275 クリスチャン生活の基本

聖書箇所〔マタイの福音書22章34−40節〕

 アテネオリンピック(2004年)で日本は好成績でしたが、さまざまな話題も提供してくれましたね。一つは28年ぶりの男子体操総合優勝です。新聞やテレビで報道されて多くの人に知られたことは体操王国日本の没落を救ったのは子どものころから基本を丁寧に教えることでした。基本は場合によっては単純なことなので、つまらない、退屈といった気持ちにさせるものでもありますが、それに耐えてついに金メダル!これは聖書の原則どおりのことをしたと言えます。

 あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はたくさんの物を任せよう(マタイ25:21,23)

今回はクリスチャン生活の基本について学んで恵みを受けましょう。

神を愛する

 「神を愛する」という表現は分かったような分からないような気持ちにさせる面があります。具体的にはどのようにすることなのか、これが知りたいところです。これは実際には個性的なもので、あなたの場合はどうなのかということを理解する助けとして叩き台となるものをご紹介しましょう。

 2003年7月27日、偉大な大リーガー、ゲーリー・力一ターの大リーグ野球の殿堂入りが決まった。記念式典で・力一ターはこう語っている。
 私はここで時間を取って、私の人生で重要な役割を果たしてくれた人々に感謝を表したい。とりわけイエス・キリストに感謝したい。このスピーチの原稿を書く間、私の心にあったのは、詩篇18篇である。

主、わが力。私は、あなたを慕います。
 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
 身を避けるわが岩、わが神。
 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、
 私は、敵から救われる。(詩篇18:1〜3)

 私は神をたたえる。神は私に能力と、願いと愛とを与え、きょうまで私を導いてくださった。神の助けなしには、今の私はあり得ない。(『クレイ』2004.1)

真に成熟した人

イギリスの大文豪シェークスピアが旧友の家を訪れました。あいにく友人は家におらず、家の管理を任されている召し使いが代りに迎え出ました。召し使いは、少し待てば主人は帰宅しますと言って、彼を居間へ通しました。ソファーに腰を下ろすと召し使いは暖かい紅茶を一杯差し出しました。紅茶の盆には、待つあいだ気楽に読める一冊の本まで添えてありました。細やかな配慮に感じ入った彼は、召し使いを見上げてにっこり微笑みました。その後召し使いは仕事を片付けるためにかキッチンヘ戻ってしまいました。すいぶん待ちましたが、主人は帰ってきませんでした。人の家の屠間にひとり座っているのが何となく落ち着かないシェークスピアは、紅茶のお代わりでももらおうと思って、キッチンヘ行きました。ところがキッチンの扉を開いた瞬間、彼の目に飛び込んできた光景は、誰もいないキッチンで一人絨毯の下の掃除をしている召し使いの姿でした。そこは誰かが捲りもしない限り、誰も汚いかどうかすらわからない場所でした。それなのに召し使いは、誰に監督されているわけでもなく、主人に命じられてもいないだろうに、一人鼻歌を歌いながら絨毯の下を雑巾がけしていたのでした。その姿を目撃してからというもの、シェークスピアは、若者たちから人生で成功する秘訣や、いちばん影響を受けた人について問われると、決まってこう答えました。「一人でいるときも、誰かに見られているときと変わりなく、全く同じ行動が取れる人。そんな人こそ、どんなことにも成功できる人です。私はそういう人をしちばん尊敬しています。」(訳:尾崎)(『リビングライフ』2002.5)

いかがでしょうか。参考になりましたでしょうか。人には個性があります。生育環境も異なります。したがって「神を愛する」仕方は人それぞれ異なります。これらを参考にあなたの、「神を愛する」仕方に気がついていただけたらと願います。そして「神を愛する」と、あなたの心はほっとするはずです。なぜなら人はそのように造られているからです。生まれながらの人は自らの罪のゆえにぽっかりと心の中に穴が開いています。これを埋めることが難しいのです。アイスクリームを食べても、ケーキを食べてもせいぜい一時の安心感。ほんものの安心感は「神を愛する」ときにのみ与えられます。そのためには天地の造り主なる神の前にへりくだりましょう。罪を認め悔い改めて、「神さまは私に何をすることを望んでいらっしゃいますか?」と質問してみましょう。雲が晴れた時のようにあなたには神が見えるはずです。神はあなたに「これこれをしてほしいな」とお答えくださいます。こうしてあなたにとっての「神を愛する」がスタートします。

自分を愛する

 自分を愛することはとても大切なことです。ただしここで誤解をしないでほしいのです。エゴイズムの勧めではありません。正しい、自分の愛し方です。もしあなたが自分を大切に取り扱うと何があなたには起きるでしょうか?それは人を愛することができる、これがあなたの中に起きます。実はこの両者は緊密に関わっています。たとえばこのように考えて見てください。

 あなたが非常に大切にしている物を、友人から「貸してくれないかなあー」と頼まれた時。さあ、あなたはどうしますか?ちょっと考えなければなりませんねえ。たとえばその友人の部屋を訪ねた時、彼は物を雑に扱う人であると発見したら、きっとあなたはこう思うでしょうね。「私の貸したものもこのように扱われるに違いない!」そうです。自分を愛していない人は他者を雑に扱います。これは極めて簡単な理屈です。愛を自分に向けてください。愛をあなたの中にたくさん蓄えてください。蓄えれば蓄えるほどあなたはそれを使うことが容易になります。ここであなたに一つ質問。あなたは一億円使えますか?もし使えないのであれば、それはなぜですか?難しく考えないでください。一億円を持っていないからです。同様に愛を持っていない人は愛を行使することができません。ゆえに私たちは自分の中に出来るだけ多くの愛を貯金すべきです。自分を大切に、丁寧に扱うべきです。私たちはだれでも自分に対して関心を強く抱いています。この欲求を無視してはいけないのです。自分を愛情不足にしてはいけません。

ここでは安全な場を欠いた哺乳類、とくに霊長類の幼体がどのような行動に走るかについて研究してきた学者たちの、ここ一〇年ほどの成果の一端を紹介しておきましょう。

 霊長類を対象としたいくつかの研究によれば、生後数日から数週の段階で群れから切り難された幼体の場合、たとえその後群れに戻され順調な発達を遂げたとしても、群れに混乱が生じてストレスが高まったりしたヒきには、攻撃的な行動や極端な引きこもりが発現してくるそうです。たとえばアカゲザルの幼体を午後二ヶ月目で母および同胞から離し、生後一年目まで分離を続けた場合、三歳の時点で少量のアンフェタミンを投与しますと、突然暴力的となリ、群れの仲間を殺すことが観察されました。分離されていない普通のサルの場合には、こうしたことが観察されてません。別の報告によれば、こうした分離休験をもったアカゲザルではアルコール摂取量が昂進するそうです。おそらく数ヶ月の間に、幼体は母親環境に守られた安全な場を必要としており、その中で後日必要となる他のサルとのかかわり方を身につけていくものでしょう。この場合必要となる他のサルとのかかわり方を身につけていくものでしょう。この場合、ある臨界期に群れから、一定期間離された個体は、他の時期に分離を経験したものよりも、生涯を通じての後遺症(行動異常)が顕著であるということです。このことはヒト以外の霊長類にとっても、母親環境との愛着のうちに形成された外観認識(世界観)がある臨界期に固定化され、これが破壊されることによって憤怒や攻撃の爆発をふくむ異常行動が発現しやすくなるという事実を示唆していろように思われます。暴力にさらされて育った人間の子どもは、自らの筋肉の力が増すと周囲を暴力で支配しようとするようになります。彼らは犠牲者の瞳のなかにかつての虐げられた自己を見いだし、これを圧殺することで、弱い自己を排除しようとするのです。(『アダルトチルドレンと家族』学陽書房)

一人の女性が訴えます。「誰かに見られています」。一人部屋にいてもカーテンのかげ、鍵穴に人目を感じると言います。はては絵画の中の人物の眼までが気になり、ついに部屋から追い出してしまいます。彼女は他人のまなざしを極端に拒絶して行きます。これは「まなざし」から一生懸命に逃れる女性の姿に見えますが、実は彼女は片思いをしています。つまり彼女は見られるのを拒絶しているのではなく、見てほしいのです。なんとも人間の心は複雑なのでしょう。いいえ、単純です。「私を見てほしい、私の方を振り向いてほしい」のです。

自分を愛するにも方法があります。生活の中で「楽しいなあー」と思えることをする、これが一番です。あなたに賜物があります。それを活用してください。そして大いに楽しんでください。私の楽しみは一人で書斎に閉じこもり、お気に入りのソファーに座って大好きなコーヒーを飲むこと。そんなこと!?いいえ、これが私には楽しいのです。珠玉のひと時です。人生において大切なことは常に単純なことです。イエス・キリストはあなたのためにいのちをお捨てになりました。ここにあなたへの愛があります。これも単純なこと。まずイエスさまからの愛を受け取ってみてはいかがでしょうか。

人を愛する

 さあ、ようやくここへ来ました。順序が大事です。自分を愛して、それから人を愛するのです。もうすでに書きました。自分を愛していないと他の人を愛するなんて、まったく不可能です。もしできると考えるなら、まったくの誤解!ない袖は振れない!ところで人を愛するには、人に何かを与えることです。では何が喜ばれるでしょうか。それはゆるし。それも二種類あります。許しと赦し。あなたはだれかに傷つけられましたか?その人に赦しをあげてください。その人にもいろいろと事情があったのでしょう。ならばそれを許してあげてください。その人の性格はそのようなものなのでしょう。許してあげてください。プレゼントとしてはゆるしは最高のものです。でも時代は、世界はまったく反対の方を向いていますね。2004年のアメリカ大統領選挙。相手の欠点をさらけ出し、追求することばかり。醜い姿です。

スキャンダルブームの中で

昨年ある人気タレントとそのグループが強引な取材活動に抗議して出版社に押しかけ、それが暴行事件に発展するという事件が報道された。新聞によるとそのタレントと交際のあった女子大生を狙ってキャンパス内に入り込んだり、強引にインタビューしようとしたらしい。そこでテレビやラジオは、行き過ぎた取材活動やプライバシーの侵害に関して週刊誌、雑誌の自粛を求める内容の報道を多くしている。物事には、第三者には伺い知れない事情があったり、それぞれの言い分があるのが常であるから断定的なことは言えないにせよ、一般的に言って今日、この類のことが大きな問題となっていることは事実のようである。現在、有名人のスキャンダルめいた記事を興味本位に扱う雑誌が5、6種類出回って、毎週2、3百万の発行部数を誇るという。

聖書に出てくる愛のマント

ちょうどそのころ、私は毎朝病院でもたれる朝の礼拝で「愛のマント」というメッセージを聞いた。その説教者は、「私は戦後間もなく一人の宣教師から聞いた『愛のマント』というお話は今でも忘れません‥」と前置きされて、次のような内容の話をされた。「現代は、人の欠点や弱さを覆うどころか暴露し、それを面白がってはやし立てる時代です。しかし、愛はそれに目をつむる側面を持っているのではないでしょうか。聖書の中にノアの三人の息子の話しがでてきます。ノアは、皆さんもよくご存知のように立派な信仰者で、その信仰のゆえに神の御告げを受けて箱舟を作り神の裁きを逃れた人です。‥しかし、どんな偉大な人にも落ち度はあるものです。晩年のノアは、こともあろうにブドウ酒に酔っぱらって裸で寝てそのぶざまなかっこうをさらけ出してしまったのです。私たちだったらそこどうするでしょうか。創世記9章の記述によると『セムとヤぺテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった』とされています。(23節)二人の息子は父親の醜態を見ないように後向きに進んで愛のマントをかけ、その失敗を補ったのです‥。

社会、職場に糾弾の姿勢

二日後に私はある人から次のような話しを聞いた。あるクラスに一人食事の遅い子がいて、担任の教師がいつも注意を促していたが、なかなか改善されなかった。その若い教師は、若さの故に焦ったのかある時前の日のパンを残しておき、次の日もまたそれをその子に食べさせるようなことをしたらしい。そこでこの子はますます給食が嫌いになり、一時登校もしぶるようになったという。事情を知った父兄は教育委員会に直訴し、事実が明るみに出たが、校長はその教師を呼んで父兄の前に土下座して謝まらせたという。しかし、その人は私にこう言った。「校長も校長です。自分の監督が十分でなかったと言って、若い先生を守ってあげたらいいのに、自分の護身ばかり考えて‥。」むずかしい教育現場の中で、奮闘しておられるまじめな先生方も多いのだから、教師に対する不信感を募らせるようなことは控えるべきであろうが、私がここで言いたいのは私たちの身辺で、こうした事柄が頻繁に起こっているのではあるまいかということである。すなわち先程、私は愛は人の弱さを覆うものであるという意味のことを述べたが、教師は教え子を、また校長は若い教師を、父兄はこれから教育に携さわろうとする若い人たちを守ろうとしているのだろうかということである。むしろ、失敗をあげつらい、落度を告訴し、糾弾しようとする姿勢が、社会にも職場にも、また家庭にもまん延し始めているのではあるまいか。先日も教会付属のある幼稚園で子供の話しをしたら一人の母親が私にこう言った。「先生、どうみても私は子供の良さをほめるよりも、悪い所ばっかり目について責めていました…。」昨今、医事紛争も、ことの外多くなってきたことも、こうしたこととは決して無縁ではあるまい。ヨブ記をみるとサタンの性格の一つがよく理解できる。サタンは「あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい、彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と神に述べたのである、すなわち、人の弱みを知り、それを打つようにそそのかすのである。これに反して、新約聖書の中には私たちの心を打つ、美しい場面がある。イエスの弟子の一人ペテロの話しである。ペテロは「主よ、あなたのためならば、わたしは獄にでもまた死にまでもご一緒します。」と豪語する。ところが、肝心な時になって三度、イエス・キリストを拒むのである。その時、イエスはどうしたであろうか。聖書は、「『あなたの言っていることは、わたしにはわからない』。すると、彼がまだ言い終わらなむぬうちにたちまち、鶏が鳴いた。主は振り向いてぺテロを見つめられた。その時ぺテロは、『今日、鶏が泣く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て激しく位いた。」(ルカ22章)と記している。許しの世界は、再び勇気を抱いて進む世界である。これに反して糾騨する世界は、恐怖と不信を残す世界である。私たちは、愛の本質の一つをたがえたために大きな代価を支払わねばならなくなってしまったのではないだろうか、私共に今必要なのは、『愛のマント』ではないであろうか。(『クリスチャン新聞 福音版』1987.2.1)

 ゆるしはどこで入手可能でしょうか?ない袖は振れぬ。答えを得ておかなければなりません。十字架の上のイエスさまから。たくさん受け取ってください。おすそわけで十分に人は喜んでくれます。ゆるしたあなたの顔は輝いて、態度やことばや生活の中に現れます。それはそれは美しいものです。