272 本当の豊かさ

聖書箇所[ピリピ2章1−11節]

 日本は世界一の長寿国です。2003年度こそ男性世界一を譲りましたが、長寿国であることには変わりはありません。その長寿は祝福なのですが、同年度の自殺者数が(1978年の統計を取り始めた年から)最悪の34427人を記録したというのです。特に壮年男性が目立ちます。彼らの年代はちょうど人生の実りを得ようとする時期であるはずです。とするとなんと悲しい、なんと空しいことでしょうか。人生のどこに豊かさはあるのかと問わざるを得ません。今回は本当の豊かさについて学びましょう。
 それはイエス・キリストの中にあります。以下のテキストをご覧ください。

 もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら(1)

励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみと、このようなものがある人って本当の豊かさを持った人と言えるでしょうね。なぜキリストにあって以上のようなものがあるのでしょうか?
 その答えは次の聖句にあります。

 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(10−11)

ひとことで言って、イエス・キリストはこれらのもののオーナーです。今回は本当の豊かさを持った彼からその豊かさについて学びましょう。本当の豊かさとは何か?

知恵を使うことができる

 知恵はどのような難しい問題でも解決することができます。私たちは人間関係であったり、そのほかいろいろな困難に直面しますね。知恵が解決してくれますよ。聖書と落語とから一つずつ知恵の威力を観察しましょう。

●知恵者として名高いソロモン王の裁き

 二人の遊女が王の前に立ちました。
 遊女A「わたしはこの女と一緒に住んでいます。わたしが子供を産むと、その三日後にこの女も子供を産みました。この家にはわたしたちしかおらず、ほかには二人の子供を見分けられる人がいません。ところが、ある夜のこと、この女の子供が死にました。彼女は、なんとわたしが寝ている間に、自分の死んだ子供とわたしの子供をすりかえてしまつたのです。朝起きると、死んだ子供がわたしの隣に横たわっていました」
 遊女B「いいえ、生きているほうがわたしの子で、死んだほうがあなたの子です」
 遊女A「この女はうそを言っています。生きているほうがわたしの子、死んだほうがあなたの子です」
 王は言いました。「刀を持て!両名とも生きているほうが自分の子だと主張し合うなら、生きているその子を二つに切って双方に分け与える。よいか!」
 「やめてください!その子を彼女に与えてもかまわないから殺さないでください!」
と叫んで、一方の女は泣き伏しました。王はこういいました。
 「その子を殺すな、泣き叫んでいる女に子供を与えなさい。彼女が真実の母親だ」

 これは、被告人の偽証を、知恵とロジックで裁いた有名な話です」。

●大岡越前守の『三方一両損』

日本では、名奉行・大岡越前守の裁きの話があります。これは、江戸時代の町人同志のけんかで、とてもユニークであり、落語でも知られています、年の暮れ、三両の入った財布を拾った左官の金太郎が、落とし主である大工の吉五郎に届けたことから騒動が持ち上がります。(注:当時は大工と左官は仲が悪く、前者が上位につけていました)

 「おれは江戸っ子でい!いったん落とした物を受け取れるかい。てめえにくれてやらあ」
 「てやんでい、一日の仕事を全部休んで、足を捧にして探した落とし主だ。受け取ってもらわにゃ、帰れねエ」
 二人はいい合いましたが、どうにも収拾がつかず、大岡越前守に裁いてもらうことになりました。
 「しからば両人とも金はいらんと申すか」
と越前が両者に念を押し、
 「それでは越前が預かっておく」
と、三両を預かり、
 「さて両人、奉行がここに一両を加えて四両とし、こわを二両ずつに分け、人にほうびとして与える」
 この裁きを越前が名調子で解説します。
 「このたびの裁きを"三方一両損"と申す」
 二人は顔を見合わせました。
 「わからなければいって聞かせる。吉五郎、金太郎が届けた時に受け取りおかば三両ある。金太郎もその時にもらっておかば三両ある、越前もそのまま預かりおかば三両ある。しかるに、この三両に越前が一両足し、双方に二両ずつのほうびをつかわす。されば、三方が一両ずつ損をすることとなり申す。双方相わかったか」
 「へーっ」と二人はひれ伏しました。
 「これにて一件落着」(『ユダヤ人の知恵』マネジメント社)

 知恵とロジックで解決したのですが、両方のことばは一つの語の訳です。それはギリシア語のロゴス。知恵ともことばとも訳せるロゴスの働きを聖書から確認しましょう。

初めに、ことば(ロゴス)があった。ことば(ロゴス)は神とともにあった。ことば(ロゴス)は神であった。この方(ロゴス)は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方(ロゴス)によって造られた。造られたもので、この方(ロゴス)によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1−3)


初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。(注:ことば)」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:1−3)

 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたし(知恵)を得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(箴言8章22−30)

あなたがイエスさまを心の中に受け入れるとき、あなたの中に神の知恵が生まれました。どうかあなたの中でイエスさまを解放してください。いろいろな場面で必要な知恵を与えてくださるでしょう。

仕えることができる

数年前のことですが、ニューヨークタイムズ誌が、「彼は誰かに属していたかった」というタイトルで、興味深いヒユーマンストーリーを掲載したことがあります。それは、町のバスに乗っていた少年についての話でした。少年はグレーの服を着た婦人にひっついて坐わっていました。従つてバスの乗客はだれもが、その少年は婦人の連れ、婦人といっしょだと考えたのもムリはありません。その少年が、汚れたクツで、片方の横にすわっていた他の婦人をこすったことから、変な具合になりくました。その婦人はグレーの服の婦人にいってたのです。「すみませんが、あなたのお子さんをもう少し座席からずらしていただけません?私の服がよごれるものですから」グレーの服の婦人は顔を赤らめました。そして少年を少し押しやっていったのです。「この子は私の子じゃありませんわ。みたこともない子です」。少年はもじもじしていました。小さい少年だったので、足がとどかず、ブラブラさせていたのです。目を下に向け、すすりなくのをやっとこらえていました。「すみません。服をよごしまして。でもそうするつもりじゃあなかったんです。少年はその婦人をじっと見ました。「いいのよ。いいのよ」婦人は少年にやさしくいいました。少年がなお、婦人の顔をじっと見つめていたものですから、その婦人は少年にきいたのです。「ボク、一人でどこかへ行くの?」「ええ、ボクはいつも一人で行くんです。ボクを連れてってくれる人はいません。ボクにはパバもママもないんです。死んでしまいました。ボク、クララおばさんといっしょに住んでいますが、クララおばさんは、マイルドレツドおばさんも、ボクの世話をすべきだっていうんです。ですからクララおばさんがぼクの世話にあきたり、どこかへ行きたいとき、ぼクをマイルドレッドおばさんのところへ行かせるんです」「そうなの。で、いま、マイルドレッドおばさんのところへ行く途中なの?」その婦人が少年にききました。「そうです。でも時にはマイルドレッドおばさんは家にいないときもあるんです。きょうはいてほしいなあ。雨が降りそうだし、ボク、雨の降っている外で待ちたくないの」少年はいいました。その婦人はノドに何かつかえるものを感じました。「でもボクは、あっちや、こっちへ行かされるには小ささすぎるじゃないの。「そんなこといいんです。道に迷ったりしませんから。でも、ぼク時々ほんとうにさびしくなるんです。で、ボクがいっしょにいたいと思う人を見ると、その人のそばにきっちり寄ってすわるんです。そしてすり寄って、ボクがほんとうにその人の連れなんだとよそおうんです。ぼクがいま、あなたの服をよごしたとき、そうしていたとこなんです。ボクの足が床に届かないのを忘れていたのです。その婦人は、少年を腕いっぱいにかかえこみ、すり寄せました。少年は誰かの連れでいたかったのです。

少年の気持ちを理解した婦人の仕える心に感動を覚えますね。教会では礼拝をします。何度も何度も。なぜ?礼拝は英語ではサービス。それは奉仕という意味。礼拝では奉仕の心を養うのです。互いに気持ちよく過ごせるように、その心構えを学びます。そうして仕える人は成長をして行きます。仕える人はゆえに豊かさを持ちます。ここで一つのことを確認しましょう。キリスト教は禁欲主義ではありません。清貧でなければとか、そのようなことをおもに主張してはいません。むしろ前向きで目標達成志向と言ってもいいでしょう。次の箇所をお読みください。

そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、
ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。(マタイ20:20−24)

 これでは他の弟子仲間からは苦情が出るのは当然です。

 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。(マタイ20:25−27)

 注目したいのは、偉くなりたい、人の先に立ちたいという欲求が否定されていないことです。むしろそうするためにはどのようにしたら良いのかを教授してくださっています。もしあなたの心の中に偉くなりたい、人の先に立ちたいという欲求があるなら、それはすばらしいことです。アブラハム・マズローは欲求五段階説を提唱しました。1が満たされて2が欲求される、2が満たされて3が欲求される、と説かれます。批判もありますが、おおむねあたっているのではないでしょうか。イラクやアフガニスタンで飢え渇いている(1 生理的欲求が満たされていない)人に「最新式のパソコンを持って来ました」と言っても喜ばれないでしょう。

     1 生理的欲求
     2 安全欲求
     3 社会的欲求
     4 自我の欲求
     5 自己実現

 一番上にあるのは自己実現。本来の自分らしさを得たいという欲求です。だれにも変身欲求がありますが、現状の自分に満足していずに、「これは俺の本当の姿ではない、本当の姿にたどり着きたい」という気持ちの現れでしょう。偉くなりたい、人の先に立ちたいという欲求は良いものです。このような欲求がないとすれば成長も成熟もありえません。イエスさまが教えてくださったのはそのためにはどのようにしたら良いか、その方法です。それが仕えること。どうか覚えてください。仕えることができる、そのような人こそ本当の豊かさを持った人です。ところで仕える、言うは易く、行いは難き。ここでお話したいことは仕える葛藤が心の中にあることです。「仕えなければいけない、それは分かっている、でもあーあ、難しいなあー」という戦い。仕える戦いをしていることが重要です。戦いですから、勝つこともあれば負けることもある。勝てば感謝、負ければ実に多くのことを学ぶことができます。イエスさまも十字架の苦しみを前に「できればこの杯が私の前を通り過ぎるように」と祈られました。人間の精神による高尚な戦いです。人間だけが戦う戦いです。ここに誇りがあります。もしあなたが仕える戦いをしているならすでに仕えています。そして仕えようとする思いのある人は本当の豊かさを持った人です。

 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

 イエスさまの場合はついにご自分のいのちを差し出し、仕えることをまっとうなさいました。だから最高に豊かな方です。

 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。(ルカ9:23−25)


与えることができる

与える者は受けるという法則が働いたあかしを紹介しましょう。

 愛を与えた一人のビジネスマンの話です。

 ライバルを「愛する」ことで自分が伸びる!

 ある日礼拝のあとで、猛烈に押しの強い、大柄なビジネスマンがやってきて、私の説教した神の力を体得したいといった。何やらとてもよいもののように思える、どうしたら体得できるだろうかと彼はたずねた。この種の質問に対し、いつも答えていることだけを私がいうと、そのとおりにやってみるといって、彼は帰って行った。ところが、数週間後にまたやってきて、さっぱり効果があがらないといった。祈り、聖書を読み、生活の中のよくない部分をきれいにしたのに、相変わらず力が授からないのは、どういうわけかという。今度は私は、彼と深く話し合った。すると彼の心が、仕事上の競争相手に対する憎しみでいっぱいになっていることが、だんだんにわかってきた、押しが強いだけに、敵愾心も大きかった。心の医師として私は、彼が望むものを手に入れるためにせねばならないことが何であるかわかったが、同時に、それをいえば、相手はがんとして受けつけないだろうと思った。案の定、彼はいうことを聞かなかった。私たちの間には、だいたい次のようなやりとり行なわれた。
「解決策はあります。もしあなたがそれを望むなら、何としてでもやりとげねばなりません」と私はいった。
「もちろん、そのつもりです。で、解決策っていうのは何ですか?」
「あなたの競争相手を好きになることです」
「何ですと?」
「その人たちを好きになれなくてはダメです」
「気でも狂ったんですか?どんな連中だか、ごらんになったことがあるんですか?」
「いいえ全然。でも、あなたの敵を愛さなければならないと、聖書はいつていますよ」
「そんなむちゃな!できるわけがない!」
「あなたは、精神の強さを身につけたかったのではないんですか?」
「あなたの競争相手を好きになることです」
「何ですと?」
「その人たちを好きになれなぐてはダメです」
「気でも狂ったんですか。“どんな連中だか、ごらんになったことがあるんですか?」
「いいえ、全然。でも、あなたの敵を愛さなければならないと、聖書はいっていますよ」
「そんなむちゃな!できるわけがない!」
「あなたは、精神の強さを身に着けたかったのではないんですか?」
「そうとも!」
「私を心の医師と認めたはずですが」
「ああ、認めたよ!」
「そうですか、では、競争相手を好きになれば、あなたの望むものは手に入ると診断します」
「嫌いな奴らを、どうやって好きになれるっていうんだ?」
「お教えしましょう。簡単にはできないでしょうがね。毎日3回、どうぞ競争相手に力をお貸しになり、私よりたくさんの収益をあげさせてください、と祈りなさい」
「断わる、そんなこと」彼はさけんだ。
「はあ、でも精神的に強くありたいと思うなら、やらなくてはなりません。」
 彼のようなタイプの人間は、約束をさせればそれを守り、最後にはしぶしぶながらも聖書の言葉に同意するようになると私は確信していた。一日ほどたって、彼はまたやってきてきて、その間のことを一部始終話した。「あれから家へ帰って、XXや△△のために祈ろうとしたけれど、どうしてもできませんでした。次の朝起きた時もダメ、その日の昼もやっぱりダメでね。ところがその晩、どうしてもやらないわけにはいかないとわかったんです。そうでないと、牧師さんとの約束を破ることになりますからな。そこで、私はひざまずいて『XXや△△に祝福をお与えください。そして今年は私よりもたくさん収益をあげさせてください』ここまで祈ってから、天を見上げてこういいました。『私のことなどお考えになってはいけません、今のは本気じゃなかったんです!』」私はあやうく、大声で笑い出すところだった。こういう人間こそ救われるに違いないいないと思った。「でも」と彼は、言葉を続けた。「そのあとでやっといえたんです。『確かに私は本気じゃありませんでした。デモ本心でそう祈れる人間にしてくださいまし』そのあとの一週間は、こんな具合に悪戦苦闘の連続でしたが、とうとう夕べ、すばらしいことがあったんですよ。祈っていたら、突然大きな手がおりてきて、今までずっと心にのしかかっていた重苦しいものを取り払ってくれたような気がしたんです。そうしたら、いっぺんに幸福になってしまいましてね!きょうは、それをいいたくてうかがったわけなんです」(『人間向上の知恵』三笠書房)

 ユダヤのことわざにこうあります。

 「幸福を追いかけて行くと、逃げて行く」

 与えることは受ける、すなわち豊かになる近道です。私たちは誤解をしています。受けることが近道であると。考えてみてください。一人の人がいた。彼はもらうことしか考えない人。このような人のそばにだれが近づくでしょう。近づけば取られるのですよ。反対に与える人のそばには多くの人が群がります。それが本当の豊かさを作り上げていきます。イエスさまはおっしゃいました。「受けるよりは与える方が幸いです」これも神の法則です。ではどのようにしたら私たちは与える者になれるのでしょうか。もちろん完璧な与える者になろうとする必要はありません。与えようとする気持ちが大切です。イエスさまはついにご自分のいのちを与えました。でも私たち普通の人間には不可能なのです。大切なことは、ここでも戦いをすること。戦いをすることにこそ価値があります。できるだけイエスさまの近くにいるようにしましょう。人格は伝染します。優れた人格のそばにいることは大きな益を受けます。いつもイエスさまならどのようにお考えだろうか?どのようにこの場合はこうどうなさるだろうか?シミュレーションしてみるのです。こうしてあなたの中に与える人格が育って生きます。与える人は本当の豊かさを持った人です。