273 成功信仰の条件

聖書箇所 [民数記13、14章]

 成功、あるいは成功信仰ということばにどのような印象をお持ちになるでしょうか。ある人たちは金持ちになるための信仰かと思い、また大会社の社長になるためのものかとお考えになるかも知れません。ここではこういう意味では使っていません。もしあなたが会社にお勤めであって、上司から「この書類をどこそこへ届けてほしい」と言われて届けることが出来た、あるいはお母さんがお手洗いのしつけが子どもに対して出来た、とすればそれは成功です。すると、「なあーんだ!そんなこと」と思われるかも知れません。そんなことです。イエスさまのおことばを思い出してください。

 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)

 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』(19:17)

 日々の小さな成功が、あるいは成功体験の蓄積が、やがての大きな魅力的な成功を招きます。その例を今回はヨシュア(とカレブ)を例に学びましょう。13章1節以下を見ると話の舞台を理解することができます。神さまから約束された土地に、さあ入って行こうというときに、偉大な指導者であるモーセは各部族一名ずつ計12名を調査員として派遣しました。先の2人は肯定的、10人は否定的でした。そして前者は成功しました。

自分を肯定する

 これが成功するためのスタートラインです。自分に向かって「イエス(はい)!」というべきです。あなたはあなた自身へのサポーターとならなければなりません。自分を肯定できない人、否定する人は成功することが非常に困難です。それはいくつかの勢力が内戦している国のようです。ある女性の話をしましょう。彼女は非常に快活で、周囲の人々を明るくさせる賜物を持つ人です。でも落ち込みがひどいのです。生い立ちに問題がありました。彼女は生まれてまもなくお父さんを亡くし、乱暴な継父に引き取られました。3、4才の頃、彼女は父親のもとに甘えて行きました。ところが「おまえはうるさい。どぶにでも落ちてしまえ!」と彼は彼女に言い放ったのです。彼女はこうして生きることに罪責感を持つようになって行きました。「私は生きていてはいけない人間なんだ、私はだれからも愛されていない」と思って成長して行きました。このような女性の場合にありがちなことは自分を愛してくれていない人と結婚することです。そんなことがあるだろうかとお思いになるかも知れませんが、こういう心理が確かにあるのです。冷静に第三者的に見ればありえないことが起きます。彼女はそういう結婚しました。これは彼女自身が無意識のうちに与えた自分への罰でした。もし好きな人と結婚したら幸せになります。それでは罰にならないのです。

 ところで最近(2004年7月)皇太子妃の雅子さんが適応障害であると発表されました。気の毒ですね。たくさんのタレントを持った彼女が小さな鳥かごの中に押し込められていたためです。彼女には生きるためのエネルギーがわずかしかありません。なぜ?神さまはすべての人に平等に100の生きるためのエネルギーをくださっています。ところが彼女は現在10しか持っていないのです。これでは他の人を励ましたり、社会に貢献しようと思っても不可能です。なぜこんなことになってしまったのでしょうか?90はどこへ消えたのでしょうか?それは自分との戦いにおいて消耗してしまったのです。人間には二種類あります。自分と戦う人、そして他人と戦う人。前者は自分を責めるタイプで、後者は他人を裁くタイプです。雅子さんは前者のタイプです。彼女が持っているものを「いなごコンプレックス」と言います。13章33節に起源があります。周囲から否定的に見られていることを確信してしまっていますが、それ以前に同じような目で自分を見ています。セルフイメージが悪い、低いと言います。

自分の人生を自分で決めることができるとするなら、解決策としては罪の悔い改めをすればいいのです。罪は足かせです。前に進もうと一歩踏み出してもたちまちにして前に倒れます。罪は借金であり、巨大な負債です。イエスさまの十字架で赦されます。赦された人の心は極めて空を軽く舞い、自分を肯定することが容易になります。

 しかしもう一つの行程を必要とする人々がいます。実は私自身がそうです。先に紹介した女性の例がそうです。父親のイメージが悪いとどうしても自分に対して肯定的になれません。(幼児期は人間の成育に非常に重要な時期です(*1)そこで提案は親替えです。肉(地上の)の父親から霊(天の)父親へと替えるのです。私はこれですっかり解放されました。霊(天の)父親は私たちへのサポーターであり、愛とやさしさとに満ちています。それまでは肉(地上の)の父親との戦いに生きるエネルギーを消耗していました。ゆえに前向きになれませんでした。解放されてからはたくさんの夢が生まれて来て、年々それらが実現しています。すばらしいことです。どうかすなおな気持ちで悔い改め、さらには親替えを考えてみてください。

イエスさまがこのようにおっしゃったことが思い出されます。「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(ルカ18:15-17)

(*1)ある会合で、幼稚園の先生や保母さんたちと話をする機会があった。ほとんどが年配の人たちで、子供の発育を長い目で見ている人が多く、参考になった。話題は「今、小学校や中学校で、新聞報道されるようないろいろな問題が起こっている。問題の原点は、何歳にさかのぼるだろうか」ということだった。……小児科医を良くやっていると、……私自身よく考える。……ベテラン保母さん方に言わせれば、その起こりは二歳前後ということであった。……このような時期にこそ、人間としての、基本的な心がつくられていくという。……親と子の無条件な結びつきこそ、将来の健やかな成長に向けての基礎となる。……それは高いビルを建てるときの地下工事……のようなものである。……(聖徳大学教授巷野悟郎)(日本経済新聞1999年12月14日号)

 もし私たちが自らを育て直そうとするなら二歳児の持つ素直さを持って神さまを見上げるべし、を意味するでしょう。あなたは自分を肯定できるに違いありません。

失敗をトレーニングと考える

 あなたは失敗を恐れていらっしゃいますか。きっと恐れておいででしょう。だれでもそうです。失敗が好きなんていう人はいないでしょう。エジソンは9999回失敗して、10000回目に成功したそうです。私たち人間は生きている限り失敗をします。失敗をするものなのです。これは現実です、事実です。嫌いだからといって現実を見ないのは愚かなことです。インフルエンザが嫌いと言って研究をしない事と同じです。地震が、戦争が嫌いだからと言って何の予防も対策も考えないのも愚かです。失敗は私たちの人生の質を向上させるために必要なトレーニングです。トレーニングとはいわば失敗の連続です。失敗を重ねて上手になります。成功へと向かいます。ヨシュアとカレブ、特にヨシュアはモーセのもとで充実したインターン時代を送りました。多くの失敗をし、それから学び、ついに主からすばらしいおことば、「あなたの人生は成功する」という意味のおことばをいただきました。ヨシュア記1章1ー9節をお読み下さい。あなたはイエス・キリストがあなたの罪を十字架の上であ がなってくださったことをご存じです。罪とは人間における最大の失敗です。最大のものが赦されるのであれば、他にいったい何が赦されないものとして存在するのでしょうか。鍵となることは自分が自分を許せるかどうかです。赦された自分を受け入れる(許す)ことができるかです。ある未亡人は14年間毎日亡き夫の墓参りをしていました。話は14年前にさかのぼります。朝、「今日、どこそこへ車で送って頂戴!」と頼み、その道で事故を起こし亡くなりました。彼女は「私のわがままのせいで夫は死んだ」とずうーっと責め続けていたのです。実際よりも10歳はふけて見える彼女でした。もしあなたが失敗したことがあったとしてもそれを受け入れてその失敗からできるだけ多くの事を学び、トレーニングであると理解して前向きに生活をしてください。野球選手で4割打者と言えば、極めて優秀であると言えます。でも10回のうち6回は失敗をしています。でも高い評価がされています。どうか失敗を前向きに理解してください。

自分の基準を持つ

 私は牧師になることを決めたときに、もう一つのことを同時に決心しました。それは「会員が愛し合いつつ、教会生活を楽しんでくれる教会」で地味にこつこつ働くことでした。世界を見ますとスターのような、ハンサムな、すばらしい牧師たちがい、また大きなスタジアムで大集会を開いています。でも私にはいっさい無関係。私の基準は先に書いたとおりです。ゆえに私は成功した牧師です。あなたへ質問しましょう。あなたにとって成功とは何ですか?もし億万長者になることでしたら、億万長者になれなければあなたは成功者ではありません。あなたにとって成功とは何ですか?どうか自分の基準を持ってください。そのためには自分の賜物を棚卸しすること。そして感謝してそれらを受け入れることが大切です。自分の人生を不幸にする人はいつもいつも自分に与えられたものに不平不満です。いつもいつもぶつぶつです。「私に与えられたもの はなぜこんなにも少ないの、小さいの」って。自分の分を知らなければなりません (ピリピ3:16)。そして感謝をしなければなりません。ゆえにこはじめのイエス・キリストのおことばが聞こえてくるのです。

 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)

 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』(19:17)
 
 神よ、変えられるものを変える勇気を、変えられぬものを受け入れる謙虚さを、それを見分ける知恵を授けたまえ」(18世紀の神学者フリードリヒ・エッチンガー)

 感謝してください。あなたに与えられているものを数えてください。ないものをでなく、あるものを数えてください。そしてそれらを磨いてください。与えられているタレントをどのように組み合わせるか、これがあなたの腕の見せ所です。あなたの個性です。個性はあなたの人生に喜びと誇りとを与えます。


時には冒険もする

 信仰の醍醐味とは何か。それは不思議を経験すること。とうていできそうもないことができてしまうこと。そうです。信仰があるならときには冒険もしてみたいものです。大きなことを成功させてみたいものです。

10人対2人の戦いはそのまま彼らの報告の内容に表現されています。前者は否定的で13章31ー33節、後者は13章30節、14章6ー9節で肯定的です。全く同じ事実を見ながら見事なほどに反対の内容です。でも前者をさばいてはいけません。なぜ。人は人をさばく資格がなく、さばくことができるのは神のみであるから。さて、10人の見解は極めて常識的なものです。

 @敵は城壁を持った町に住んでいる(13: 28)。イスラエル人はテント生活。
 A体格は大きく、巨人(アナキーム13:28)と呼ばれる彼らに対してイスラエル人は普通の体格。
 B彼らは戦車を有するがイスラエル人は農民兵の類い。

 まず常識的に考えて勝算はありません。私たちの生活に於いて9割5分はこの種の判断に従っているものです。ですから10人の意見は適切なものとも言えるのです。イスラエル人の持つ力は敵と比較して非常に小さかったのです。でも二人が成功しました。なぜ?
 アフリカに二人の靴のセールスマンが派遣されました。一人が社長に報告しました。「社長、だれも靴を履いていません。売れません!」もう一人はこう社長に報告しました。「社長、だれも靴を履いていません。たくさん売れます!」あなたはどちら派?どちらが成功すると思いますか?


 結局ヨシュアとカレブだけがはついに約束の土地へ入って行くことができました。あなたにもこのような経験ができるときが来ます。これは理性的な説明のできない種類のものです。「なぜ、できると思うの?」と質問されても満足な、納得のいくような解答ができないのです、自分に対しても他の人に対しても。でも「必ずできる!」と確信をもってしまうのです。これが信仰の魅力です。鍵は先にお話しましたように2歳児のような素直さです。

 今から67年前、和歌山県南部町に升崎外彦(ますざき・そとひこ1892-1976)牧師によって創設された紀南労祷学園という学校があった。附近の漁村の子供たちを集め、祈りと労働を通して聖書を学ぶことから始まった。この学園には升崎牧師の人徳を慕って有能な青年たちも加わり学んでいた。そこへある日、幼い頃、脳膜炎を患ったことから知的障害をもった、一人の少年が入ってきた。名は山本忠一という。ところがこの少年のことで、近所の人々から学園はいつのまにかアホ学園と呼ばれるようになった。少年も、アホ忠とあだ名されるようになった。有能な少年たちはこのことに耐え切れなかったのだろう。ついに升崎牧師に、「このアホ忠を追い出さなければ我々が学園をやめる」と言いだしたのである。升崎牧師は困ってしまった。人々からアホ忠といわれる少年を選ぷべきか、有能な青年たちを選ぶべきか。しかし、升崎牧師は、「健康なる者は医者を要せず、病ある者のみこれを要す」(マタイ9章12節、文語訳聖書)のいもことばを思い出し、少年を選んだ。その結果、青年たちは学園を去って行った。しばらくして山本少年も昔の放浪癖がでたのか、突然学園から姿を消してしまったのである。数年後のことである。その後、この山本少年を雇っていたという小さな運搬船の船長が升崎牧師を訪ねてきて、こう報告した。「先生、、アホ忠と人々からばかにされ、何の役にもたたないと言われていた忠一が実に立派な働きをして死にました。ある日、私の船が荷物を満載して紀州尾鷲湾を出たのですが、出帆後まもなく海がしけだし、新宮沖にさしかかったとき、ついに船は暗礁に船底をぶつけてしまいました。船は底から浸水をはじめ、私たたがもうだめだと思ったたときです。船底から「親方、親方、船を、船を」という忠一の声が聞こえてきました。見ると、忠一は船底の穴に自分の足を太股までぐっと突っ込み、必死にもがきながら「早く船を出して」と叫んでいたのです。それで私たちは懸命に船を進め陸に近づけ、九死に一生を得たのです。けれども忠一は、可哀相に右大腿部をもぎとられ、出血多量で上陸するまでに行を引き取ってしまいました」アホ忠が自分の本名だとさえ思いこんでいた山本少年、 その彼が自分の命を捨てて同僚と船とを救った。……(『チャペルタイムス』教会新報社より)

彼は大きな仕事をしました。だれにも神さまから、ときには大きなことをするようにチャンスが与えられます。でも心配しないでください。そのようなときにはアイディアのみならずそれを成功させる力も与えられます。