263 あなたを自由にします

聖書箇所 [ヤコブの手紙1章19ー27節]

 イエスさまが十字架の上で命をかけてあがない取ってくださったもの、回復してくださったもの、取りかえしてくださったもの、それは自由です。自由とは選べることであり、従って自由意志をそのことば通りに自由に働かせて、たとえばAとBとがあって、Aを選ぶことが正しいならば何の障害もなく、Aを選べることです。
 ところで私たちの先祖アダムは本来このような自由を与えられていましたが、堕落して失いました。つまり私たちは今、自由ではないのです。最近以下のような文章を目にしました。 

 ユーゴとNATOの戦争に(関して)……セルビア兵ほ残虐で、アルバニア系住民は犠牲者という弼固定観念も、かなり一方的な言説である……。たとえば……次のようにひとりの帰還セルビア兵の経験を伝える記事があった。……その男はまだ若いが一家の父親であり、貧しい半農民・半労働者であった。……三月、動員されたのだ。憲兵と警察が行きたがらない者を残らず刈り出した。金持ちは子供を隠してしまった。だから[貧乏な]私は行かねばならなかった」。空爆が始まって4日後、コソヴォに向かった。到着してみると、すべては破壊され、焼かれていた。彼らもNATOの空爆にあい、兵舎は燃えてしまった。セルビア兵が何人か死亡し、何人かが負傷した。「もっとも恐ろしいことが翌日はじまった。クリナ近くのある村を攻撃する命令を受けたのだ。私はテロリストが隠れているのだろうと思った。事実は前夜の空襲の復讐戦だった。村に入ると三人か四人のテロリストが逃げていくのが見えた。村は市民しか残っていなかった。ひとりの兵士、予備役の兵士だったが、彼が三〇人ほどの女と子供を撃ち殺すのを、私はこの目で見た。NATOの爆撃で彼と同室の兵士がひとり死んだことにたいする復讐だったのだ。その瞬間、私のなかでなにかが崩れた。気が狂ったようになった。相棒の戦車兵が私を落ちつかせようとして、妻や子供のことを思ってみろ、そして生きて家に帰ることを考えよう、と言った。「それに、あれは君のしたことではないぜ」とも言ってくれた。しかしこんな場面に立ち会うのはつらいことだ。頭はなにも考えなくなり、なにも感じなくなった。植物になったみたいだった。」この兵士は人間性の失われる瞬間を経験したのだ。だがそれで最悪の事態が終わったわけではなかった。彼はそれから村から村へ、民族浄化を続けさせられた。話はさらに続くが、もう充分だろう。

 私たちは今、自由なのでしょうか。いいえ。自由ではありません。でもイエスさまがあなたに真の自由をくださっています。今回はそれがどのようなものであるか、学びましょう。

語ることにおける自由[19、26、27節]

 目の前の人が慰めのことばを必要としているなと分かった時に、励ましのことばを必要としているなと分かった時に、慰めや励ましのことばをかけられる人は自由な人です。嬉しそうな素振りをしていたら、「何かいいことがあったの?」と聞いて、彼の喜びを二倍にし、自分も一緒に喜ぶ。これも自由な人のすることです。

 一人の婦人と男性の会話です。「あなたに前々から言いたいことがあったのです。実は、あなたの首にかけてあるひも(ネクタイのこと)、それって、少し長いんじゃあーないかしら。はさみで切らせていただけないかしら」。彼はこう応答しました。「いいですよ。でももしあなたにも長過ぎるもの(舌)があったら、切らせてもらえますか」。
 とげのある会話と言っていいでしょう。互いに語ることにおいて自由ではありません。真の自由は語るとき、罪を犯さず、ことばを受けた人が傷つきません。ネパールでボランティアをしている外国人お医者さんの体験です。あるとき、一人の若者が一昼夜、山道を病人を背負ってやって来ました。大変な苦労であったことが分かったお医者さんはなにがしかのお金を渡そうとしました。でも彼はこう言いました。「お礼は要りません。みんなで生きているんです」。お医者さんの中で何かが弾けたのです。それは高慢、だったのでしょうか。語ることにおいて自由になって行く人は自分の徳を高めるのです。

怒ることにおける自由[19節]

 まず原則をはっきりさせましょう。怒ること自体は罪ではありません。何が問題でしょうか。動機です。正義のために怒るのはいいことです。でも自分のプライドが傷つけられたからとか、自分の思い通りにならないからとか、このような理由で怒るのは良くないことです。自由な人は不正を見て怒り、自分の足りなさや欠点を指摘されたことを、「神さまからの贈り物!」と感謝をし、悔い改めます。ところで私たちは一つの重要なことを忘れてはいけません。

 病院に赤ちゃんが運び込まれました。担当のお医者さんはいろいろと調べてみましたが、全く原因が分かりません。あるとき、回診でその子の家を訪ねました。なんと家の外まで聞こえる夫婦喧嘩の真っ最中でした。しかも口汚く夫を罵る母親の胸にはしっかりとその赤ちゃんが抱かれていました。二日後に死亡しました。こんなことがあるんですね。怒りはおっぱいに毒物を入れたのです。ご存知の通り、私たちの身体は種々の物質の製造工場です。怒るときに毒物が体内に製造されることを知らなければなりません。
 若い女性の腕が動かなくなりました。カウンセラーに相談したところ、原因が分かりました。彼女には母親に対する怒りがあったのです。つい殴り掛かりそうになる思いと、殴ってはいけないという思いとが葛藤を起こしていたのです。悔い改めて彼女の腕は再び自由になりました。怒りはコントロールされなければなりません。

汚れや悪からの自由[21節]

 これは百害あって一利なしのものです。そんなもの、つき合わなければいいじゃあないか、とお思いですか。それがそうは問屋が卸さないのが私たちの中にある不自由さの現実です。なぜって、肉の持つ欲求の強さのせいです。一時の気持ちの良さが許さないんです。悪習慣から私たちが離れることができないのはそのためです。こんなことは止めた方がいいと理性的には分かっていてもそうはできないのが、悲しいところです。

 若い娘さんがいかがわしい場所に出入りしていました。友人がそれを見兼ねて忠告しました。でも彼女はこう言って耳を傾けません。「クリスチャンって、何をしても自由なんでショ!」。愛情のある友人はこういう話を彼女にしました。「私たちね、この前、炭坑見学ツアーに参加したの。入口で一人の女生と案内役の炭坑夫さんが会話しているのを見たわ。『お嬢さん。白いワンピースで入坑するのはどうも……」。「えっ!どうしてちゃんと、お金払ってあるでショ!」。「確かに、でも白いままでは出て来れませんよ」。その後忠告を聞いたのかは定かではありません。真に自由な人とは、理性で正しく判断した通りの事をすることができる人の事です。イエスさまはマタイの福音書5章38節から41節で恐ろしい程のハイレベルのクリスチャン倫理を教えていらっしゃいます。このようにできる、これは正真正銘の自由人ならではです。

怠惰からの自由[23ー27節]

 私たちは生まれながらに怠惰です。そこで、というよりもだからこそ、つい外面的なものに頼りがちです。26節は外面的なもので自分の信仰の立派さをアピールしている人への批判です。形式的に信仰を立派に見せかけても、優しさや愛を示すことができないのであればそれは空しいとヤコブは言います。実はこのことばはヤコブ自身の体験に基づくものです。その前にイエスさまが地上に来られたことの意味を確認しましょう。それは「人間って、このように、実際には、生きるんですよー」と目に見える形で私たちに見せようという神さまのお考えでした。「このように」というのは、外面的なものに頼るのではなくて、内面的なものを充実する生き方です。

 イエスさまのご生涯を振り返ってみましょう。神さまのお子なのに馬小屋のような所でお生まれになりました。本来ならばもっと良い場所がふさわしかったのではないでしょうか。お父さんのヨセフがはやくに亡くなったので、若いうちから家計を背負わなければなりませんでした。そして何人もの弟や妹たちの面倒も見なければなりませんでした。しかしきっとこのような環境の中で彼の人間性は養われていったのでしょう。ただし弟たちのだれかはそんなお兄さんの、すなわちイエスさまの気持ちも分からず、困らせたのです。きっとヤコブがそうです。そんなことを思い出しながらこの手紙を書いています。今になって彼はようやく分かったのです。人間は怠けず、すなわち外面的なものに甘えず、しっかりと中身を整えて行かなければならないと。

律法主義からの自由[21ー27節]

 律法主義とは何でしょうか。それは義務感と禁欲主義です。仕方ないからする、義務感であれもしないようにしよう、これもしないようにしよう、という考え方です。極めてストレスの貯まるものです。律法主義でない、自由さのある生き方とは責任感と内側から沸き上がる喜びです。愛が良いことを喜びと共にあなたにさせるのです。良いことをしたくてしたくて仕方がないのです。そんな毎日でありたいものですね。

 さて、最後にどのようにして以上の自由を満喫できるのでしょうか。まず、イエスさまを心に受け入れて下さい。これであなたの中に自由が入りました、ただし持っていることと使える事とは違います。使うことを覚えなければなりません。それにはまず経験すること。

 お母さんが海岸で叫んでいました。「泳ぎ方を覚えるまで、水に入ってはいけませんよ!」。何かおかしいとは思いませんか。きっとこのお母さん、家では「歩き方を覚えるまでは歩いてはいけません、食べ方を覚えるまでは食べてはいけません」と言っているのでしょう。まず経験すること。あなた自身をささげてください、神さまに。「私は神さまのために生きます!」と言ってください。あなたは神さまに造られました。だから神さまのために生きるのが最も適切な、自然な、かつ十分に満足できる生き方です。もし、勇気をもってそうなさるなら、あなたはたった今学んできた自由を経験できるでしょう。神さまの豊かな祝福があなたにありますように。