして仰ぐことは,耐えがたい冒涜と思われた.さらにステパノの神殿批判は,ユダヤ教の伝統に対する破壊的な挑戦と思われた.キリスト者たちの分派的行為によって,神の国の到来が遅れるといういらだちもあったかもしれない.「リベルテンの会堂」に属して,ステパノと論争してきたと思われるパウロ(使6:9)は,彼を石打ちの私刑に処する場に立ち合った(使7:58).そして,これを契機に起った激しい迫害の先頭に立ち(使8:1‐3),ダマスコにまで赴くが,その途上で回心を経験した(使9:1‐9).彼は天からの光に打ちのめされ,「サウロ,サウロ.なぜわたしを迫害するのか」という声を聞き,その声の主が復活のイエスであることを知った(Tコリ15:8).そして目が見えなくなり,指示通りダマスコに入って3日後,アナニヤが訪れ,彼にバプテスマ(洗礼)を授け,宣教の使命を伝えた.視力を回復した彼は,ただちにダマスコで伝道を開始した.
(3)初期の伝道.パウロは回心後間もなく,アラビヤに行ったようである(ガラ1:17).そこで,イエスがメシヤであるという新しい光のもとに,それまで彼がユダヤ人として得てきたものを再構成したのであろう.それからダマスコに戻ったが,暗殺計画があることを知り,夜陰に乗じて脱出,エルサレムに上った.この第1回エルサレム訪問が,ガラ1:18の訪問と同じであるなら,回心後3年たってのこととなる.エルサレムのキリスト者たちには,パウロの回心は信じられないことであった.しかしバルナバのとりなしにより,ようやく受け入れられて,ペテロとも会うことができた.しかしここでも彼を殺害しようとする者たちがいたので,15日間で早々にタルソに引き上げた(使9:26‐30,ガラ1:18‐19).それからシリヤとキリキヤに行き(ガラ1:21),伝道したものと思われる(参照使15:23,41).その後タルソに戻っていたところに,バルナバが訪れ,アンテオケに来るように要請した.そして2人は協力して,シリヤの首都の教会を築き上げることになった(使11:25‐26).丸1年後,ききんに苦しむユダヤの教会を助けるため,パウロはバルナバと共に救怨ィィ資を携えてエルサレムを訪れた(使11:28‐30).これが,ガラ2:1‐10に語られているエルサレム行きであるなら,最初の訪問から14年後ということになる.またその時,エルサレムの使徒たちは,異邦人への使徒としての彼の使命を認めたことになる.
(4)第1回伝道旅行(使13:1‐14:28).エルサレムから戻ったパウロとバルナバは,紀元46年頃,アンテオケ教会から任命派遣され,マルコを伴い,伝道旅行に出発した.まずキプロス島をサラミスから東西に横断してパポスへ.魔術師エルマと対決し(使徒の働きは,その時点からサウロをパウロと呼ぶ),総督を信仰に導く.そして小アジヤに渡って,パンフリヤのペルガ,ピシデヤのアンテオケ,イコニオム,ルステラ,デルベまで巡り,往路を引き返して,アタリヤ港からアンテオケに海路帰還した.その伝道のパターンは,まず会堂でユダヤ人や神を恐れる異邦人に語り,回心者も得るが,拒否した者たちに迫害され,その結果異邦人に向かうというものであった.この旅で,パウロの指導的立場は確立したようである.「バルナバとパウロ」という呼び方が,途中から「パウロの一行」となり(使13:13),パウロの名前が前面に出るようになる.
(5)エルサレム会議(使15:1‐29).その後2?3年母教会に仕えていたが,その間に,異邦人回心者にどこまで律法の規定を守らせるべきかという問題を巡って,ユダヤ主義キリスト者と論争になった.そのためエルサレムに上って協議することになるが,激しい議論の後,ペテロがパウロの立場を支持し,主の兄弟ヤコブの提案で衆議一決した.それは,異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の交わりのために最低必要な4項目,「偶像に供えた物と,血と,絞め殺した物と,不品行とを避けること」以外は,彼らにどんな重荷も負わせない,というものであった.割礼に固執するユダヤ主義者によって引き起された混乱に対処するために書かれたガラテヤ人への手紙は,48年か49年,この会議の直前,第1回伝道旅行によって成立した南ガラテヤの教会に,パウロが書き送ったものと思われる.
(6)第2回伝道旅行(使15:36‐18:22).49年,マルコの処遇を巡ってバルナバと別れることになったが,シラスを伴い伝道旅行に出たパウロは,陸路,シリヤとキリキヤの諸教会を訪ね,それからデルベ,ルステラに赴いた.そこで一行にテモテが加わる.さらに西に向かうことを聖霊に禁じられ,フルギヤから北ガラテヤに北上し,回心者を得た(参照使18:23).さらに聖霊に導かれトロアスに達し,ルカも一行に加わった.そこでパウロはマケドニヤ人の幻を見,神の導きを信じて海峡を渡り,ピリピ,テサロニケ,ベレヤと伝道した.しかし,ピリピでは入獄の経験をし,またユダヤ人たちの圧迫もあって,早々にマケドニヤを離れなければならなかった.海路南下したパウロは,アテネで伝道の機会を得た.それから,おそらく50年か51年秋までにはコリントに移り,1年半以上(使18:11),アクラとプリスキラ夫婦と共に天幕作りをしながら伝道し,多くの回心者を得た.シラスとテモテから得た情報に基づき,テサロニケの若い教会に手紙を書いたのは,この時期である.やがてシリヤに向けて出帆したパウロにアクラ夫婦が同行したが,途中立ち寄ったエペソに彼らを残し,エルサレムまで行ってからアンテオケに戻った.52?53年頃のことである.
(7)第3回伝道旅行(使18:23‐21:17).パウロはおそらく53年秋までに次の旅に出発し,ガラテヤとフルギヤの諸教会を力づけてから,西に向かい,かねてからの願い通りエペソにやって来た.この小アジヤの中心都市を戦略上の拠点として2年3か月以上伝道したので,着実に福音は広がっていった(使19:10).エペソはまた,アルテミス女神の門前町であったので,偶像を否定するキリスト者の増加は,町の伝統に対する脅威となり,反発した銀細工人たちは反パウロの暴動を起したが,パウロの安全は守られた.しかし,エペソ滞在の末期に直面した迫害は,この事件以外にもあり,激しさをきわめたようである(ロマ16:3‐4,Tコリ15:32,Uコリ1:8‐11).パウロは,多くの問題を抱えていたコリントの教会へ,この地より3通の手紙を書いたと思われる.まず,不品行な者たちからの分離を説いた第1の手紙(Tコリ5:9).第2の手紙がいわゆるコリント人への手紙第一である.しかし事態に改善の兆しが見られず,思いきって一時コリントを訪れたが,それも成功とは言えなかった(Uコリ2:1.参照Uコリ12:14,13:1).そこでエペソを最終的に離れる前に,第3書簡「悲しみの手紙」を書き送った.北上してトロアスで再会できると思っていたテトスに会えずマケドニヤに渡ったが,そこでテトスからコリントの教会のリバイバルの知らせを受け,喜びと共に第4の書簡,コリント人への手紙第二を書き送った.おそらくマケドニヤからアドリヤ海東岸のイルリコまで足をのばしてから南下,コリントへの第3の訪問を果した彼は,そこに3か月とどまり,その間に西方伝道の夢を託して,帝都ローマのキリスト者に手紙を書いた(ロマ1:10,15:19‐25).それからおそらく58年の早春,マケドニヤ,アカヤの諸教会の献金と,それぞれの教会の代表者を伴い,マケドニヤ,トロアス,ミレトを経て,エルサレムに向かった.エルサレムで苦難にあうという予感はしていたが,それが神のみこころであるとの確信を持っていたので,途中の信者たちの制止を振り切り,旅を急いで,五旬節までにエルサレムに帰還した.
(8)逮捕からローマへの旅(使21:17‐28:31)とその後.エルサレムの長老たちに旅の報告をしたパウロは,彼らの勧めに従い,神殿の祭儀に加わった.ところがそれを,アジヤから来ていたユダヤ人が見つけ,大騒ぎになった.彼は殺されかかったが,ローマの千人隊長に救出された.パウロの殺害計画を知った隊長は,彼をカイザリヤに護送した.こうしてパウロは,総督ペリクスのもとに2年にわたって(おそらく58?60年)幽閉されることになった.総督がフェストに代った直後,エルサレムに連れ戻されないために彼は皇帝に上訴した.アグリッパ王らの前で弁明した後,カイザリヤからローマへ護送されることになった.主の約束であり,個人的願いでもあったローマ行きは,こうして実現した.まずシドンを経て,ルキヤのミラへ行った.船を乗り換え,難航しながら,クレテの「良い港」に入港した.すでに航海の危険な季節に入っていたので,そこにとどまった方がよいという,パウロの提案は受け入れられず,出帆した.間もなく船は暴風に巻き込まれ,14日間漂流し,ようやくマルタ島に漂着した.ローマに到着したのは,おそらく61年の春頃であろう.そこで家を借り,軟禁状態におかれていたが,2年にわたり伝道することができた.ここで使徒の働きは終るが,おそらくこの2年間に,パウロは4通の「獄中書簡」を書き送ったと思われる.そのうち,コロサイ,ピレモン,エペソ人への手紙は一組にして,テキコに託したものである.それから釈放間近に,残るピリピへの手紙を書いたのであろう.63年頃釈放されたパウロは,伝説によればスペインにまで伝道に出かけたと言う.そして再び捕えられ,67年頃,ネロ帝の迫害のもとに殉教したと言われる.使徒の働きの記録のどこにも当てはまらない牧会書簡は,この時期のものであろう.63?66年の間にテモテへの手紙第一とテトスへの手紙,そして死の間近にテモテへの手紙第二が書かれたのであろう.
2.教え.(1)背景.パウロの教えを理解するには,4つの要素を考慮しなければならない.a.ユダヤ教.「きっすいのヘブル人」(ピリ3:5)として育った彼は,回心の後も旧約聖書と同時代のユダヤ教から多くのものを受け継いだ.義にして聖なる唯一の神への信仰は自明のことであり,イスラエルが選ばれた民であることも疑う余地のないことであった.旧約聖書の解釈や引用の仕方,霊と肉の対立,肉体の復活など,キリスト信仰の新しい光のもとにおかれたとはいえ,パリサイ派ユダヤ教と共有する思想は少なくない.b.ヘレニズム.宗教史学派のように,パウロの教えをヘレニズム思想に由来するものとすることはできない.しかし彼は,国際都市タルソ生れのローマ市民として,ヘレニズム世界をよく理解していた.ギリシヤの詩を引用し,ギリシヤの競技の比喩を用い,人々の心をとらえていた密儀宗教やストア哲学の用語で語ることができたからこそ,ギリシヤ人やローマ人に有効な伝道ができたのである.c.回心.迫害者サウロを使徒パウロに一変させた回心と,それに続くキリスト者としての経験を抜きにして,彼の教えは理解できない.それは「私が宣べ伝えた福音は……人間からは受けなかった……ただイエス・キリストの啓示によって受けた」と言わしめたほどである(ガラ1:11‐12).d.先輩のキリスト者.パウロの独自性を強調するあまり,彼が初代教会の中で遊離していたと考えるなら,それは間違いである.「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは,私も受けたことである」(Tコリ15:3)ということばは,彼の教えと使徒伝承との連続性を明らかにしている.
(2)神.パウロにとって神は唯一の主権者,万物の創造者である.全知で義なる神として人をさばかれるが,あわれみ深く,人間を救うためにキリストを遣わされた方である.自然,歴史,律法,そして何よりもキリストを通して御自身を啓示する生ける神である.しかし彼の教えの中で最も顕著なことは,神の主権性であろう.「私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選」ばれた神(エペ1:4)は「あらかじめ知っておられる人々を,御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められ……あらかじめ定めた人々をさらに召し,召した人々をさらに義と認め,義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(ロマ8:29‐30)とあるように,救いのいっさいが神の主権的みわざである.人間の側の責任を無視したりはしないが(参照Uコリ5:10,6:1),神の選びに関しては,「人間の願いや努力によるのではなく,あわれんでくださる神による」と断言する(ロマ9:16).「すべてのことが,神から発し,神によって成り,神に至る」(ロマ11:36)という絶対的な神の栄光がほめたたえられること,それが彼の祈りであった(エペ1:6,12,14).
(3)人間.神の主権的な救いの恵みは,罪のうちに窮した人間に与えられる.「すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず,ただ,神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖いのゆえに,価なしに義と認められる」(ロマ3:23‐24).神を知りつつ,神をあがめない人間は,罪深い欲望と偶像礼拝にとらえられ,律法を持つユダヤ人も,持たない異邦人も,だれ一人,神の前に義と認められない(ロマ1‐3章).アダムによってもたらされた罪と死に,すべての人が支配されるようになったからである(ロマ5:12以下,Tコリ15:21‐22).そして「内なる人」としては神の律法に従おうとしても,「肉では罪の律法に仕えている」(ロマ7:14‐25)のである.しかしキリストの救いにあずかる時,からだは罪のゆえに死んでいても,霊において生きる者とされ(ロマ8:10,エペ2:5),また,からだも贖われる希望が与えられる(ロマ8:23).人は本来,神の似姿に似せて造られたものである.そこで,救われるなら,神の子とされ(ガラ4:5‐7),御霊が内住し(Tコリ6:19),新しい被造物として(Uコリ5:17),新しい人を着せられ,御子のかたち,造り主のかたちに似せられていくのである(ロマ8:29,Uコリ3:18,コロ3:10).
(4)律法.おそらく回心によって最も変化したものの一つは,律法理解であろう.「律法による義についてならば非難されるところのない者」であったパウロは,それを「キリストのゆえに,損と思うように」なった(ピリ3:6‐7).かつては義の律法を,行いによるかのように追求したため,そこに到達しなかったユダヤ人(ロマ9:31‐32)の一人であったが,律法とは別の,しかも律法と預言者によってあかしされた,神の義を知ったのである(ロマ3:21‐22).つまり「人は律法の行ないによっては義と認められず,ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる,ということを知ったからこそ,私たちもキリスト・イエスを信じた」(ガラ2:16)のである.それでは律法は無益なものなのだろうか.そうではない.「知識と真理の具体的な形」(ロマ2:19)として,人をいのちに導くはずのものであり,したがってまた聖なるものである(ロマ7:10,12).ところが「肉によって無力になったため」(ロマ8:3),律法はいのちを与えることができず,罪人に罪を認めさせるものとなった(ロマ5:13,ガラ3:19).すなわち律法は,「すべての人を罪の下に閉じ込め」ることによりキリストへと導く「養育係」である(ガラ3:22,24).人が律法のもとにとどまるなら,律法を完全に実行しなければならないが,それは不可能であるから,その人はのろいのもとにあることになる.しかし信仰によって救われた者は律法のもとにはない(ガラ3:25,5:18).「キリストが律法を終わらせ」たからである(ロマ10:4).
(5)キリスト.この律法のもとにある人間を贖い出すため,神はキリストを遣わされた.キリストは万物より先に存在し,万物を造られた.また,見えない神のかたちとして,満ち満ちた神の本質を宿している(コロ1:15‐20).キリストは主であり(この称号をパウロは最も多く用いている),救い主であり(エペ5:23,ピリ3:20),神である(ロマ9:5,Uテサ1:12,テト2:13).このようにキリストは,「神の御姿であられる方なのに,神のあり方を捨てることができないとは考えないで,ご自分を無にして,仕える者の姿をとり,人間と同じようになられた」(ピリ2:6‐7).アブラハム,ダビデの子孫として,女から生れたのである(ロマ1:3,ガラ3:16,4:4).それは,私たちの罪のために,御子を「罪深い肉と同じような形でお遣わしになり,肉において罪を処罰され」るという,神の計画のゆえであった(ロマ8:3).こうしたキリストの救い主としての働きは,第1に十字架の死による贖罪である.キリストは十字架上で「のろわれた者」となり,人を律法ののろいから贖い出した(ガラ3:13).また罪を知らないキリストが,「私たちの代わりに罪とされ」たのは,「私たちが,この方にあって,神の義となるため」(Uコリ5:21),また万物が神と和解させられるためであった(Uコリ5:18‐19,コロ1:20,22).こうして人は,キリストの死に継ぎ合されることにより,罪と律法から解放される(ロマ6:1‐11,7:1‐6).第2にキリストは,その従順において神の義を人にもたらした.十字架の死にまでも従って,救いを全うしたのである(ロマ5:18‐19,ピリ2:8‐11).さらに復活は,キリストを神の御子として公に示し(ロマ1:4),「眠った者の初穂」となって,キリストに属する者の復活を保証する(ロマ8:11,Tコリ15:20‐23).最後に,よみがえられたキリストは,神の右の座に上げられ,教会をとりなし導かれる(ロマ8:34,エペ1:20‐23).こうしたキリストにある救いの内実を表現するのに,パウロが172回も用いているのが,「キリスト(あるいは主)にあって」という句である.単純に「キリスト者」の同義語として用いられる場合もあるが(ロマ16:10,ピレ16節),多くは行為の主体や源泉を表す(「キリストによって」「キリストから」.ロマ14:14,Uコリ3:14,ピリ4:13).さらに「場」や交わりを意味する場合もある(ロマ8:1,Uコリ5:17).神の愛,恵み,計画,創造と保持,支配や権力に対する勝利が,「キリストにあって」成り立つ.また,救い,選び,召命,贖い,義認,和解,新しいいのちを受けること,御国の世継ぎとされること,死,復活,栄化のいずれもが,「キリストにある」ことである.さらに教会の一致や成長,個人の信仰の成長も「キリストにあって」可能となる.キリスト者の知識や確信のよりどころはキリストにあり,キリスト者の生活態度全体を表現するのに,これほど適切なものはない(「主にあって真実を語る」「主にあって誇る」など).キリストとの表現しがたい密接なかかわりを示すこの句が広く分布していることは,パウロの教えがキリスト中心であることを物語っている.
(6)教会.パウロの教会論の中核は,「キリストのからだ」という比喩であろう(エペ1:22‐23,コロ1:18,24).「教会のかしらであるキリストの,復活のいのちの活動領域である教会は,からだとして多くの肢体から成る有機体である(ロマ12:5,Tコリ12:12‐27).各器官は機能を異にしながら,しかも一体性を保っている.そこでおのおのからだの肢体として,兄弟をつまずかせないように(Tコリ8:12),互いに関心を払うように(Tコリ12:26),またおのおのに与えられている賜物の違いを認めるように勧められている(ロマ12:6以下,Tコリ12:27以下).教会を愛し養うキリストと,キリストに従う教会の関係は,夫と妻の関係の例証ともされる(エペ5:22‐33).キリストによりユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁が打ち壊され,「新しいひとりの人に造り上げ」られること,異邦人が神の家族に加えられることは,新しく啓示された奥義である(エペ2:11‐3:11).同じバプテスマを受けた者たちは,こうした一致を,同じパンを食することにより確認する(Tコリ10:16‐17).この主の晩餐は,主の贖いを回顧し,キリストとの現在の交わりにあずかり,来るべきキリストを待ち望むものである(Tコリ11:26).そこに秩序を強調したパウロは(Tコリ11:28‐34),異言の使用についても秩序を求め(Tコリ14章),教会内の戒規にもふれている(Tコリ5:9‐13).またキリストのからだを建て上げるための賜物をあげ(エペ4:11‐16),後には,教会の指導者,監督や執事,長老の資格について具体的な指示を与えている(Tテモ3:1‐13,テト1:5‐9).こうしてパウロは,からだなる教会が,かしらなるキリストに達することを願うのである.
(7)倫理.キリスト者の生活の土台は,キリストにあって新しく造られたという事実である(Uコリ5:17).キリストにあるいのちの御霊の原理により,罪と死の原理から解放され(ロマ8:2),そのゆえに神の愛が心に注がれ,祈りへと向けられ(ロマ8:15,26),愛,喜び,平安などが結実する(ガラ5:16‐24).キリスト者は,自分は「キリストとともに十字架につけられ」たので,生きているのはキリストであること(ガラ2:20),また自分のからだは「聖霊の宮」であって,もはや自分のものではないことを知らなければならない(Tコリ6:19).また,律法から解放された自由人であるが(ガラ5:1),キリストにふさわしく(ロマ15:5),彼の犠牲,愛,謙遜,柔和にならう者となって(ロマ15:3,7,Tコリ11:1,Uコリ10:1,エペ5:2,25,ピリ2:5‐8),キリストの律法を全うするよう期待される(ガラ6:2).律法を全うするのは,愛である(ロマ13:8‐10).さらにキリスト者は,「キリストの心」を持ち(Tコリ2:16),御霊によって,神のみこころや,真にすぐれたものを見分けるように求められる(ロマ12:2,ピリ1:10,Tテサ5:21).こうして,罪や肉の欲,悪魔との戦いはなお継続するが(ロマ7:17,ガラ5:17,エペ6:10以下),個人の聖潔,家庭や職場での人間関係,市民生活など,あらゆる領域において,贖われた者にふさわしく歩むよう勧められている(エペ4‐6章,コロ3:1‐4:6).私たちは「すでに得たのでもなく,すでに完全にされているのでも」ないが,キリストによってとらえられて,「うしろのものを忘れ」,神の栄冠を目指して,「ひたむきに前のものに向かって」一心に走るのである(ピリ3:12‐14).
(8)終末.こうして,救いの完成はなお未来にある.神の御子の到来により,新しい時代が始まった.しかしキリストの復活,そしてキリスト者に内住する御霊は,救いの完成を確信させる初穂にすぎない(ロマ8:23,Tコリ15:20‐23).からだの贖いはキリストの再臨によって完成する.その時,キリスト者は,いつまでもキリストと共にいることになり(Tテサ4:15‐17),キリストに属している死者は復活する(Tコリ15:23).いずれも朽ちない天上のからだを与えられるのである(Tコリ15:35以下).その日はまた,さばきの日でもある.各キリスト者の働きの真価が明らかとなり(Tコリ3:13‐15),その行為に応じて,報いが与えられる(Uコリ5:10).しかし,キリストを拒む人々にとっては,神の怒りが現れる日である(ロマ2:5,8,Tテサ1:10,Uテサ2:10‐12).しかも滅びは突如として襲いかかるのである(Tテサ5:3).その時,被造物全体が「滅びの束縛から解放され,神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」る(ロマ8:21).さらに,あらゆる権威,権力がキリストに服し,それから支配全体が神に渡され,死も滅ぼされる(Tコリ15:24‐26).こうして,「神が,すべてにおいてすべてとなられる」のである(Tコリ15:28).パウロは,自らの生存中に必ず再臨があるとは言っていない(ピリ1:20‐23)が,彼は主の再臨を心から待ち望んでいた(ピリ3:20‐21).「主よ,来てください」(Tコリ16:22)という初代教会の祈りと共に.(内田和彦)

*3ヨセフ(族)(〈ヘ〉yosep,yehosep)
 族長ヤコブの11番目の子で,ラケルから生れた最初の子である.「ヨセフ」という名は,「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように」と言われた「加える」の動詞〈ヘ〉ヤーサフに由来する(創30:22‐24).ヤコブが20年間ラバンのもとで仕えてから,カナンの地に帰る6年ほど前に,パダン・アラムで生れた(創31:41).ヨセフの生涯の記述は,非常に具体的で詳細に記されており,しかも全体に調和があり,まとまった形で記録されている.ヨセフは,父ヤコブの年老いてからの子であり,しかもヤコブが愛したラケルの最初の子であったので,他の異母兄たちよりもヤコブに愛された(創37:1‐3).彼には特別に,「そでつきの長服」が与えられた.結果としてヨセフは兄たちから憎まれることになった.特に,兄たちがヨセフに仕えることになるという夢の話をしたので,ますます憎まれるようになり,ヨセフは兄たちに殺されそうになったが,長兄ルベンに助けられ,穴に投げ込まれた.しかしルベンがいない間に,他の兄たちはヨセフをイシュマエル人に売り,イシュマエル人はヨセフをエジプトに連れていった.ヨセフが17歳の時のことであった.兄たちは,ヨセフの長服を血に浸して父ヤコブのところに持っていき,ヨセフは野獣に殺されたと偽った.こうしてヨセフは,エジプトの王パロの廷臣で,その侍従長ポティファルに売られ,奴隷となった(創37章).ポティファルのもとでのヨセフは,主が共におられたので,そのなすすべてのことにおいて成功を収めた.彼は,ポティファルの側近に任じられ,家の財産の管理をすべてゆだねられた.しかし,ポティファルの妻のざん言により,無実の罪をきせられ,数年の間王の監獄に入れられることになった.そこでも彼は監獄の長に認められ,全囚人の監督を任された(創39章).その頃,パロの献酌官長と調理官長とがパロに対して罪を犯したために,ヨセフと同じ監獄に入れられた.彼ら2人は夢を見たが,その夢の意味をヨセフが解き明かすと,その解き明かしの通りになり,献酌官長はもとの役に戻り,調理官長は木にかけられて殺された.ヨセフは,献酌官長に自分のことを思い出してくれるように願ったが,彼はヨセフのことを忘れてしまった(創40章).それから2年の後,パロが2つの夢を見て,エジプトのすべての呪法師にその解き明かしを命じたが,解き明かすことのできるものはだれもいなかった.その時,先の献酌官長がヨセフのことを思い出し,監獄でのいきさつをパロに話した.パロはヨセフを呼び出して,その夢の解き明かしを命じた.ヨセフは,その解き明かしで示されていることは,これから神のなさろうとしていることであって,エジプト全土が7年間大豊作の恵みにあずかり,その後7年間のききんが起り,地は荒廃するというものであった.そしてヨセフは,そのききんのために,豊作の7年の間に備えをするようにパロに進言した.このことは,パロとすべての家臣たちに認められ,パロはエジプトの全地をヨセフに支配させることにした.これはヨセフが30歳の時であった.ヨセフは,オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚し,ききんがくる前に2人の子マナセとエフライムをもうけた.ヨセフは,豊作の7年間,食糧を町々に蓄えた.そして豊作の7年が終ると,7年のききんがやってきた(創41章).カナンの地にいたヤコブたちもききんにあい,穀物を買うために,ヤコブは末の子ベニヤミンを除く10人の子供たちをエジプトに遣わした.この10人は,ヨセフのところに来て,顔を地につけて伏し拝んだ.これは,ヨセフがエジプトに売られる前に見た夢の成就であった.ヨセフは,弟ベニヤミンのことで兄たちを試みた.2回目にベニヤミンが連れてこられた時,ヨセフは自分の身を明かし,彼らを赦すことを告げた.ヨセフは,自分がエジプトに売られたのは,ヤコブの家の救いのために自分が先に遣わされたのであると言い,父と共にエジプトの地に移り住むように勧めた(創42‐45章).ヤコブとその一族とはエジプトに移り,ヨセフのゆえにエジプトのパロの歓迎を受けた.そして,彼らはゴシェンの地に住むことが許され,エジプトの地で大いなる国民となるという神の約束を受けた(創46‐47章).ヨセフは,父ヤコブが死んだ時,父をミイラにし,父の約束に従ってカナンの地に行き,そこで7日間葬儀を行った.父の死後,兄たちはヨセフを恐れたが,ヨセフは兄たちに神の恵みと計画の大きさを語った.ヨセフは110歳で死んだ.そして自分の遺体をカナンの地に葬るようにとイスラエルの子らに遺言した(創50章).出エジプトの時に彼の骨はカナンの地に運ばれ,シェケムに葬られた(出13:19,ヨシ24:32).(上沼昌雄)

*4ルツ (〈ヘ〉rut,〈ギ〉Rhouth)
 モアブの女.ルツ記の主人公.ルツは,士師時代(前1390?1044年頃)にあったききんのためにベツレヘムから逃れてきたエリメレク,ナオミ夫妻の子マフロンと結婚したが(ルツ4:10),義父エリメレクと夫に先立たれてしまった.そのため,故郷に帰るというナオミに従ってベツレヘムに行く決心をした.その時,モアブに残って再婚することを勧めるナオミに対し,ルツは真の神に対する信仰を告白し,ナオミに従ってベツレヘムへ行った.ベツレヘムでのルツは,落ち穂を拾って,ナオミを助けていたが,ある日エリメレクの親族の一人であるボアズと知り合い,ボアズから親切にもてなされた.ルツは,ナオミの勧めでボアズに求婚した.当時の習慣では,子のない寡婦は夫の地を相続することができなかった(民27:8‐11).そこで,それを買い戻した者は寡婦を養う義務が生じ,その女が若い場合は彼女をめとり,子を生み,その子に土地を与える義務があった(創38:8‐9).ボアズは,マフロンの一番近い親族を探し,買い戻しの意志のないことを確かめたうえで,ルツをめとった(ルツ4章).ルツはエッサイの父であるオベデを産んだ.そしてエッサイからダビデが生れた.ルツは異邦人でありながら,その信仰によってイスラエルの民の中に加えられ,救い主イエス・キリストの祖先の一人となった(マタ1:5)

*5■モーセ (〈ヘ〉〈ア〉moseh,〈ギ〉Mouses)
 イスラエルの民をエジプトから導き出した指導者であり,預言者であり,律法授与者である.その生涯は,40年ごとの3期に分けられる.以下その生涯をおもな出来事との関連で考察する.
1.誕生とエジプトでの40年.
2.ミデヤンでの40年.
3.出エジプトと荒野での40年.
4.シナイ契約.
5.モアブ契約.
6.モーセ五書.
7.新約聖書その他におけるモーセ.
1.誕生とエジプトでの40年.モーセの生涯に関する資料は旧約聖書が主であり,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記に大部分が記されている.モーセはエジプトで,レビ人の両親アムラムとヨケベデの間に生れた(出2:1,6:20).ヨケベデはアムラムのおばに当った.モーセには,3歳年上の兄アロン(出7:7)と,アロンの姉ミリヤムがいた.モーセが生れた時は,ヨセフのことを知らないパロが統治していた時で,しかもヘブル人の男の子が生れたら,ナイル川に投げ込んで殺せという命令が出されていた.しかしモーセの両親はこの命令に従わず,彼を隠しておいたが,3か月後ついにパピルス製のかご(ノアの箱舟と同じ語が用いられている)に入れ,ナイル川の葦の茂みの中に置いた.そこでパロの娘に拾い上げられ,実の母を乳母として育てられた(出2:2‐9).その後,パロの娘の子として,40年間宮廷で生活するが,パロの娘は,「水の中から,私がこの子を引き出した」と言ってモーセと名づけた(出2:10).前15世紀のエジプトの文書中には,「子供」「生れる」を意味する「モセ」ということばが人の名として用いられている(プタモセ,ハルモセ,トトモセ等)ことから,本来は「……モセ」(?の子)というエジプト名であったのが,ヘブル語との語呂合せと,水の中から救われ,しかも神の民イスラエルをエジプトの奴隷の地から,また葦の海(紅海)の水の中から引き出すという大事業を行った人物の名として,ヘブル語マーシャー「引き出す」に結びつけて「引き出す者」という名となったと思われる.なぜなら,パロの娘が最初からヘブル語で名前をつけたというのは考えにくいからである.このパロの娘がだれであったかということは,出エジプトの年代を論じる時に取り上げられるが,早期説をとれば,トゥトメス2世の娘でハトシェプスト女王ということになり,後期説をとれば,パロの側室の一人ということになる.モーセの少年時代のことはユダヤの歴史家ヨセフォスの『ユダヤ古代誌』にも伝えられている(2:10:6).新約聖書の使7:22に「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ,ことばにもわざにも力がありました」と記されている通り,彼は当時の最高の教育を受け,読み書き計算はもちろん,天文学,地学,戦術等にも通じていたに違いない.しかも,自分がヘブル人であることを自覚し,奴隷の状態にある同胞のために心を痛めていた.しかし,まだ時が満ちず,モーセはミデヤンの地に逃れて,そこでさらに40年を過すことになる(出2:15).
2.ミデヤンでの40年.モーセはミデヤンの地に逃れた時40歳くらいだったという記事は,使7:23のステパノの説教中に記されている.出7:7には,モーセが再びエジプトに戻りパロの前に立った時は80歳であったとあり,使7:30には,ミデヤンに行って40年たった時,主の啓示が柴の燃える炎の中からあったとも記されている.ミデヤンの地でモーセは祭司イテロの娘チッポラと結婚し,ゲルショムとエリエゼルという子供を与えられた(出2:21‐22,18:1‐4).彼は羊の番をしながら将来の働きへの備えをした.妻の父イテロはレウエル(出2:18,民10:29)とも呼ばれている.妻チッポラはクシュ人の女(民12:1)と呼ばれているが,それはハバ3:7に出てくるクシャンのことで,ミデヤンと同義と思われる.なお,モーセの義兄弟と訳されているホバブ(士4:11.参照民10:29)はケニ人(Tサム15:6)の先祖となった(士1:16).ミデヤンでの40年の終りに,モーセはホレブの地のシナイ山のふもとで神からの特別啓示を受けた(出3章).神はその時,柴の燃える炎の中からモーセに語られ,イスラエルの民をエジプトから導き出すよう指示されたが,モーセは,繰り返しそれを辞退しようとした.それに対し,神は約束と共に,特に,御自身の呼び名である聖なる4文字「主」の持つ固有の意味を説明された(出3:13‐14).この点は,出6:3とも深いかかわりを持っており,正しく理解する必要がある.「主」という呼び名は,創世記の中ですでに用いられており,決して初めて示された呼び名ではない.「主」ということばの由来に関しては確かではないが,モーセに対して神は,「主」という呼び名の意味を明らかに示されたのである.それは,ヘブル語の動詞ハーヤーを用いた説明で,出3:12の「わたしはともにいる」という表現をそのまま2回繰り返した形であり「『わたしはある.』という者である」(出3:14)と訳されている.出6:3に「わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに,全能の神として現われたが,主という名では,わたしを彼らに知らせなかった」とあるのも,「主」という名の意味が今や明らかにされる時がきたことを示している.すなわち,「主」という呼び名には,「契約を守り成就する」という意味があることが明らかにされたのである.ヘブル語の未完了形には進展的継続を表す機能があると言われるが(ゲゼニウス),「わたしはある」とは,「不変」「共存」「遂行」という意味で,約束に忠実であり,約束を与えた相手と共におり,その約束を成就するということを意味している.族長たちに,全能の神(〈ヘ〉エール・シャッダイ)として約束を与えた神が(創17:1,28:3,35:11),「わたしは主である」という名乗りに約束遂行の意味を込めてモーセに現れ,モーセを励まされたのである(出6:2,6‐8).
3.出エジプトと荒野での40年.イスラエル人がエジプトを出ることを求めたモーセに対し,パロは労働力を失うことを理由に拒絶した.このパロがだれであったかは確かでない.早期説によれば,出エジプトは前1447年,アメンホテプ2世の時に起った.前1720年頃から,人種的にイスラエル人と近いヒクソスと呼ばれた人々がエジプトを支配し,その支配は約150年間続いた.この時に,ヨセフを中心にイスラエル人がエジプトに移り住んだ.そして前1570年頃から「ヨセフのことを知らないパロ」が第18王朝を創設し,イスラエル人に対する圧迫が始まり,特にトゥトメス3世(前1479?1447年)の時に激しい圧迫がなされた.この説の根拠として次のことがあげられる.(1)ヒクソス支配の終りと新しい王朝の始まりという大変化.(2)トゥトメス1世の娘ハトシェプストが一時女王として治めたことと,兄弟トゥトメス3世と仲が悪かったこと.(3)T列6:1に「イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目,ソロモンがイスラエルの王となってから4年目のジブの月,すなわち第2の月に,ソロモンは主の家の建設に取りかかった」と記されており,ソロモンの死が前931年とすると,治世の第4年とは前967年か968年になり,したがってそれより480年前は前1447年となる.(4)士11:26で,エフタがアモン人の王に伝言したことばとして,イスラエル人は当時300年間もその地に住んでいると言っているが,エフタの年代をソロモンより180年くらい前と考えれば,(3)と同じ年数が出てくる.(5)トゥトメス3世の息子で後継者のアメンホテプ2世は,他に類を見ない力持ちで,同時に暴虐を好む王であった(彼のものとされる強弓が,カイロ博物館に収められている).(6)アメンホテプ2世の長男は早死にで王位を継がなかった.(7)前1220年頃のパロであるメルネプタの戦勝碑に「イスラエルは跡形もなくなった」とあるが,その頃までにはイスラエル人がパレスチナに定着していたものと思われる.次に,後期説によれば,出エジプトは,前1275年頃ラメセス2世の時に起った.その根拠は考古学的な成果によるものである.(1)出1:11にイスラエル人が「パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた」とある.これはラメセス2世が,ヒクソス時代の首都アバリスを再建して,ピ・ラメッセと改称したことと,イスラエル人が居住していたゴシェンの地のワディ・アトゥムにあるテル・エル・マスクタが,ペル・アトゥム,すなわちピトムであったらしいということと劫・vする.(2)N・グリュックによるヨルダン東岸の発掘の結果,早期説による年代の頃には,モアブ,エドム地方に住居跡がなかったことになる.(3)ヨシ17:16,18によれば,カナン侵入当時,カナン人は鉄の器,鉄の戦車を持っていた,とあるが,鉄器時代の始まりを前1200年頃とすれば,早期説の年代では早すぎる.(4)ラメセス2世のパレスチナ遠征の記録中にイスラエル人のことが記されていない.以上,早期説も後期説も,それぞれもっともな点があるが,同時に,反論も可能であり,考古学的な成果も決定的なものではないので,どちらが正しいとも言えない.さて,パロとエジプト人に対する10の災害(血,かえる,ぶよ,あぶ,疫病,腫物,雹,いなご,やみ,初子の死)(出7‐11章)の末,ようやくパロの心もイスラエル人の心も,出エジプトへと向かうことになった.過越の儀式を通して,イスラエル人は主のさばきと守りを体験し,子羊の血による贖いを知った(出12‐13章).イスラエル人はアビブの月の15日にエジプトを出発した(出12:51,13:18).しかし,パロはすぐに心を変えて,イスラエル人の後を追った.前には海,後ろにはエジプトの軍隊,間にあるのは雲の柱,今や救いは主のみにあるという状態であった(出14:10).葦の海(紅海)の位置は不明であるが,今日のスエズ運河の南端にある苦湖の北側であっただろうというのが一般の見解である.ここでの出来事は,出エジプトにおける神の力強く不思議なみわざとして後代に至るまで覚えられたのである(出15:1‐18,申6:20‐25,26:5‐11,詩106:9).葦の海を渡ることによって,救出の第1段階は終り,以後40年間にわたるシナイの荒野での生活が,カナンへの準備また訓練の期間として始まったのである.
4.シナイ契約.荒野の旅においてモーセが果した役割は,第1に,民をシナイ山に導くことであり,第2に,モアブの野に導くことであったと言える.しかも,当初の目的は,シナイ山への旅にあった.途中,うずらとマナが天から与えられ(出16章),第3の月にシナイの荒野に着いた(出19:1).そこで民は,神からの契約のことばを聞き(出20章),主との契約関係を結ぶことによって,新しい国民,祭司の国としての出発を始めることになる(出19:5‐6,24:7).ところで,モーセを通して与えられた神とイスラエルの間の契約の形式が,前14?13世紀の近東諸国に見られる「宗主権条約」「大王の契約」と類似していると言われ,シナイ契約,モアブ契約を,その形式に当てはめる試みがなされている.もしこれが正しいとすれば,モーセは当時の支配国と被支配国との間の契約関係を用いて,神とイスラエルの関係を表したことになる.
1.前文または見出し 出20:1,申1:1‐5.
2.歴史的序文 出20:2,申1:6‐3:29.
3.条項または規定 出20:3‐17,22‐26,21‐23章,25‐31章(詳述),申4‐11章,12‐26章(詳述).
4.契約本文の保管 出25:16,34:1,28,29,申10:1‐5,31:9,24‐26.
5.契約本文の朗読 申31:10‐13.
6.証人 出24:4,申31:16‐30,32:1‐47.
7.祝福とのろい レビ26:3‐13,14‐20,申28:1‐14,15‐68.
このようにして,神政国家が誕生した.しかし,その直後イスラエル人は,金の子牛事件を起し,神の怒りを招いた(出32章).しかしモーセの必死のとりなしによって,ようやく神の怒りは去った.幕屋が建てられ,レビ記の内容である民の聖別と礼拝の規定が与えられ,シナイ山のふもとでの1年間の滞在が終り,カナンへの旅が開始されることになる(民10:11‐12).
5.モアブ契約.申1章には,シナイ山を出発したイスラエル人が,11日の道のりを歩いてカデシュ・バルネアに着いたと記されている(申1:2,19).カデシュ・バルネアは,死海の南にいたエドム人の西の境界の町で(民20:16),ユダヤ人学者Y・アハロニは,実際に,モーセの山と呼ばれている現在のシナイ山からカデシュ・バルネアまで歩いて11日の距離であることを証明している.カデシュ・バルネアに滞在中,荒野での38年の放浪を決定づける事件が起った.それは,カナンの地の偵察に派遣された12人の偵察隊の報告である(民13:25‐26).そのうちカレブとヨシュアはカナン進撃を提案したが,他の者はカナンの住民を恐れ,民衆もエジプトへ帰ろうと言い出す始末であった(民14:4).ここに神の怒りは再び燃え上がり,民衆を疫病で滅ぼそうとモーセに告げたが,モーセはまた民のためにとりなし,赦しを求めたのである(民14:19).その結果,カデシュ・バルネアを中心に38年の荒野の生活が始まり(申2:14),その間にその世代の戦士たちは,宿営のうちから絶えてしまった.荒野の放浪も終ろうとする頃,モーセはヨルダンの東側モアブの地で,新しい世代の者たちに対して,神との契約を更新した(申1:3,5).ミリヤムとアロンはすでに死に(民20:1,29),モーセもヨルダンを渡ることは許されていなかった(申3:27).しかし,モーセの後継者ヨシュア(民27:18‐23)によって,新しい世代は約束の地に入ることができるのである(申1:8).新しい世代が希望を持って乳と蜜の流れる約束の地に入り,そこで神の民としての生活を異教のただ中で正しく守ることができるように,モーセは,民衆のための教えと,神の約束を分りやすく解説している.それが申命記であり,それは1‐4章,5‐28章,29‐30章の3つの部分から成っている.これは同時に,神と新しい世代との間の契約であった(申29:1).120歳になったモーセは民を教え,祝福した後,ピスガの頂から約束の地を眺め,主の命令によって,モアブの地で死んだ(申34:1‐7).
6.モーセ五書.旧約聖書の最初の5つの書である創世記,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記は,モーセによって記録され,編集されたものが基礎となっている.モーセ時代以前から文字は用いられていたし,記録する皮紙,粘土板も広く用いられていたから,モーセは既存の資料(創世記中の物語群,系図等)や,旅行中の日誌,記録等を十分に用いることができた.また,エジプトで受けた広い学問の成果を応用することもできた.創世記は,天地創造を含めて,特にイスラエルの選びが中心であり,出エジプト記は,エジプトの奴隷状態からの救出が主題となっている.そして,レビ記は神の民の聖別,民数記は約束の地への行進,申命記は新しい世代への指針がテーマとなっており,モーセの指導者としての一貫した意図を見ることができる.まさに,モーセの五書であり,「律法はモーセを通して与えられた」(ヨハ1:17)のである.
7.新約聖書その他におけるモーセ.新約聖書中では,モーセは他のだれよりも多く引用されている.そして,イエス・キリストの職務との比較で,モーセは律法授与者,救出者であり,キリストはその律法の完成者,罪からの真の救い主であると言われている(マタ8:4,17:1‐8,マコ7:10,9:2‐8,10:2‐9,Uコリ3:6‐18).モーセは,キリストによる新しい契約の備えであり予表である(ヘブ9章).モーセは忠実なしもべであったが,キリストは神の子である(ヘブ3:1‐6).モーセによる出エジプトの出来事は,キリストの十字架と復活による贖いの予表である.イスラム教においても,モーセの人格と業績は重要な位置を占めており,モーセはマホメットの到来を預言したと言う.またコーランには,モーセとそのしもべが世界の果てまで旅行したということも記されている.(富井悠夫)


*6エステル (〈ヘ〉ester)
 ペルシヤ語で「星」という意味.ベニヤミン族に属し,ヘブル名はハダサという名であった.父母が早く死んだため,いとこのモルデカ
イに養女として育てられた(エス2:7).彼女は美しい娘で,後にペルシヤ王アハシュエロスの王妃となった.彼女の決死の嘆願により,ペルシヤにいたユダヤ人のいのちが救われた.

*7ダニエル (〈ヘ〉〈ア〉daniyyel,〈ヘ〉daniel,〈ギ〉Daniel) 
 ダニエル書の主人公で,ダニ1:1‐6によると,エホヤキム王の治世の第3年(前605年)に,バビロンの王ネブカデネザルによって捕囚とされたユダ部族の青年貴族の一人.当時の慣習で,ベルテシャツァルというバビロン名をつけられた(ダニ1:7).ネブカデネザル王の夢を解き明かしたことで評判を得(ダニ2章),最後には自分が見た幻を解き明かす中で,未来のメシヤ王国の勝利について預言した(ダニ7‐12章).その明敏さのゆえにネブカデネザル,ベルシャツァル,ダリヨスの治世に要職にあった.新約では,マタ24:15に「預言者ダニエル」として1回だけ名があげられている.なお,エゼキエル書に代表的義人としてノア,ヨブと共にダニエルという名が出てくる(エゼ14:14,20).さらにエゼ28:3には特別に知恵のある者として出てくる.ラス・シャムラ出土のウガリット文書にDanelという人物が出ており,エゼキエルがその人物に言及しているとの見方があるが,推測の域を出ない.エゼ14章では,ノア,ヨブと共に義人としてのダニエルについて言われていることから,聖書のダニエルと考えるのが最も自然である.(『新聖書辞典』)