271 人生の品質保証

聖書箇所[へブル人への手紙2章16−18節]

 先週月曜日のことです。「もしかすると、この人、天使かしら!?」と思えるような人に会いました。事の次第は次のとおりです。国道16号線を走行中、私の愛車が突然エンストを起こしてしまいました。たちまちにして渋滞が発生。でもちっとも動く気配がありません。車から降りてボンネットを開けました。するとヘルメットをかぶった人が覗き込み「どうしました?」「突然エンジンが止まりました」。彼は実は最近自動車修理工場を始めたばかりの人でちょうど仕事でバイクを走らせていたら私の車に気がついたというのです。道路わきのファミリーレストランに押して入れてくれ、すぐにこの社長の命令で若い社員が二人やってきて牽引、そして修理をしてくれ、外側も内側もぴかぴかに磨いて返してくれました。ハレルヤ!春日部チャペルの月曜礼拝の帰りのことでした。ちゃんと忠実に礼拝をしていると良いことがあるもんだと思いました。神は私を見ていると思いました。神はあなたをも見ています。あなたの誠実、真実を理解してくださっています。たとえ人々があなたを理解しなくても、あるいは誤解をしても、神はしっかりと評価してくださっています。今回のメッセージのタイトルは人生の品質保証。神はあなたを愛しているのであなたの人生の質を保証してくださいます。保証書はもちろん製造元である神から発行されています。それはイエスを信じたあなたの心の中に聖霊が証人となってあかししてくださっています。今回はこのテーマでへブル人への手紙から学びますが、全体ではなく2章のみを使います。ちなみにへブル人への手紙は分かりにくいので定評があります。でもそんなことはありません。簡単に紹介しましょう。旧約聖書と新約聖書の接着剤です。今回はこの程度の説明にとどめておきましょう。2章の言わんとすることはこういうことです。「あなたの人生にはいろいろと困難があるでしょう。苦しいことがあるでしょう。それらはいわば故障したということです。しかし心配要りません。保証書があるのでその故障は修理してもらえます」。これは「アブラハムの子孫」(16)に与えられた特権です。では続けて何に対する保証なのか、何が保証対象なのかを具体的に見て行きましょう。

材料=人間性

 6−8節は詩篇8篇からの引用です。内容は人間賛歌です。人間はなんとすばらしいものか、と言っています。これは、しかし、当たり前。なぜならすばらしい愛の神の作品であるから。

 ヘレンケラーをあなたはご存知ですね。盲聾唖の三重苦を背負った彼女を立派な人物に育てたのはサリバン。初めてサリバンがヘレンを見たとき、「獣のよう」と表現しています。お皿をはじめありとあらゆるものを投げ、家の中は散らかり放題。当然です。人間には心があり、それを表現する機会や能力が制限された場合にはそのような反応をするものです。ある町に1000円でお皿を壁に投げつけて割るメニューを用意したお店があります。ドリンク付です。小さな部屋の突き当りの奥の壁に向かって思いっきり投げつけるのです。だれもすっきりとした顔で出て来ます。いかにサリバンは忍耐をしたか、想像を絶するものがあります。忍耐、それは愛。マザーテレサはこう言います。「傲慢でぶっきらぼうで利己的になるのはいともたやすいことです。でも私たちはもっとすばらしいことのために造られているのです」。もっとすばらしいこととはヨーロッパですでに成功者であったにもかかわらずアフリカの人々に仕えたシュバイツアーのことばによるなら、それは愛することです。そうです。これが本来の人間性の姿です。でも私たちは身近に残酷な、これが人間のすることかと思わされるような事件を見聞きします。職場内のストレスのゆえに患者の人工呼吸器を外して死に至らしめた看護助手がいました。嫁が言うことを聞かないからと孫を傷つけた姑がいました。これは人間性が故障しているのです。私たちは人間性を修理して、愛し合い、赦しあい、助け合い、祈りあって生きていかなければなりません。そのために用意されたのが教会です。教会とはいわば自動車練習場です。踏み切りでエンストしても事故にはなりません。電車は走ってはいないからです。教会の中で私たちは愛する練習、赦す練習をします。鍵となるのはみことばという基礎の上に教会は存在するということ。みことばを信じているとすばらしい恵みがあります。それは聖霊の働き。信じる者の中で働き、大きな力となります。努力を超越した世界が大きく広がります。みことばを信じて聖霊の助けによってたくさん愛する練習をしましょう。

性能=働き

 洗濯機には洗濯機の任務があります。テレビにはテレビの求められる性能があります。ではあなたの人間としての働きは何でしょうか。イエスはこの点でも先駆者です。10節には「創始者」と訳されている語はギリシア語ではアーケーゴス。「先駆者」と訳せます。レースでは先頭を行く者です。風圧を抵抗を受けます。それを跳ね返してこそ先駆者の名にふさわしい。その点二番手は楽です。同じ10節にある「多くの子たち」とは「アブラハムの子孫」(16)、そして風圧を受けるイエスは人生の苦しみを理解できます(17−18)。あなたにも期待されている働き、つまり使命があります。あなたは男性ですか、それとも女性?父親ですか、それとも母親?職業人、それとも家庭人?それぞれ謙虚になるときに私たちはそれを自覚できるようにされます。一人の少年がいました。何のとりえもないと考えていましたが、ただ一つ宙返りが得意でした。あるとき公園でそれをしていると一人二人と子どもたちが近づいてきて感心するのです。「お兄ちゃん、上手!」「ねえ、ぼくにも教えて」。こうして子どもたちの数は多くなり、教会学校が始まったというのです。小さいことに忠実であれば、すなわち今自分にできることをすれば、その後の展開はイエスが導いてくださいます。イエスに従う、後について行く、このようなことです。そしてこれが大事。イエスに先頭に行っていただく、それは最大の風圧、すなわち罪の罰を代わりに受けていただくことを意味します。ゆえにるんるん気分で前進できます。ハレルヤ!どうか勝手に自分は小さいなんて思わないで、イエスに従ってください。

オーケストラの指揮者、マイケル・コースターが、ある日リハーサルをしている時。メンバーの一人ピッコロ奏者が、演奏中よそ見をしました。隣ではトランペツトが大きくしかも晴れやかな高い音を出し、後ろではドラム奏者がのり良く打っています。前ではヴァイオリンが上品かつ繊細な音を出しています。彼はついこう考えてしまいました。「自分はこんな小さな楽器でしかも貧弱な音しか出せない。いてもいなくても同じじゃないか」。そこで、彼は「私は吹いても吹かなくてもたいした違いはないだろう。かえって吹かないほうがいいかも知れない」と思い、ピヅコロを吹かずに吹いているふりをしました。するとたちどころに、コースターはオーケストラの演奏を中止して「ピッコロはどこですか、ピッコロは何をしていますか」と聞きました。

「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」(Tコリント12:22)

期間=永遠

 電気店で買い物をしても5年間の保証でしょう。神の保証期間は永遠です。「一生涯」(15)という語がありますが、一生涯において私たちは何に悩み、恐れるのでしょうか。それは死。結局私たちが究極に恐れるものは死。それを悪魔は知っています。それで「死んだらどうする!?」と脅しをかけて来ます。(14−15)すると私たちの心もからだも凍り付いてしまいます。死とは日常の生活における実際的な意味は「損」です。損をすることの最悪レベルが死です。私たちは損をすることに非情に敏感です。悪魔はしたがってこれを口癖にしています。「あなた、そんなことをして、損をしているんじゃあーないの!?」、「教会のことばっかりして、損をしているんじゃあーないの!?」。こういう誘惑に勝つのは難しいのかも知れません。あるいは理不尽な取り扱われ方をしたら私たちは非常に悩むはずです。「私は正しいことをしているのに、善意でしたのに‥‥‥どうしてこのような取り扱われ方をされなくてはいけないの?」。地上の人生が全人生であると理解していれば耐えられないでしょう。実は私たちの人生は地上の人生だけではなくて、死後にも人生があり、それの方が本番と言うことができます。このように表現することは正しいのです、すなわち死後の人生を最高に恵まれたものにするために地上においては報いを求めない。もし求めて、得てしまったら、天国においては報いはもはやない。

 宣教師、探検家、地理学者、医者として成功していたリビングストンはアフリカの人々を愛し、長くそこで暮らし奉仕をしました。晩年短期間イギリスに戻ったとき、講演でこの点に触れて言いました。「私が生涯の大部分をアフリカで過ごしたことを、犠牲を払ったかのように言う人がいますが、‥‥‥」世間は損、すなわち犠牲になったと考えやすいのですが、神の世界においてはすべての良いことは収穫のための種まきでしかありません。人生を近視眼的に考えるべきではありません。野球で言うならば第3イニングにおいて負けていて、「私は負けた」と言うべきではありません。まだ試合は終わっていないではありませんか。勝手に結論を出さないでください。私たちには天国があります。天国でどのくらい豊かに暮らせるか、そのことまで考えて毎日の人生を生きるべきです。もう一度言います。サタンは「あなたは損をしているのでは‥‥‥」とあなたの心に誘惑をして来るでしょう。最後のあがきしかありません。彼にはもう敗北が決定しています。サタン、悪魔を恐れる必要はありません。

 創世記3章15節をお読みください。「彼(キリスト)はおまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえ(サタン)は、彼(キリスト)のかかとにかみつく」。これは美しい平行文節です。原文では次のような順序です。「彼は、おまえを、砕く、頭を。おまえは、彼を(に)、かみつく、かかとに(を)」。修辞としては美しくてもその内容は天地の差ほどあります。傷を負う場所が「頭」と「かかと」では雲泥の差があります。「頭」では致命傷となり、「かかと」ではそうではありません。キリストは十字架で傷を受けられましたが、甦えられました。そしてサタンは決定的な敗北をしました。試練はたとえどんなに厳しいものではあっても、あなたを滅ぼすことはありません。ちなみに「かみつく」を辞書で調べましたら、「かすり傷を負わせる」とありました。また「踏み砕き」は未完了形であり、反復継続を表しています。つまり試練はたとえどんなに厳しいものではあっても、かすり傷であってあなたを滅ぼすことはなく、あなたが試練に悩むつど、キリストはサタンを「踏み砕き」あなたを助けてくださいます。