267 良いサマリヤ人

聖書箇所〔ルカの福音書10章25−37節〕

 私たちのイエスさまは心遣いの達人、名人と呼ぶにふさわしいお方です。今回はこの有名な話からご一緒に学びましょう。この話の中ではいくつかの重要なテーマが取り上げられています。たとえば、犯罪、人種差別、憎しみ、無視や無関心など。これらがたとえ罪の世界において普遍的なものであったとしても、愛とあわれみが重要だというのがイエスさまのご見解です。愛とあわれみという心遣いを出演者たちを観察することから学んで参りましょう。

強盗たち〔30〕

 強盗たちにとって、襲われた旅人はどのような存在であったのでしょうか。答=彼らは旅人を人としては考えてはいません。では、何?答=食い物、利用対象。自分たちがちょうど手に入れたいと思っていたものを持っている者が通りかかった。「それを寄こせ!」と言ってももらえるわけでもない、「ならば力ずくで奪ってしまえ」という考えをしている人たちです。あるセールスマンがこう述懐しました。「私はお客様を見るとき、『神さまの祝福がありますように』、とか『友人になろう』などとは考えないで『この人は私にいくら儲けさせてくれるのだろうか?』とお客様の顔が一万円札に見えてくる」

 あなたはこの話を聞いてどう思いますか?「けしからん!」でしょうか?私はすばらしい人であると思いました。なぜか?彼はこのような思いを生じている自分に悩んでいます。悩んでいる、それは良心が正常に働いているなによりの証拠です。「みーんな、悩んで、大きくなったあー」というコマーシャルがありましたね。悩むことはすばらしいことです。そこから新しい世界が生まれます。私たち、罪ある人々の世界はどのような世界なのでしょうか。互いに利用しあって、利用価値がなくなれば捨てる、という考え方が当然の世界でしょうか。人と出会うたびに持っているものを奪われるのですね。物や金銭を愛する生き方をしていれば当然そのような人間になります。人をただ自分の利用対象としてしか見なくなります。イエスさまはどのようなお方でしょうか。なんとイエスさまに出会う人はたくさんの利益を受けます。使用前、使用後という言い方がありますね。イエスさまをこのようなことばで案内するのは失礼ですが、あえて言わせていただければ、イエスさまを使用した後はあなたは大変儲かります。恵まれます。あなたはヨナ物語をご存知でしょう。ちっとも従順ではない彼に神さまはずうーっと付き合い続けます。堕落したアッシリア帝国の首都ニネべ(の人々)を助けようと彼にそのための働きを期待するのですが、逃げまくります。でも神さまはたった一人のヨナという人物のために手間隙をかけます。手間隙をかける、これこそが愛です。人のために時間とエネルギーを費やす、これが愛です。神さまには一人の人が重要です。その他大勢ではなく、たった一人の人の存在が重要です。働きに焦点が当てられているのではなくて、人間の存在そのものに神の愛は向けられています。あなたは愛されています。あなたのした(する)ことに注目する以前に「あなたが存在する」ことに神さまの熱い関心は向けられています。

祭司とレビ人〔31−32〕

 祭司にとって旅人の存在はどのような意味があったのでしょうか。答=やっかいもの!ゆえに反対側を通り過ぎて行きました。祭司とは神殿にて働く人です。神のために働く人です。私たちは通常言い訳を多用します。正しいと認識していることを行動しなかった場合、悪いことであると認識しつつ行動してしまった場合、それぞれ自分をあるいは他者を納得させようと言い訳をします。正当化しようとします。祭司の場合はどのような言い訳が推測できるでしょうか。
 1)私は今日神殿で神のために十分に働いてきた。
 2)今はもう疲れている。
 3)レビ人がこの後やってくるだろう、彼らに助けさせれば良い。

 きっとこのくらいの言い訳はしそうですね。でも街道です。レビ人がきっと祭司が見て見ぬ振りをして通り過ぎるのを見たでしょう。するとレビ人はきっとこう考えたのではないでしょうか。「祭司がしないのに、なんで俺が!?」

 もし私たちが自分の好きなようにのみ生きるという生き方を採用したとすれば多くの人が私たちをやっかいものと見るでしょう。しかしキリストの愛を分かち合おうかなあと考え、ちょっとの我慢、ちょっとだけペースやスケジュールの変更に応じるとすれば、人々は私たちを多くの期待の目で見てくれるでしょう。それはとりもなおさず、神の目でもあります。実際のところ、私たちは他者から期待されない人生を生きることはできません。期待されるからやりがいもあろうというものです。期待されるから張り切るのです。あなたがイエスさまを信じた、それは神の期待が背景にあります。同時にあなたの周囲の人々からのあなたへの期待でもあります。

律法学者〔25−29〕

 律法学者にとって旅人の存在はどのような意味があったのでしょうか。答=議論の対象。そもそもこの話の発端は25節でお分かりのように律法の専門家、すなわち律法学者による質問でした。イエスさまは彼らの心の中を見抜いておられます。議論はそれ自身に価値があることは確かですが、気をつけないと行動をしないことの理由になります。「十分に議論を尽くしていない」(と主張している)うちに人が死んでしまう場合もあります。互いに気をつけたいものです。37節を見ると、イエスさまは行動することの重要性に注目させようとしておられます。事実、怪我をし、困っている状況の中にいる旅人にとっては議論よりも具体的な援助が緊急です。聖霊さまの助けにより、今その場で必要としている人に必要なことの行いができる者になりたいものですね。

宿屋の主人〔34−35〕

 彼は悪い人ではなさそうです。彼の登場にも学ぶ点はあります。彼はなぜ強盗に襲われた旅人を受け入れたのでしょうか。家賃も治療費も払ってくれる人(良いサマリヤ人)が連れて来たから?ここで私たちは何か行動を起こす時の動機について考えたいですね。いったいなぜこれをする?お金がもらえるから、人の関心を買うことができるからなどなど。イエスさまの教えたいことは「人の目を意識した故のことではなく、目に見えない神の前で振舞う」ことです。これを「天国銀行に貯金をする」と言いますが、これがこの世にあって美しく生きるこつです。律法学者と常にセットで登場するのがパリサイ人です。彼らは外面的には非常に立派な信仰生活をしました。十一献金(小さなもらいものまで秤で計りながらしました)、断食、施しなどなど。でもイエスさまは「白く塗った墓」と批判なさいました。心は逆であったからです。神さまを喜ばせよう、イエスさまを喜ばせようという世界があることを知ってください。こうして心の美しい世界を私たちは生きることができます。心の美しい世界にこそ真の思いやりや愛があります。

サマリヤ人〔33−35〕

 「ところが‥‥‥」〔33〕と、この後に続くことばに律法学者は驚いたでしょう。ユダヤ人の大嫌いな、差別の対象であったサマリヤ人が旅人を助けたというのですから。このサマリヤ人は人種的偏見を越えてユダヤ人を助けました。彼のしたことを整理してみましょう。

1)あわれみ〔33〕
 強い意味のことばが使われています。ちょっとした気持ちではなく、心の底から。

2)接触〔34〕
 当時は狂言強盗も多発していましたので、大きなリスクを背負った行為です。しかし愛とはリスクを覚悟しなければ本物にはならないことも事実です。

3)介抱〔34〕
 傷口に薬を塗りました。口ばっかりの律法学者とは対照的です。

4)費用負担〔35〕
 単に金銭的なものだけではなく、自分のスケジュールを変更したのです。

サマリヤ人のしたことは、イエス・キリストのしたことです。私たちは常に謙虚でありたいものです。