270 だれが幸いな人か?

聖書箇所 [マタイの福音書5章1ー12節]

 今年(1994年)の夏に見たテレビの話です。アフリカのルワンダからの難民であふれかえったゴマのキャンプで働くボランティア・グループの報道で、フランスから来ているカトリックの尼僧たちへのインタビューでした。テレビ局「フランス2」の記者は、飢え、渇き、疫病などで地獄のようになっているキャンプの実情を見て、彼女たちに「(これでも)神は実在するのだろうか」とたずねました。すると彼女たちはこう答えたのです。「ええ、もちろん、この人たちは天使ですよ」この人たちとは、彼女らが世話している病気の子供や大人たちのことです。つまり、神に仕える彼女らにしてみれば、彼らは神がつかわした天使であり、彼女らの献身的奉仕は、神に仕えることに等しいという考え方です。私は、‥‥‥このように話せる彼女たちこそ天使に見えてきたです。(『キリスト教の常識』講談社新書)

 このようなことを見聞きしますと、いったい真の幸い、幸せとは何だろうかと考えさせられますね。つい幸せとはお金が沢山あって、大きな家に住んでなどと連想してしまいがちです。イエスさまは言われます。「あなたがたがこのような人であったら、最高の幸せ者です」と。しかし冒頭から「貧しい者や悲しい者が幸いである」と読んでしまうと、「エッ、本当!?」とつい首をかしげたくなるかも知れません。だれだってお金はほしいし、いつもうれしく楽しい思いで過したい。でもイエスさまは真実をお話ししていらっしゃいます。通常「山上の垂訓」「八福の教え」と呼ばれる一つ一つを説明をいたしましょう。

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 [3節]

 通常日本語で「あの人は心が貧しい」と言えば否定的な意味ではないでしょうか。ではこれはどのような意味なのでしょうか?それは他の人と比較しないで、神の前で生きる態度を指します。
 ルカの福音書18章9―14節をお読みください。パリサイ人と取税人が登場します。前者は「私はこの隣にいるような悪い人間ではないことを感謝します」と祈っています。いったい何という祈りでしょう。自分が幸せを感じるためにより不幸と思える人を横に置くことをする場合があります。倫理的に問題がありますね。自分の欲望を充足するために他者を道具として利用するやり方です。最近も自分の孫を殺そうとした祖母がいました。嫁を困らせてやろうとしたと供述していると言います。患者の人工呼吸器を抜いた看護助手がいました。仕事でストレスを抱えていたと供述したと言います。この種の事件は探すのに手間はかかりません。自分の中にコントロールできないものがあり、そのうさを晴らすために無関係の人を攻撃するというのです。冷静にこのような話を聞いていると「そういうことをする人が世の中にはいるんだ、ふーん」というふうに反応しやすいのかも知れませんが、実は日常茶飯事。簡単な例が空腹のときにはだれでもいらいらします。ただ、近くにいる人に当たる人とそうしない人の二種類の人がいます。無関係の人を攻撃するということが日常茶飯事なのが罪の世界の現実です。人との比較の中で生きているとついストレスが溜まりやすくなります。神の前で生きるようにしましょう。それは、自分には所有しているものは何もない、という意識です。所有していると思うから、劣等感や優越感の虜になり、辛い思いをしなければならなくなります。あの人は自分のものより優れた物を持っているなと思った時には劣等感、劣っているなと思った時には優越感。この両者の間を揺れ動くのは疲れます。神があなたに預けた物に感謝しつつ生活をしましょう。これこそ天国の住民にふさわしい。天国の住民こそ最高に幸いです。

 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。[4節]

 「悲しむ者」は幸いであると言われるのですが、あなたは悲しんでいますか?今?昨日?先週?いずれにしても悲しんでいる人は幸せだと言われるのですが、何か違和感があるのではないでしょうか。
 マタイの福音書9章10−13節をお読みください。イエスさまは罪人たちと食事をよくしておられます。当時のいわゆる上流階級や知識階級の中の多くの人々は決して、しないことでした。自分たちが穢れるというのがその理由でした。でもイエスさまは積極的に彼ら、売春婦、不良、離婚した人たちに近づきます。なぜ?イエスさまは人の気持ちに非常に強い関心を向けておられます。どんな気持ち?それは寂しさであり悲しさです。社会から無視されていることはなんと寂しいことでしょうか。暴走族は決して無人島で暴走をすることはありません。周囲の人々に迷惑をかけて、自分たちの存在をアピールしたいのです。「俺たちはここにいるよ!気づいてくれよ!」と彼らは叫んでいます。爆音はその叫びです。イエスさまは寂しい人の友人です。慰めてくださいます。イエスさまに慰めていただけるなんてなんと幸い!ところでその慰め方ですが、人を使ってです。もしあなたが寂しい人や悲しい人に一言かけてあげるなら、その人は慰められます。イエスさまがあなたの心に働きかけ、あなたはそれに反応したのです。また慰めたあなたはいつか寂しい時にだれかに慰められます。こうして慰める者と慰められる者とは共存共栄しています。これが神のやり方です。決して悲しい者がほおーっておかれることはありません。だから幸いなのです。

 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。[5節]

  「柔和」とはどんな内容でしょうか。いつもにこにこ、柔らかく、場合によってはくにゃくにゃ。しかしギリシア語におけるイメージは異なります。やさしさと強さがペアになったものです。「モーセは柔和な人であった」(民数記12:3)と言われています。やさしさだけでは大きな集団を導くことは出来ません。先日私は車を運転していて追突されました。明らかに先方が悪く、彼もそれを認識していることが見てとれました。そこで私はかわいそうにと思い「このことはなかったことにしましょう」とやさしく言ってあげたのです。すると急に態度を変えました。「お前が悪い!弁償しろ!」。さすがに助手席に乗っていた人が彼のそでを引っ張って「やめろよ」と助言していました。私ははっきりと言いました。「出費するのがかわいそうだと思ってあのように言ったのです。誤解しないで下さい。あなたがこの件では全面的に悪いのです」と。甘い顔をしていると図に乗る、といったことはままありますね。やさしさだけでは罪の世界で正しく生きて行くことはできません。やさしさと強さの両方をバランスよく持っているときに周囲の人々の尊敬を集めます。地を相続するとはこのような意味です。

 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。[6節]

 義とは神の義です。これに飢え渇くとは、罪について無関心ではないという意味です。罪について真剣に考える人は結局十字架のもとにやって来ます。なぜなら罪を解決する方法が他には見つからないから。罪は赦されることによってしか解決できません。そして罪を赦す権威を持つ方は世界にただ一人、神であり、イエスさまです。悔い改めることによって私たちはいつでもどこでも罪を赦していただくことができます。あなたが悔い改めるそのとき、神の義はあなたの中にあります。満ち足りるとはこのことです。心は満足します。安心します。このような人は当然幸いな人です。

 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。[7節]

 あわれみ深い人とはさばかない人です。さばくのには理由があります。おおむね二つです。一つは自分は立派な人間であると錯覚している。あくまでもこれは誤解であり、錯覚です。どの人間も神の前に同レベル。特別に聖い人であるとか、完璧であるとかという人はいません。例外はイエスさま。もう一つはストレスを抱えた人。自分でコントロールできないで、近くにいる人にぶつけてしまう人。さばかないでいられるとするなら、なんとすばらしいことでしょうか。かえって哀れみを受けます。さばかないことの意味は何でしょうか?相手にチャンスをあげること。成長もしくは回復のチャンスを提供すること。別の表現では、時間的猶予を提供すること。もし自分が現在のレベルに到達するのに10年の月日が必要だったとするなら、相手の人にも10年を上げなければフェアではありません。でもつい性急に相手に要求しやすいのが私たちの常。それは分かります。でもさばかないとはこのような意味です。さばかない者はさばかれない!与える者は受ける、与えられる。これは神の世界のルール。聖霊さまに力をいただきましょう。
 
 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。[8節]

 動機の問題です。聖い思いですべてのことを私たちはすべきです。そうすれば神さまが見えます。イエスさまを心の中心にお招きしましょう。あなたの中のイエスさまがいつもあなたの中を聖め続けるでしょう。心の中にやましさがない人は何をするにも最高の力を出し切ります。その力は神の力。神はいつも聖い人とともにいます。そのような人は幸いです。

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。[9節]

 平和を作る者が幸い、これは自明のことでしょう。「あの人が来るといつも争いになる」なんて言われるのは悲しいことです。平和を作る主人公が神の子です。さて平和はどのようにして生じるのでしょうか。「平和!平和!」と叫べば実現するでしょうか?もしそうであるなら玄関にその旨書いて、武力を持つ警察官のパトロールも辞退するのがいいでしょう。強盗も来ないはず。でもそんなことはありえません。平和の実現には相当の犠牲が払われなければなりません。さて、平和は本来どこにあることが必要でしょうか?それは心の中。自分がコントロールできるはずの心という世界を平和にすることが先決です。心が平和な人が一人二人と集まって平和な社会は生まれます。それには「ありがとう!」という習慣を身に着けることがいいでしょう。どんな小さなことにも「ありがとう!」と言うのです。こうする人はほんとうに幸せを経験します。反対にぶつぶつばかり言っている人は不幸です。「5個与えられて、5個しかない」と言い、「10個与えられても10個しかない」と言います。「5個も与えられた、ありがたい!」と言いましょう。感謝を意識してささげるようにしましょう。必ず幸せな気持ちになります。

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。[10節]

 以上のような倫理観を身に着けて行くと必ず世間から、つまり世俗の世界からは反撥を食らいます。これを表現した句です。でもこれは祝福です。なぜならあなたにとって誇りとなることがクローズアップされるから。だれでも生きるには誇りが必要です。あなたは自分の家庭に誇りを持っていますか?自分の勤める職場に誇りを持っていますか?自分の信じているものに誇りを持っていますか?誇りを持って生きる人はなんと幸いでしょう。こだわりを持てることはなんと幸せなことでしょう。

炎のランナー

(1981年、イギリス。監督/ヒュー・ハドソン、出演/ベン・クロス、イアン・チャールスン、イアン・ホルム。アカデミー賞四部門受賞)

1924年のパリ・オリンピックで優勝した英国人ランナーの実話をもとにしたこの映画が、‥‥‥とくにエリックの信仰に忠実な姿は深い感銘を与えます。エリックの信仰は、ランナーとしての厳しい練習と重なり合います。彼は夕食でのスピーチで、信仰をレースにたとえてこういいます。「皆さんは競走を見にきた、僕が勝つのをね。だが、見物だけではだめだ、参加してほしい。走ることも信仰も同じだ、つらいし精神の集中力と魂のエネルギーが必要だ。勝者がゴールしたときの喜びは大きい。だがそれもつかの間、家にはおいしい食事もない、失業中かもしれない。そんな、現実を前に、『信じよ』といってもから念仏、僕にできるのは道を示すことだけだ。競走に勝つ法則などない、各自が自分のやり方で走る。では、その力の源は何か、内なる力だ。イエスはいわれた、『神の国はあなたがたの中にある』『真に私を求めるのなら私を見いだすだろう』、イエスの愛に身をゆだねなさい。それが我々の生きる道だ」と。また、「神はご自身の目的を達成するために僕をつくられた。速ささえも与えた。勝利は神をたたえることだ」ともいいます。これは、ただランナーとしての勝利をめざす他の人たちとは一線を画すものです。エリックの信仰をよく、示しているのが、日曜日へのこだわりです。‥‥‥さて、映画はさらにドラマチックに進み、レースが日曜日と重なってしまったのです。三年間の練習を棒にふってでも、「安息日には走らない」といエリック、この優勝候補をなんとか出場させようと懸命に説得する周囲の関係者。‥‥‥(『キリスト教の常識』講談社新書)