262 わたしのしもべは栄える

聖書箇所〔イザヤ52章13節〕

 今回のタイトルはこれです。わたしってだれ?もちろんあなたはお分かりです。父なる神です。ではしもべとは?これもお分かりでしょう。イエスです。さてこの文章は預言です。旧約聖書の物語も同様ですが、意味には二重性があります。たとえば出エジプトの話。エジプトから脱出するとはどういう意味でしょうか?罪からの脱出ですね。約束の地カナンに入るとは?天国に入ること。ではその途中の荒野の旅は?私たちの人生を表しています。人生、苦もあれば楽もある、というわけです。もう一つ。アブラハムとイサクの話。アブラハムは?父なる神、イサクは一人子イエスを表しています。では今回のタイトルです。しもべって他にはだれを指す?答え→あなた、ですよ!神のしもべであるあなたは栄える!というメッセージを今回はあなたのお届けします。三つに分けて神のしもべとは何か?を学びましょう。神のしもべは栄えるのですからとても重要な話ではありませんか。

与える人

 あなたは与える人ですか?イエスは与える人です。ついに命まで与えました。
 命って最も重要な持ち物ですね。でも与えることは正直言ってやさしいことではありません。弟子のパウロがあるとき母教会であるエルサレム教会の金銭的窮状を知り、ヨーロッパで献金を訴えます。彼にとっても現地の教会にとっても恩返しのいい機会ではありました。しかし特にマケドニア教会では葛藤がありました。自分たちも困っていた時期であったからです。でも彼らは献金しました。これを神は大変喜んでくださったし、彼らの間にことばにできないほどの喜びが生まれました。そうです。真の幸せはこのようにして与えられるものです。与えることにより得られます。
 ユダヤのことわざにこのようなものがあります。

「人を幸せにすることは人に香水を振りかけるようなものだ」

 香水を人にかけるなら、きっとあなたにもかかるはずです。三重苦のヘレン・ケラーはこう言いました。

「生きることはわくわくすることだ!」

 あなたはいかがですか?毎日の生活はわくわくするものですか?さらに彼女はこう言います。

「けれども人のために生きるということはもっとわくわくすることだ!」

 与えることがあなたの毎日の生活をわくわく、幸せにしてくれます。

「受けるより与える方が幸い」(使徒20:35)

というイエスのおことばにすなおになってみましょう。それにより実際に経験できることなのです。

ゆる(赦、許)す人

 あなたは赦す人ですか?あなたは許す人ですか?イエスはゆる(赦、許)す人です。
 十字架の上で

「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

 ここには二種類のゆるしがあります。彼ら、イエスを殺そうとしている人々はもはやセルフコントロールが効かない状態です。そういうことってありますね。後になって「あの時、そこまでしなくてもよかったのに……」と思うようなことが。でもそのときは実際に自分を止めることができなかったのです。これをイエスは許しました。もう一つは彼らの傷害や殺人などの罪を赦しています。
 聖書のゆるしに関する原則をここで簡単に解説しましょう。

 加害者になった場合(マタイ5:23-25)

 1)立ち止まる。
 2)相手のもとへ赴く。
 3)仲直りする。
 4)戻ってくる。

 重要なことは謝罪し仲直りすることであり、戻って来ることです。キリスト教の精神は福音であり、それは十字架の後に復活。すなわちやり直しの心です。もう一度、新たな気持ちで。

 被害者になった場合(マタイ18:21-35)

 ペテロの心理は人間一般のものと同じです。それは第一に「私は被害者である」とまず意識しやすいこと。無意識のうちにと言ってもいいでしょう、まず「私こそは被害者だ!」と私たちは思いやすいのです。ペテロの場合はさらに「私はたくさんゆるしますよ。そういう、できた人間ですよ」というアピールが見られます」。さて当時はラビがゆるす回数を3度と教えていました。ペテロはそれを二倍し、ボーナスを一つつけました。得意満面の顔が想像できます。しかしすぐにぎゃふんとさせられます。「7の70倍」とイエスが言うからです。490回ではありません。何度でもゆるしなさいという意味です。ゆるす人の受ける恵みは第一にからだの健康を得やすいこと。学者の研究によりますと胃痛の80%は精神的なものから来るそうです。もう一つは人物が大きくなること。あなたは一人の人間として器は大きいですか?それとも小さいですか。過去にこだわっていれば小さくならざるを得ません。解放される必要があります。過去にこだわっていれば自分のみならず他者の人生にも害を与えます。
 中国山西省のある寒村で起きた事件。妻に捨てられた腹いせに結婚式に爆弾を仕掛けました。30人が死亡、30数人が負傷しました。
 ネルソン・マンデラは黒人として初の南アフリカ大統領になりましたが、民主化闘争ゆえに白人政権下で27年も獄中生活を送りました。ある日訪問してきた弁護士に「ここは地獄だ!」と叫びました。でも叫んでも叫んでも一向に変化はないことに気付いた彼はあることをしました。やがてまた尋ねてきた弁護士に聞かれたときこう答えました。「ここは天国だ!」。「どうしたんですか?何が起きたんですか?監獄の中が改善されたんですか?」「いいや。わたしの心が変わったんだよ」

 私たちは自分の罪がゆるされたことを知るべきです。また憎しみや怒りを持たない健康な精神が健康な体を作ってくれることを知るべきです。
 ユダヤ人のヘラー・エアリヒはナチスドイツに家族を殺されました。戦後、ゆるしをテーマとする討論会に出席し、自分は「決してゆるしはしない」と述べ続けました。しかし、まもなくこう告白します。「私の心の中に何があるか分かって来ました。憎しみの種があり、それが大きく育って来ています。傲慢さ、ねたみなどなど。ナチスの犯した罪と同じものが私の中にあります」こう言って悔い改めたのです。彼女の心の中には平安がいっぱいに広がりました。神のしもべの心の中は平安がいっぱいです。

忘れる人

 あなたは忘れる人ですか?イエスは忘れる人です。
 ここで天国に到着したときのあなたとイエスの会話をモニターしてみましょう。

イエス「ようこそ天国へ」

あなた「ふうー、ようやく来ました!」

イエス「どうぞ、ゆっくりしてください。リラックスしてください」

あなた「ありがとうございます。でもその前に一つきがかりなことがあります」

イエス「何でしょうねえ……」

あなた「実は、あの罪のことなんですが……」

イエス「えっ、あの罪って、何の罪ですか?」

 イエスは忘却の天才です。聖書でいう忘れることの意味をご案内しておきましょう。
 
 1)メモしておかないこと。(Tコリント13:5)
 「1998年10月23日に○○は私に対してこのような仕打ちをした」などなどを帳面にメモしている人はきっといないでしょう。でも心の帳面にメモし続けている人は少なくありません。

 2)つまづきの理由にしないこと。(詩篇119:165)
 「私がこのようなこと(失敗や不適切なことの類)をしてしまったのは○○が以前にこのようなことをしたからだ」などという弁明はよく聞くのではありませんか。

 3)人をさばく心を持たないこと。(マタイ7:1-5)
 私たちはつい他者をさばきたくなりますね。違いを受け入れることも難しい。人間互いに生まれも育ちも異なります。したがって考えも異なります。これは当然のこと。異なることに驚いてはいけません。異なることのほうが自然なことです。大人は互いの違いを認めて、以降どのように調整するかに頭を悩ませるものです、落ち着いて。ヨセフはほんとうに立派です。兄たちや他の人たちからさまざまに厳しい取り扱いを受けながら、どの人の行為も忘れます。美しい話ですね。創世記50章をお読みください。神のしもべは過去の苦い思い出を忘れます。神からいただいた多くの祝福とともに忘れることが可能です。ヨセフは当時のスーパーパワーであるエジプトの総理大臣になっていて、全国民から尊敬を受けていました。