265 聖霊が臨む時

聖書箇所 [使徒の働き2章1ー13節]

 キリスト教の三大祭と言えば、クリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)、そしてペンテコステ(聖霊降臨祭)です。この中のペンテコステ(聖霊降臨祭)にちなんだお話をしましょう。読んで字のごとし、聖霊が来られたのです。神さまなのだから遍在しておられるはずで、わざわざどうしてとお思いかも知れません。この時までは、「限られた人に、限られた時に、限られた場所に臨まれた」というのが正しい言い方です。ゆえにここに新しい時代が始まったのです。聖霊さまの存在はとても大きく、私たちの人生の、あるいは毎日の生活に多くのそして決定的な影響を与えます。私たちは弱さを持っており、それゆえに落ち込んだりします。私たちの霊は力を失います。神の霊である聖霊さまがあなたを再び元気にしてくれます。今回、三つのキーワードを用いて聖霊さまのあなたへの恵みをお話ししましょう。



 マタイの福音書3章16節をお読み下さい。使徒の働き2章2ー4節にも鳩のイメージが浮かぶのではないでしょうか。鳩は平和の象徴です。私たちはいつも平和を求めています。まず心の中に、家庭の中に、職場の中に、社会や国の中に。平和の中で私たちは落ち着きを感じて内に希望を育みます。その希望は信仰を生みます。争いは決して私たちの望むことではありません。でも実際は右を向いても左を向いても争いばかり。離婚、殺人事件、テロなどなど。なぜ?なぜ私たち人間は争ってばかりいる?ここに聖霊は関与してくださるので、私たちには希望があります。どのように関与してくださるのか、それをお話する前に、なぜ争いが起きるのかを考えましょう。その理由は互いの違いを認めないからです。性別、民族、文化、言語、賜物など多くの違いが私たちの住んでいる世界にはあるはずです。これらの違いは種々に感受性の違いをも生むはずです。でもそれを互いに受け入れることができません。その違いを受け入れることができません。たとえば私の住んでいる大宮市(2001年5月にさいたま市に変更)では毎年夏祭りが駅前で繰り広げられます。呼び物の一つはブラジルから呼んだサンバチームの踊りです。お臍を出して踊るあれです。きっと多くの人は(私はまだ見に行ったことがありませんが)、もうテレビなどで見ていて決して驚きはしないでしょう、多分。でも自分の娘が同じように踊っていたら、「エッ!」と驚くのではないでしょうか。誤解しないでください。決してブラジルの文化を批判しているのではありません。遠くの人の違いを見てもあまり批判の気持ちは起きなくても身近な人が違ったことをしているとついさばきの思いが湧く、これが私たちなのではないでしょうか。遠くの人と平和を得ることができても、身近な人との平和は難しいのです。でも平和は身近な人との平和であってこそ意味があるのではないでしょうか。さて、聖霊はあなたに働いて、人は互いに異なっていますよ、と納得させてくださるのです。これは聖霊があなたの中に向けて働かれたときに起きることです。ここで閑話休題。実は違いは神によって造られた個性、性格です。これらは英語でcharacterと言いますが、ギリシア語カラクテールが語源です。ヘブル人への手紙1章3節をご覧下さい。
 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な「現われ」であり、この中の「現われ」は「表現」とも訳せます。個々の性格(構成し、作りあげるものは先に述べたように性別、民族、文化、言語、賜物など種々あります)は「神が刻んだもの」(ちなみに同じグループに属する語のカラグマはハンコ・スタンプのことです)であり、「表現」です。したがってもし私たちがある人の性格を否定すると、彼の存在を否定するに等しいのです。これは決してしてはいけないこと。どの人も同じハンコを使うなど考えられません。聖霊はあなたに人はそれぞれ異なるのだと納得させるのです。ここに平和が生まれます。



 使徒の働き2章2節にあります。風は直感を意味します。聖霊の直感は霊的直感、神的直感です。これを経験すると目は輝き、心臓はどきどき、気持ちは踊るでしょう。「そうか、そういうことだったのか!分かったあーッ」と心にうなづくでしょう。これは何を意味しているのでしょう。新しい人の誕生です。ヨハネの福音書3章3ー8節の記事をお読み下さい。ニコデモの経験がそれを教えています。

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 ギリシア語でもヘブル語でも風と霊は同一の語です。私たちの人生における初の聖霊との接触はイエス・キリストを信じる瞬間です。

 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(Tコリント12:3)

 しかし人間は罪を持っているゆえに弱く、聖霊を内に宿しつつもうつになったりします。常に新しくされる必要があります。聖霊があなたに働くとそのつど刷新されます。私は21年前に大宮駅前で教会開拓のための路傍伝道をしました。多くの人が行き交いつつ私はどんなに話し掛けても無視されました。ノーを言われ続けました。人間にとって自分がもっとも大切にするもの(私にとっては福音であり、主イエスさま)を無視されるのはとても辛いことです。でも耐えることができました。聖霊の力であったと感謝しています。
 創世記2章7節もすばらしいことばです。

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

 神の息が、すなわち風が吹き付けられて人は生きるものとなったとあります。あなたも聖霊の風、直感によって新しくされます、常に。求めるときにはいつでも。なんとすばらしいことでしょうか。



 使徒の働き2章1ー4節を参照しましょう。舌と訳される語はグロッサ。これは炎と訳せます。いずれにしても火のイメージ。火は聖さを意味しています。聖さ、これはクリスチャンの誇りです。あなたは人に親切にした時に、その後で請求書を発行しますか。きっとあなたはしないと信じます。これが聖さの一つの表現です。お返しを求めない。クリスチャンは偽善者だとする批判があります。これは誤解。クリスチャンは自らのうちにある罪に気がついていて、それを克服しようと努めています。決して罪がないなどとは言ってはいません。罪はあります。でも一生懸命に減らそうと努めています。ここにクリスチャンの誇りがあります。ではペンテコステを迎えた、当時の弟子たちの現状は?裏切ったばっかり。十字架のイエスさまを前にことごとく裏切って行きました。なんと情けない!でも私たちは彼らを責めることはできません。私は真の友情とは、真の友人とは?と考えます。あなたはどう考えますか。「人が苦しんでいるときに、その人のもとから去らない人」ではないでしょうか。もしこれが真の友人であるとすればイエスさまは悲しいお方ですね。あなたはいかがですか。友人だと思っていた人があなたから去って行った経験をお持ちですか。どんな思いでしたか。でもイエスさまには救いがありました。マタイの福音書3章16節以降のおつき合いです。すなわち聖霊がいつもイエスさまとともにいました。あなたも聖霊とお付き合いをしてください。あなたにはいつも慰めと勇気が保証されます。これは現実の話であり、約束です。口ばっかりというのは私たちには何の利益もありません。現実にあなたの中に聖さは実現します。その聖さのリストを紹介しましょう。

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)

 あなたの中から放逐されるものは

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。(同5:19-21)

 なんとすばらしいことではありませんか。最後にどのようにしたら聖霊をあなたの中にお迎えする事ができるかをお話しましょう。それはイエスさまのお心をあなたの心にしてください。心を置き換えてください。イエスさまだったら、この場合、どうなさるだろうか、どう発言なさるだろうか、と考える習慣を身に付けてください。一種の練習ですが、上手になるに従って聖霊の恵みにあなたはやみつきになるでしょう。あなたの人生に聖霊の祝福をお祈りします。