269 はい、参ります

聖書箇所〔創世記24章〕

結婚式って、あなたは好きですか?私は大好きですねえー!そこには美しい世界があります。そのような中にいられるって最高ではありませんか。さてこのような美しい世界は美しいことばによって演出されます。「愛しています」「ついて行きます」など。それはお互いの間に信頼関係があればこそ。もはや信頼関係がなくなってしまえば、私たちの住む世界は地獄!実は、信頼とは信仰です。だって、ついて行った結果ひどいことになったら大変ではありませんか。でも実験はできません、自然科学と違って。相手の人格を信じるしかありません。だから信じる、つまり信仰。今回はとても美しいことばを話した、一人の女性を中心に話は展開します。彼女が発した美しいことばは「はい、参ります」。

簡単にこの話を紹介しましょう。信仰の父であるアブラハムは晩年を迎えていました。信仰のおかげで大変祝福された人生でしたが、たった一つの心残りは一人息子のイサクがまだ結婚していなかったことです。それで信頼している最長老のしもべにお嫁さん探しを頼みます。しもべは主の助けをいただきながら、気立ての良いりべカを見つけます。その後連れ帰った彼女とイサクは良い夫婦になりました。この話から愛とは何かを学びましょう。

最高のものを与えること(アブラハムとしもべとから)

愛とは最高のものを相手に与えることです。しもべは貴重なものをらくだ十頭に乗せますが、すべてはプレゼントするためです(10、22、53)。これらは主人アブラハムの所有物です。ではしもべは何も与えるものを持たなかったのでしょうか。もちろんあります。それはいのち。当時の旅行は非常に危険なものでした。今で言えばイラク国内を旅行するようなものです。夜盗、強盗、おいはぎ、何でもありの世界です。ましてらくだ十頭を連ねて、なんて財産を持っていますって宣伝しているようなものです。危険だらけです。愛とは何か?それは犠牲を払うこと、と私たちは学んでいますが、それは自分の大切なものを提供することを意味します。でもこれは生まれながらの人間の性質と相反するものでもあります。

名誉への欲

ある町にジョン・ブースという青年がいました。彼は幼い頃から賢しい兄と比べられて育ち、両親に叱られるといつも「俺が馬鹿だからだ」と思いました。彼の兄はあらゆることに秀でた模範生で、後にとても立派な政治家になりました。しつもそんな兄に対してたくさんのコンプレックスを感じながら暮らしていましたが、いつも彼の心の片隅には「俺も有名になりたいが、とうすれば有名になれるだろう」という思いがありました。そんな中で、ついに彼に良い考えが浮かびました。「俺がとても有名な人を殺せば、俺も有名になるじゃないか。」こうして、彼が殺そうと決めたのがリンカーン大統領でした。その青年は躊躇なくリンカーン大統領に向けて引き金を引きました。一つの時代が生み出した立派な偉人を殺したその青年の罪の動機、それが、名誉に対する欲でした。(『クレイ』2004.6)

自分の利益獲得のために他者から利用可能なものを奪う。これが人間の中にある罪深い性質です。最近も看護助手が人工呼吸器を外したために患者が死ぬという事件がありました。動機は「仕事でストレスがたまっていたから」というものでした。私たち人間はほんものの愛を神さまから教えていただかなければなりません。愛とは与えることです。しもべはイエス・キリストを、そしてアブラハムは父なる神を表しています。たった一人しかいない大切な大切な子(最年長のかけがえのないしもべ)を、派遣しました。しもべはいのちを賭けていました。イエス・キリストは十字架の上でいのちを落としました。すべては愛から来るものです。あなたにもこの愛に気がつくときがあるはずです。いやもうすでにあったはずです。
 金沢泰裕牧師は今やミッション・バラバのメンバーとしてとても有名ですが、もともとクリスチャンホームに生まれ、お父さんに連れられて教会に行っていました。ところが、中学生になり悪友たちと遊び始め、やがてヤクザの世界へ。入れ墨をし、バクチや覚醒剤…という毎日でした。ついにある抗争事件で死の恐怖を味わい、大阪から逃げて東京にやって来ました。そこでも定職には就かず、バクチと覚醒剤に明け暮れていました。ある日彼のもとに「父危篤」の知らせが入りました。急いで大阪へと戻りましたが、お父さんはいつ息を引き取るか分からない状態です。「僕みたいな悪党の命と引き換えに、善良な父の命を助けてください…」。彼はこのとき初めて心から神様に祈ったと言います。十数年にも及ぶ父親の祈りはこの時に実を結びました。父親は息子のために祈り続けていました。長い長い忍耐の祈りでした。彼は子ども時代に通った教会に行き、悔い改めてイェス・キリストを信じました。「僕にとって最大の親孝行は神様に仕えること以外ない!」そう思った金沢師は、やがて神学校に入り、伝道者への道を歩み始めました。

応答すること(しもべとリベカとから)

 しもべはアブラハムからの信頼に応答して、この危険な旅行に出ました。アブラハムは何十年にもわたって全財産をこのしもべに任せていました。任せる、それは勇気のいることです。任せた者に裏切られることは罪の世界ではごくごく普通にあることです。イスカリオテのユダはその典型です。しもべは信頼に応えました。恩を知る人です。聖書、特に旧約聖書は恩の大切さを教え、かつ恩知らずへの警告で満ちています。恩知らずの者とはイスラエル人です。エジプト脱出を援助してもらったのに、まったくの恩知らず!感謝がなく、ぶつぶつばっかり(出エジプト16:8)。愛とは応答する、すなわち行動することです。それにしても緊張感のある行動、すなわち旅行です。愛すること、それはときどきこのような緊張感を伴うものです。リベカの場合も観察してみましょう。家族会議を開きました。お兄さんのラバンが「この人(アブラハムのしもべ)と一緒に行くか?」と彼女に尋ねますと、即座に「はい、参ります」。なんとすばらしい応答ではありませんか?!
 両者の応答の仕方から、私たちはふたつのことを学ぶことができるでしょう。すなわち応答しやすい環境はここにあるという意味で。
 一つは良いモデルの存在。しもべの主人を信頼する姿。それは主人の人格や信仰のすばらしさを容易に推測させるものです。リベカはこれを見ました。いわば視聴覚教育です。もし自分を大切にしようと思うならばあなたには良いモデルを見る習慣を持つことをお勧めします。もちろんだれしも完璧な人はいません。でもどの人にも長所が与えられていてそれを見るべきです。いわゆるあら捜しをする人というのがいますが、性格が悪くなります。その理由が視聴覚教育です。自分で自分に悪いモデルを見せています。だから悪い結果しか生まれません。

 ビクトル・ユーゴーの名作レ・ミゼラブルは感動的な物語の一つですね。一つのパンを盗んだことで捕えられ、19年の獄中生活を送ったジャン・バルジャン。刑を終えたものの社会復帰に難儀します。盗人として名が知れ渡った彼を暖かく迎え入れる人はいません。そんな中、ミリエルという聖職者の家で、ひさしぶりに暖かくもてなされ、ご馳走をいただき、やわらかなベットで寝かせてもらいます。ところがベッドの上に横になり、いざ眠ろうとしたときにきれいな銀の燭台が二つ、目に飛び込んできました。悩みはしますが、自制心を失い、そのうちの一つを盗んでしまいます。しばらくして彼は、警察に捕えられて連れて来られますが、ミリエル先生は驚いたことを口にします。「それは自分があげたものだ、ほら、私が二つあげたんじゃない。どうして一つだけ持っていったの?」と言いながら残りのもう一つを差し出します。このときジャンのかたくなな心は砕かれ、変わります。常識と理性を越えた先生の態度の中にキリストの愛を見つけます。同時にジャンはこのとき「ミリエル先生のようになる」と決心をしたのです。そして彼は成功を納めていきます。のちに彼は市長にまでもなったのです。

神さまはあなたを愛してあなたの周囲にさまざまに長所を持った人を配置してくださっています。自分を大切にするためにも良いところ探しを習慣づけしましょう。
 二つ目は聖なる直感。50節を見てください。主から来た考えであるかどうかは自分で分かります。分かるはずです。平安がありますから。聖霊の働きは平安を伴います。誰かに説得してもらうような性質のものではありません。自分の心が納得します。「そうだ、これだ!」と。不思議なもので聖なる直感にはそれを実行するためのエネルギーが付属しています。24年前私は埼玉県大宮市中心部にあるJR駅前にいました。路傍伝道です。生まれて初めて来た大宮の駅前に一人立ちました。これが現在の勝利教会です。現在までに9つのチャペルを有し、そのうち7つは土地と教会堂を購入あるいは建築しました(2004年現在)。神さまのあわれみによるものですが、すべてはこの聖なる直感です。寒い冬、鼻水を垂らしながら、福音を道行く人々に語りました。恥ずかしやの私には想像も出来ないことができました。上からのエネルギーの補給があったからです。私にとっては救っていただいたことへの恩返し以外の何ものでもありません。愛とは応答です。

期待すること(リベカとしもべとから)

リベカが到着したとき、イサクはいつものように野原に散歩に出ていました。そしてついにリベカを見ました。感動的な出会いの瞬間です。いったいイサクはこの瞬間を何年待ったのでしょうか。愛とは期待することです。それは「きっと良いことが起きる」という思い。あなたはいかがですか?「今日、良いことが起きる」と考えていますか?「今週、良いことが起きる」と考えていますか?「今月、良いことが起きる」と考えていますか?

もう一つ質問があります。あなたは祈るときに注文書を書くように祈りますか?すなわち「これをください!」というふうに。勘違いしないで下さい。これは悪いことではありません。私もそうします。だってイエスさまがそうしなさいとおっしゃたのですから(ヨハネ14:14)。しかしお祈りの仕方もこれが唯一のものではありません。もしあなたが親であったとして子どもから100回「これをちょうだい!」と言われ続けたらあなたはどのような気分ですか?ここが大切なところです。私はもう一つの祈り方をいつも学んでいます。それは期待すること。「私を愛してくださっているから、神さまにお任せします。きっと良いことを私のためにしてくださる!」。こう思うようにするのです。こうして私は想像を超えていままでたくさん祝福されて来ました。あなたもいかがですか?

しもべもリベカも期待して行動しています。ゆえに祝福されています。愛とは期待することです。なぜなら相手(善意と愛の神さま)を信頼しているのですから。意地悪な、そして愛のない神をあなたの心の中でリストラしてください。あなたの神さまは愛と善意がいっぱいのお方です。