264 アイの経験に学ぶ

聖書箇所 [ ヨシュア7‐9章]

 アイの経験に学ぶというタイトルですが、これはどのような意味でしょうか?それは失敗と敗北に学ぶと言うことです。失敗と敗北の経験からは実に多くの貴重なことを学ぶことができます。つい、成功した経験からの方が学べるような気がするかも知れませんが、かえって気持ちが緩み、学ぶことはできません。さてイスラエル人はアイ(人口で1万2千人、城壁に囲まれている 8:25)を攻略することに失敗しました。でもこの失敗と敗北とから学んで次回は見事大成功。あなたはいかがでしょうか。何かしようというときに、きっと成功することを願っていらっしゃるでしょうね。でも「失敗してしまった、あーあ」なんていうことはなかったでしょうか?イスラエル人は何を学んだのか、それをともに見て参りましょう。三つのキーワードで説明しましょう。

感謝

 あなたはいつも感謝していますか。いつでもどこでも、そして何事でも、です。もしそうであればすばらしいことです。
 イスラエル人はアイの前にエリコを攻めました。そうしてこれが大成功!実に芸術的な勝利を飾りました。そこで「次はアイだ!」と……しかし、大失敗。あなたにもこのような経験はありませんか。いままで順調に進んでいたのに、急にストップ。停滞、壁、お先真っ暗。気持ちはどんどん否定的になって行きますね。イスラエル人たちもそうでした。

 ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」(7:7-9)

 指導者であるヨシュアまでがこんなことを言うありさま。モーセからリーダーシップを引き継いだばっかりとは言え、困りものです。指導者はどんな場合も毅然とした態度、自信を持って立たなければなりません。いったいなぜ彼らは失敗したのでしょうか。答は高慢。彼らは明らかに高慢でした。赤子の手をひねるようなものだ、という思いで取り組んだのでした。

  ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」(7:2-3)

 直接的と見える敗因はアカンの罪でした。(7:10-21)エリコを攻略した結果得られた戦利品は神のものでした。でも彼は一部をくすねたのです。これはイスラエル人全体の心の状態を象徴しています。高慢な思いでいっぱいでした。「エリコなんてちょろいもんさ、俺たちの力を見たかッ!」でもほんとうのところ、神の力が働いたのです。でも彼らは高慢な気持ちに覆われて気がつきません。でも悔い改めたときには、聖められたときには大成功を勝ち取りました。どうか感謝の習慣を身につけてください。罪ある私たちはついぶつぶつ言う本能に負けます。意識的に「ありがとう!」という習慣を身につけることをお勧めします。ありがとうの思いが高慢の罪を聖めてくれます。

方法

 何をするにも正しい方法があります。教会を開拓する場合にも正しい方法があります。家庭を建設するにも正しい方法があります。そして正しい方法を採用すれば成功します。イスラエル人は正しい方法を採用せず、失敗しました。けれども神は愛!常にチャンスをくださいます。「もう一度、試みてみましょう!」という神の期待を私たちは裏切ってはいけません。イスラエル人にはさっそく正しい方法を伝授してくださいました。

 主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。(8:1-7)

 ここでは二つ指摘しておきましょう。一つは「恐れてはならない。おののいてはならない」という勧めです。気持ちが萎えていたら勝つことはできません。せっかく正しい方法を教えてもらっても「どうせ、勝てないだろうなあー」と思っていれば勝てるものも勝てなくなります。神のおっしゃることはこうです。「私がついているのだから、安心しなさい!」です。一度失敗して心が傷ついている彼らへの配慮がここにはあります。

 もう一つ。「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」。これは総力戦の指示です。前回はどのようにしたでしょうか。7章3節をもう一度見て下さい。手抜きがありましたね。第二次世界大戦で日本軍が敗北した大きな理由は正しい方法を採用しなかったためです。たとえば南大平洋で米軍と戦っている部隊に対して援軍を送る際、ちびちび送りました。「戦力の逐次投入」と呼ばれるものですが、そのつど殲滅させられます。敗北して当然の戦いをしていました。だから敗北しました。アイ攻略に関してさらに詳しいことは注*をご覧ください。正しい方法が成功へと私たちを導きます。神があなたに正しい方法を教えてくださいます。

 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。(8:18)

 槍を持ったことは神の指示に従ったことの象徴です。ちなみにヨシュアの先生モーセは杖でした。先生と生徒は似るものです。どうかあなたも神に知恵を求めてください。正しい方法を教えていただいてください。それを使えば必ず成功します。

ロマン 

 あなたにはロマンがありますか。ロマンを持つ人はいつもエネルギッシュです。なぜでしょうか。常に目標設定を怠らないからです。目標設定とは難しい言い方ですが、意味は簡単です。「次に達成すべきことを決めること」です。ヨシュアはアイに勝利を収めた後、次にしたことは何であったでしょうか。何をしようとしたのでしょうか。

 それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み
上げた。モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。(8:30-35)

 真摯な神礼拝を捧げようとしました。すばらしいことではありませんか。これらのことを通して大きな変化がイスラエル人のみならず、周囲の世界に生じました。「神がバックについているイスラエル人は負けない」という伝説!これこそがロマンの本質。そうしてロマンこそが成功へと私たちを導きます。あなたにはいまどのようなロマンがおありでしょうか。真のロマン、神からいただいたロマン、それはあなたのみならず、周囲の人々をもわくわくさせます。最近(2004年初夏)メル・ギブソンの『パッション』が映画として大成功を収めています。イエス受難の12時間を描いたものです。映画俳優として成功を収めた彼が次に目指したものがこれでした。彼は真の信仰を持って製作にあたりました。常に聖霊が導いてくださったと彼は証言しています。彼はカトリックの信者ですが、聖書に忠実に描き、多くの人々に感動を与え、かつ希望を与えています。これは彼の一つのロマンでもあります。あなたにもロマンが用意されています。求めてください。あなたの心に聖霊が教えてくださるでしょう。ロマンが実現する、これも成功です。神があなたをおおいに祝福してくださいますように。

 *アイ攻略の戦法は、伏兵とおとり隊を置く挟み撃ち作戦である。ただし、伏兵の数と、アイの近くでヨシュアたちが何泊したかが問題である。まず〈勇士たち3万人〉(3)を町の後ろに、次いで〈約5千人〉(12)を町の西側に伏兵として置いたとすると、合せて3万5千人が伏兵として配されたことになる。しかし伏兵としては数が多すぎる。また10節からの段落の初めの〈翌朝〉をヨシュアたちが1泊した次の朝ととると、13節でもう1泊することになり、都合2泊野営したことになる。しかし3‐9節を別の形で表現し直したのが10‐13節であると読むことが出来る(ヨルダン渡河という1つの事実も異なった角度から何度か繰り返し語られていた)。そのように解すると,全軍の中で3万人が勇士として選ばれ、そのうちの5千人に伏兵となるべく4節でヨシュアが命じていることになる。本隊はヨシュアを含めて約2万5千人で、彼らがおとりとして敵を誘い出すという戦法である(5‐7)。このように過去の失敗が今回は戦略的前提として積極的に用いられる.また10節の〈翌朝〉は、ヨシュアが主なる神より励ましを受けた明くる朝と読める.そして野営したのは1泊だけであって、〈その夜,谷の中で夜を過ごした〉(13)がそれに当る。伏兵を置くに当っては(11‐13)、夜は本隊(前陣)のほうがかがり火をたくなどの陽動作戦によってアイの人々の目を本隊に引き付けておいたのではないか。その間に伏兵(後陣)は静かに身を隠したと想像される.〈ベテル〉(9,12,17)。アイに近い町。ベテルの民はこの戦闘でアイに協力したのであろう。 町の後ろアイの西方、ベテルとアイの間に(おそらくアブラハムが祭壇を築いた所とアイの間であっただろう。参照ヨシ8:4)、3万人の勇士を夜のうちに伏兵としておいた(ヨシ8:3‐4,9)。翌朝ヨシュアは戦う民と共に町の前に近づき、アイの北側に谷を隔てて陣を敷き、町の西側、ベテルとアイの間に5千人の伏兵を追加したようである(ヨシ8:10‐12)。さらに一夜を過した後、翌朝早く北の全陣営を退却させてアイの人々(とベテルの人々 ヨシ8:17)をおびき出し、後陣の伏兵を使って町を落し、「ヨシュアはアイを焼いて、永久に荒れ果てた丘とした」。(『新聖書辞典』)