257 夜パウロは幻を見た

聖書箇所〔使徒の働き16章9−10節〕

私の特技は一人部屋に篭り、コーヒーを飲むことです。最近の新聞報道によれば一日に六杯以上飲む人は糖尿病にかかりにくいとのこと。してやったり、といった気分です。でも本当のところ、コーヒーが問題なのではありません。この時間に夢と幻を楽しむのです。私の見た夢と幻はすべて実現しました。ゆえに至福のひとときです。何時間あっても足りない、「やめられない、止まらない」病み付きの時間です。夢と幻を見るというのはなんとすばらしいことでしょう。あなたは何を見ますか?

ものぐさのお父さんがいました。日曜日になるとテレビの前で横になり、チャンネルを変えるにも起き上がることなく足を伸ばして変えようとします。ある日子どもが二階から降りて来て、お父さんの隣に横になり、同じように足でチャンネルを変えたのです。人は普段見ているものに似てくるものです。何を見るかは非常に重要です。そこでもう一度あなたへ質問。あなたは何を見ますか?今回はこの聖書箇所から何を見るべきか、何を見ることが理想かをともに考えましょう。今回は夢も幻も区別しないで、「いまだ実現してない強い希望や理想」と理解して話を進めましょう。

夜パウロは幻を見た

「ひとりのマケドニア人か立って、マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願しています。パウロがこの幻を見た後、ヘレスポント海峡を渡り、ついにヨーロツパに福音が伝わり、キリスト教2000年の歴史が始まったのです。記念すべき一瞬でした。パウロがこの歴史的な幻を見たとき、行きづまっていたようです。彼は聖霊によりアジヤでみことばを語ることを禁じられていました。「そんなことがあるか!?まさか!」と思わず叫びたくなるようなことではないでしょうか。また、すぐれた弟子テモテを得て、彼の働きはさらに前進して行くかに見えた矢先でした。パウロの宣教への情熱はすさまじいもので、その使命は小アジヤ地方のみならず、インドや中国の方面にまであるかのような印象です。しかし聖霊の神は、このときパウロが動くのを許されませんでした。聖霊はみことばを語るのを禁じられました。なにがあったのかはわかりません。パウロの持病のせい?その地の宗教的指導者が抵抗勢力として立ちはだかった?分かりません。とにかくパウロは、行き場を失い、ふらふらとさまようように、小アジヤのはずれトロアスにまで来てしまいました。彼は確かに失意の中にいました。でもそのような時に彼はすばらしい神さまからの幻を見ました。夜、それは失意の代名詞。あなたにも夜があるのでは?いやいままでに幾度となくあったのでは?それとも今、たった今?そのようなときには私たちはどのように振舞ったらいいのでしょうか?答え、それは上を見ること。天を見上げること。あなたは神さまから夢や幻を見せていただけるかもしれませんよ。どうか横を見ないでください。横を見るというのは、他の人たちが、そしてその振る舞いが目に飛び込んできて、「あの人が悪い、だからこんなふうに私の状況は悪いんだ!」とつい考えてさばきます。私は現在の勝利教会を開拓しました。日本では厳密な意味で「開拓する(親教会から分離してとか、経済的人材的に援助されてとか、すでに集会は他の人が始めていたとかというのは当てはまりません)」というのはまれなケースです。このまれなケースに相当しますので種々の壁に突き当たりつつやって来ました。開始後最初の大きな壁は3年目でした。教会が成長しないのです。もがく中で天を見上げ、与えられたみことばがヨシュア記1章7節でした。

 私はあなたを離れず、見捨てない。あなたが行くところどこへ行っても栄える。

 私は飛び上がって喜びました。それからです。与えられた幻にしたがって、いくつもの教会を建て始めたのは。あなたも天を見上げてみませんか。

聖霊が夢と幻を見せる

聖書を読んで気がつくことは、人生の行きづまりの場面で夢や幻を神さまからいただく人が多いことです。選民イスラエル民族の祖となったヤコブ。彼は長い間悶々として生きて来ました。ある一つのことに納得が行かなかったのです。双子の兄エサウが「ちょっとだけ早く世に出ただけで長子と言われ、すべての財産を受け継ぐのか」、これが彼の疑問でした。ついに父と兄をだまして莫大な財産を手に入れます。でも兄から恨まれ追いかけられ、殺されそうになり逃げ回ります。そのような中で、冷たい石を枕に野宿をしているとき、彼の生涯を決する「天からのはしご」の夢を見るのです。現実は殺されそうになり、自己嫌悪感にさいなまれ、うつうつとしている中、まるで地獄の中に居るようなときにこの夢を見るのです。彼は天国の夢を見、神の声を聞きました。

「あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこにいっても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:14-15)

天国の夢とみことば、それは「私はあなたの人生がハッピーエンドになるようにするよ!」という意味です。とてつもなく落ち込んでいた彼にとってはなんというよろこばしいメッセージでしょうか。信仰の父と言われるアブラハムは幻の中で次のように主のみことばを与えられました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。……おまえの子孫はこのようになる」(創世記15:1-6)彼はこれを信じて義と認められ、ゆえに信仰の父となりました。ヨセフはまさに夢を見る人でした。創世記37章を見てください。「束ねた麦の穂」と「太陽と月と十一の星」の夢が神の不思議な摂理の御手の中で実現していくのがヨセフ物語です。モーセは「燃える柴」、イザヤは「神殿に満ちた主の鋸」や「砂漠にサフランの花が咲く」、エレミヤは「良いいちじく」、エゼキエルは「枯れた骨」や「神殿から流れ出る命の水」の幻を見ました。この他にもダニエル、アモス、ヨエル、ゼカリヤ、ペテロというふうに枚挙にいとまがありません。そうして今回はパウロの「懇願するマケドニア人」の幻です。これを見て、彼はヨーロツパキリスト教二〇〇0年の歴史のスターターとなったのです。実はこのような夢や幻は聖霊が見せてくれるものです。ではどのようにしたらそのような恩恵にあずかることができるのでしょうか。それには心の深い部分までイエスさまを信じることです。潜在意識までも信仰に満たされることが必要です。パウロはあるときこう言いました。

 「私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)

 寝ていても想うことはキリストのことばかり、万が一そうでなかったら死んだ方が良い。これです。あなたは恋をしたことがありますか。ありますかなんて失礼かもしれませんね。聞きたいのは、寝ても覚めても想い出すのは彼女(彼)のことばかり、だったのでは?これは潜在意識にまで彼女(彼)が座を占めているからです。他には酒を飲んだときに出て来ます。無口な人が話し上戸になったりします。いつもは人前では黙っているのに、急に喋りだし止りません。こちらがほんとうの彼の姿です。無口はいわば芝居です。潜在意識にあるものはイマジネーションになっています。フランスの心理学者クーエが「人間の意志(たとえば、「これをすることは正しいことである。したがってこれをすることに決めた」ということ)とイマジネーションが争うと100パーセントでイマジネーションが勝つ」と言いました。例えば、自分はパチンコをやめようという意志を働かせても、パチンコ屋の前を通り、軍艦マーチとチンジャラチンジャラの音が聞こえてくると、いつの間にかパチンコ台の前に自分が座っているといったことです。ではどうしたら潜在意識までイエスさまを深く信じ聖霊による幻や夢を見るようにできるのでしょうか。それには「十字架の上で私の罰とさばきと呪いはすべて焼却処分された」と信じることです。どうか信じてください。これが十字架を信じることの真の意味です。この信仰を舞台にイマジネーションは豊かに働きます。ハレルヤ。

夢と幻は人々の間で共有される

 神から発せられた、すなわち聖霊による夢と幻は人々の間で共有されます。多くの人が応援をしてくれます。なんとすばらしいことでしょう。

賀川豊彦は貴族であり、富裕な事業家でもある、天皇の側近であった父とお妾さんだった母の間に生まれました。でも彼が4歳の時に両親とも亡くなり、継母と暮らすことになりました。そこで彼は心身ともに虐侍を受け、愛されない孤独の幼年時代を送ります。徳島の学校に在学中、聖書に出会い、深い感動を受けます。彼はイエスの教えと人格と行動とに感銘を受け、毎日祈る生活を始めました。彼の祈りはこのようでした。「主よ、私をキリストのように造りかえてください」15歳のときに洗礼を受けました。彼の伯父は彼と絶好を宣告、彼の相続権を剥奪しました。21歳のクリスマスの時に、新川にある貧民街に入り、貧しい人たち、助けと休む所が必要な人と共に暮らし、一日2杯のおかゆだけの生活をしました。彼がしばしば病いにかかり、誤解され、中傷され、攻撃されました。けれども、彼は決して負けることはありませんでした。彼は病いにある人々、世から捨てられた人々を訪ね助け、キリストの愛を分かちあいました。彼はいつもキリストを見ていました。こうして彼は多くの人々の、しかも世界中の支持を得て行きます。聖霊によって与えられた夢と幻はこうして人々の間で共有されました。あなたはいつも何を、そしてだれを見ていますか。