266  クリスマスーあなたにやすらぎと愛を

 ●聖書箇所 [ルカの福音書2章11節]

 クリスマスおめでとうございます。

 クリスマスって、主イエスさまのお誕生日です。中にはサンタクロースの誕生日と思っている人もいるようですが。ところでクリスマスって本来どのような意味でしょうか。これは英語でクリスト+マスです。英語は外来語で構成されている典型的な言語です。クリストはもちろんキリストであり、救い主。マスはmassでラテン語のmissaが語源です。ミサっていう、あれです。親戚のことばにmissioがあります。派遣という意味の名詞です。これにnを付けて英語のmission。missionする人をmissionary、すなわち宣教師と言います。mittoは動詞です。つまりクリスマスはキリストが派遣されたという意味です。もちろん贈り物として送られたのですから、クリスマスとはキリスト(救い主)祭りと言えます。余談ですが、私たち日本にはラテン語が溢れていると言ったら言い過ぎでしょうか。車名のことです。Corolla、Corona、Cresta、Supra、Celsior、Gemini、Integra、Familia、Capella、Maxima、Ipsum。いかがでしょう、たくさんありますねえ。

 さて、主イエスさまのお誕生日であることは分かりましたが、ただそれだけでは有り難みはありませんね。今回は主イエスさまが持って来てくださったものに注目しましょう。

やすらぎ 

 私たちはやすらぎをいつも求めていますし、したがってそれを経験すると、とてもうれしくなりますね。心は穏やかですし、希望も沸き上がって来るし、顔にはほほえみも生まれます。でも歳末の頃、多くの人がやすらぎを得ることができません。いらいらし、それが周囲にまき散らされます。いらいらと喧噪の年末です。

 私は17歳の頃から東京で一人暮らしをして来ました。年末年始、特に新年の三日間が寂しかったことを思い出します。今のようにコンビニもありませんでした。町は死んだ様です。歩いている人もまばら。どこにもやすらぎを感じることはありませんでした。
 エルビスプレスリーをあなたはご存じでしょう。ロックンロールの王様と言われた人です。一労働者から身を起こして、金と地位とを手に入れました。でも空しかったのです。遊園地を借り切って一晩中馬鹿騒ぎをしました。自分の家を銃撃することまでついにはやってしまいました。でも空しさは消えず、過食症に陥りました。見にくく太ってしまい、ますます自暴自棄になって行きました。1977年マンションのお風呂で心臓マヒで亡くなりました。その一年前、友人の牧師にこう訊ねていました。「ほんとうにイエスさまはもう一度この世界の来られるのでしょうか」と。彼はイエスさまだけがこのむなしさを埋めることができると理解しはじめていたのです。あなたもイエスさまを心に受け入れてみませんか。真のやすらぎをくださるお方がおられます。

 2000年には三宅島で噴火があって、小学生たちは昭島の秋川高校で寄宿生活を始めました。多くの人の善意のもとで温かく過ごせたはずでしたが、体調の不良を訴える子が相次ぎました。親から離れていることから来るストレスでした。愛が私たちには必要です。マザーテレサのことばを聞きましょう。

○この世で一番美しいことは神さまが私たちを愛してくださるように私たちも互いに愛することです。私たちがこの世にいるのもこの目的のためです。マザーテレサのことばを聞きましょう。 『ほほえみ』女子パウロ会

○多くの人は病んでいます。自分がまったく愛されていない 関心をもってもらえない いなくてもいい人間なのだと……人間にとっていちばんひどい病気はだれからも必要とされていないと感じることです。『マザーテレサ 愛のことば』女子パウロ会

続けて、どのようにしたら愛を交換できるのかを聞きましょう。カギはほほえみです。

○人間のほほえみ 人間のふれあいを忘れた人がいます。これはとてもとても大きな貧困です。

私たちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。ましてや愛を与えたり、受けたりするひまはないという状態です。

○一切れのパンにではなく多くの人は小さなほほえみに飢えているのです。『ほほえみ』女子パウロ会

○愛はまず家庭から始まるのです。愛は家庭に住まうものです。子どもたちは家庭の中に愛やほほえみを見つけることができません。子どもたちはさびしすぎるのです。さびしさをまぎらすために外へさがし求めに行くのです。

○私たちのすることは大海のたった一滴の水に過ぎないかもしれません。でもその一滴の水があつまって大海となるのです。貧困を作るのは神ではなく、私たち人間です。私たちが分かち合わないからです。『マザーテレサ 愛のことば』女子パウロ会

イエスさまからいただいたやすらぎがあなたの顔にほほえみを生まれさせます。

 さて、最後にどのようにしたら真にイエスさまを心に迎え入れ、かつやすらぎと愛とを手に入れることができるのでしょうか。それは自分に対して正直になること。正直に自分を見ること。何が見えますか。自分の心や人生にある傷、が見えるはずです。その傷の穴から何が見えますか。イエスさまが見えるのです。

 彼は……悲しみの人で病を知っていた。……まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:3-6)

わたしは傷をもっている でも その傷のところから あなたのやさしさがしみていくる。学校の先生をしていた頃、首から下が動けなくなる傷を負った星野富広さんの詩です。傷があったからこそ分かる世界があると歌っています。

ノートルダム清心学園の理事長である渡辺和子さんがあるとき授業でこう話しました。「人生には思いがけず、穴がポッカリとあくことがある、それは病気かも知れず、災難かも知れず、裏切りかもしれない。……そんなとき穴があくまで見えなかったものを、穴から見ようとするのも一つの生き方ではないか」。しばらくして一人の女子学生が話しました。「私の人生に穴が空きました」。彼女には子ども好きの婚約者がいたのですが、あるとき彼女は体調不良を感じて診察を受けたところ、手術をしなければならない、そして子どもを産めない身体になるかも知れないと言われたのです。深く落ち込んだ彼女は悩んだ末、正直に彼に話しました。彼はこう答えました。「ぼくは赤ちゃんが産める君と結婚するんじゃあーないんだよ。君と結婚するんだよ」。彼女は言いました。「私はこの穴がなければ決して知らないで過ごしたかも知れない、彼の優しさをこの穴から見ました」。

あなたにも穴があるのでは?そしてその穴からは何が見えますか。イエスさまが見えるのではありませんか。いかがでしょう。見えていますか。