276  御国の中で生きよう

 ●聖書箇所 [詩篇92章12節]

 先日あるチャペルでの礼拝を終えて車で出発しました。ところがどうも車の具合が悪いのです。下りて周囲を見ました。パンクをしていました。でも心配ありません。目の前がタイヤ屋さんでした。一ヶ月前にも大きな通りで突然車が動かなくなってしまいましたが、通りかかりの自動車修理工場の社長さんが助けてくれました。今回も助けられて神さまに感謝しました。神さまは見ていてくださる、すべて適切に配慮してくださると。これが御国の中で生きることです。また同時に御国を自分の中に存在させていることです。イエスさまはおっしゃいました。

 「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国(御国)はあなたがたに来ているのです」(ルカ11:20)

 御国、それは魅力的な世界です。いつあなたのもとに来たのでしょうか。それはあなたがイエスさまを救い主として個人的に信じた時。もしあなたがまだ信じていないのなら、信じることをお勧めします。とても魅力的な世界であるからです。今回は御国の魅力とそれの持つ祝福とを学びましょう。聖書には三つの木が象徴としてそれを語ります。

オリーブの木[ローマ人への手紙11章17ー24節]

 日本では小豆島で栽培されているようです。地中海一帯ではもっともポピュラーな木の一つです。私は以前(1999年)教会員たちとともにパウロの足跡を訪ねるべくギリシア旅行をしましたが、あちらこちらに植わっていました。古代からその油は食用にもランプ用にも使われ、その実も食用です。そういえば食事には必ず実が出されたことを思い出します。聖書ではオリーブの木は(神による)選びの象徴です。まず神の民イスラエルを表します。ローマ人への手紙11章17ー24節で語られている話は接ぎ木のことです。接がれた「野生種であるあなた」とはこの手紙の宛先人であるローマ人クリスチャンたちです。つまり異邦人クリスチャンです。私たち日本人も当然その中に含まれています。台木(とその枝)はイスラエルです。しかしこのパウロの説明は逆なのです。本来良い種を接ぎ木するのであって、これはまったく逆の説明なのです。ありえないことをパウロは言っているのです。でもありえないことを起こすのが神さまです。これを選びと言います。神さまは多くの民族の中からイスラエルをお選びになりました。多くの人々の中からあなたをお選びになりました。このことが分かる時に私たちは心の、あるいは魂の深ーい部分で喜びを感じないではいられません。それはこの世では決して与える事のできない喜びです。私は結婚式を挙げるのが大好きです。その中でこういう祈りをします。新郎新婦のそれぞれに向って。「世に多くの女性(男性)がいる中でよくぞ私を選んで下さった」と。私たちは決して高慢になってはいけません。まかり間違っても「選んでやった」などと考えてはいけません。そこにはブツブツ言う不平不満の日常が待っているだけです。

 菅原道真にかかわる物語を紹介しましょう。

 道真は嫉妬と讒言の犠牲となって京の都を追放された。だが無慈悲な彼の敵はそれだけで満足せず、いまや道真の一族を根絶やしにせんものとたくらんだ。そしてまだいたいけな道真の幼な子を厳しく探索し、かつて道真の従者であった[式部]源蔵の寺子屋にその子がかくまわれていることをつきとめた。その結果、源蔵に幼い罪人の首を定められた日に届けるように命令が伝えられた。そのとき源蔵がまず考えついたことは、その子の身替わりを見つける、ということであった。源蔵は寺小屋の名札を思案し、そのへやってくる幼童たちの一人一人を吟味した。だがその地生まれの幼童の中には、誰一人として源蔵がひそかに護りぬこうとしているあの若君に似ている者はいなかった。しかし源蔵の絶望はほんのひとときであった。見よ、品のいい物腰の母親に伴われて顔だちの整った、年の頃もかの大臣の幼君と同じ少年がこの寺小屋に入門してきたのだ。さて、幼君と幼い従者がよく似ていることに、その母とその子自身が気づいた。そこでその家の人目にふれぬ場所で、母子はみずからを神仏の祭壇に捧げる決意をした。……この話の残りの部分は手短かに述べよう。定められた日に若君の首級を確かめ、受けとるように命ぜられた役人〔松王丸〕がやってきた。彼は果たしてその贋首に気がつくだろうか。哀れにも源蔵はその刀の柄に手をかけ、もしこのたくらみが検視の役人の取調べによっ見抜かれたならば、即座にその役人か、あるいは自分自身に自刃の一閃を加えんものと決意していた。検視役、すなわち松王丸は前に置かれた身の毛もよだつ物体をとりあげ,一つ一つその特徴をごく冷静に吟味した。そしておごそかに、かつ手慣れた調子でその首がまちがいなく本物であることを述べた。その夜、あの母親は人気のない家でなにかを待ち受けていた・。……その母親の姑は長きにあたって道真公から恩寵を受けていた。……そして一族と顔見知りであるという理由によって、その夫、すなわち松王丸が年端もいかぬわが子の首実検の役目を命じられたのである。……その日の一日の、いやその人生にとってもっとも苛酷な役目を終えて、夫は帰宅した。そして敷居をまたいで戸をぴしゃりと閉めた瞬間、「われらがいとけし枠は立派にお役に立ったぞ。挽べ安房」と叫んだ。(『菅原伝授手習鑑』)

 なんという残酷な話!とおっしゃりたいですか。父なる神さまはあなたを救うために御子をお捨てになったのです。とてつもなく大きな犠牲が払われました。選びは犠牲の上に成り立っています。そしてそれほどまでにあなたは高価で尊い存在なのです。まさかごみのためにいのちを捨てる者がいるとは言えません。イエスさまがあなたが選ばれるようにお祈りなさった場所をゲツセマネと言います。「オリーブ搾り器のある庭」という意味です。

ブドウの木[ヨハネの福音書5章1ー5節]

 果たして木なのでしょうか。自立できず、地を這っています。でもきっと木なのでしょう。ブドウの木は険しい傾斜地や荒れた土地で生きています。むしろそのような土地の方がよく育ち、甘い実をつけると言います。ブドウの木はどんな困難にも負けないで実を結ぶことの象徴です。あなたには試練がありますか。もしかすると今経験をしていますか。でも決して負けないで下さい。秘訣は根を深ーくはること。ブドウの根は数十メートルにも達するそうです。水源を求めて、養分を吸収するために。あなたもイエス・キリストに深く信じてください。どんな困難にも負けないでしょう。ある日ペテロは徹夜で漁をしていました。結局収穫はゼロでした。なんということでしょう。ルカの福音書5章の冒頭からお読み下さい。そこへイエス・キリストが「網を降ろしてみなさい」とおっしゃるのです。彼にはプライドもあり、先入観もありました。彼は父親の代から漁師であって、ガリラヤ湖についても漁についてもよく知っている人間です。彼を戸惑わせるには充分な提案でした。「いくらイエス・キリスト先生と言っても、しろうとには違いない……、私はこの分野ではプロですよ……」というわけです。ところが、ところがです。大漁でした。ペテロは驚きました。いったい何に?自分の不信仰に驚いたのではありませんか。信じてはいました、でも浅いレベルであったのです。深ーく信じる必要があります。あなたはあなたの人生において立派な実を結ぶでしょう。ある人たちはそうしないで自分を傷つけています。たとえば人を憎む、あるいは赦さないとか。決して良い実を結ぶ事はありません。

 今から二十年ほど前、彼は東京の大学の学生でしたが、彼の下宿には一匹の日本ザルが玄関の土間に鎖につながれて飼われていました。子どものいない大家である共働きの老夫婦最愛のペットだったのですが、若い佐田君は大家からサル以下の扱いしか受けないことが内心、不満でなりませんでした。第一、夕食のおかずはサルのほうが豪華なのです。そこで老夫婦の留守のときに、そのサルの太郎に鬱憤晴らしをやることが、いつしか習慣になっていました。また、失恋したといっては、まんじゅうの餡の中に唐辛子をいっぱい詰め、それを太郎に与え、彼が体中の毛を逆立てて「ギヤッ、ギヤッ」と飛び回る姿に心の痛手を、しばしの間忘れたりしていました。そんな関係でしたが、太郎が佐田君を徹底的に嫌っている様子はなく、性懲りもなく彼の与える餌を食べては飛び上がっているのです。……そして、佐田君の就職するときがきました。今日は永年の夢であった大手広告代理店の就職試験の最終面接の当日です。いつになく新しく下ろしたワイシャツ、ネクタイ、背広に身を固め、晴れの舞台へおもむこうと、下宿の玄関まで行くと土間にいた、太郎が一瞬、不思議そうな表情をしたかと思うと、ニコッと笑ったように佐田君の目には映りました。あれだけいじめてきたのにオレの門出を笑顔で送ってくれるのか。なんと可愛い奴なんだ!!」 。そう思うと同時に、にわかに悔恨の情に襲われ、感傷的な気分になったといいます。そのときサルの太郎は、土間続きの縁の下から壷のようなものを慌てて引きずり出しています。何をするのだろうと覗き込んだ佐田君に、太郎は壷の蓋を素早く取り、手をグッと突っ込んだかと思うと、中身をガバッと佐田君の上半身にぶつけたのです。壷の中には、なんと太郎の排泄物が溜められていたのです。佐田君は周章狼狽しましたが、いくら慌ててみても面接時間に間に合うようなスピードで、再度、身支度をすることはとても不可能です。この時点で、彼の永年の夢ははかなく消え去ったのです。現在、佐田君はさる証券会社の営業マンをやっていますが、この昔話を語るとき、必ず付け加える一言があります。それは、「太郎の奴、オレの最も大事な瞬間をじっと窺っていたんだよなあオレの晴れ着を見て、千載一遇のチャンスだと閃き、それでニコッとしたんだよね。結局、最も効果的なときに復讐することに成功しやがった。アッパレな奴だよ。それまで、人を恨んだり復讐したりなんて、人間さまだけに許された高級な芸当だと思っていたんだが、これくらいのことはサルにだってできるんだよ。以来、オレは人を恨んだり復讐してやろうなんて気持ちには、馬鹿馬鹿しくって、一向になれなくなったんだ。要するに、オレは太郎に人生の大事な教訓を教わったというわけなんだ」

 一人の婦人が私に電話をかけて来ました。「先生、私はついに母を赦すことができました!」。声が弾んでいます。会って見ると顔が以前とはまったく違っているのです。続けて彼女はこう言いました。「イエスさまを信じるってこういうことなんですねえ」。もちろんそれまでも信仰を持って生活をして来てはいたのです。でも浅深が信仰の世界にはあるのです。深ーく根を伸ばして、すなわちイエスさまを深ーく信じて行きましょう。あなたの人生に祝福があふれること、請け合い。

シュロの木[詩篇92章12節]

 なつめやしの木のことです。イエスさまがエルサレムに入場なさるときに、人々はこの葉を振り歓迎しました。乗ったロバは謙虚さのしるし。イエスさまは謙虚にも私たち人間に仕える王として来られました。なつめやしの木は未来を教える木であり、まっすぐな成長を象徴しています。それは家族をも象徴しています。家具や住宅の材料である杉や檜について、同じような年数で、林になって成長した方がまっすぐ均質に育ちます。逆に一本だけで育つと曲がっていたりするのです。私たちは愛とおもいやりのある家族の中で生活する事ができたら最高ですね。

 男の子がペットショップを覗いていました。「おじさん、これいくら?」。値段を聞いてため息をついています。ふと気がつくと奥の方に足の悪い犬がいるのに気がつきました。「おじさん、これいくら?」「あー、これはね、獣医さんに診てもらったんだけど、もうこの足は直らないんだって。だからただでいいよ!」。男の子は怒ったような顔をしました。「ただじゃあーだめ!」。彼はありったけのおこづかいを置いてその犬を買って行きました。その子は足が悪かったのです。 私たちは痛みを経験すると他者の痛みが分かります。他者の痛みが分かるような関係、これが愛と思いやりの関係なのではないでしょうか。
 NHKスペシャル(2000.6.24放送)を見ました。「なぜ私は子どもを虐待したのか」という題でした。虐待している親がカウンセリングを受けています。結論はこういうものでした。「親たちが子どもの頃、親から虐待を受けていた」のです。「なぜ虐待するのか?」とカウンセラーに尋ねられた親たちは「子どもを愛しているから」と答えるのですが、やがてそう思い込んでいるに過ぎない自分に気がついて行く様子がうかがえました。結局私たちは自分自身が受けた親のやり方をコピーしているのです。そして後で理屈を付けているのです。

 「先生、私もうだめだ」。朝のホームルームが始まる前、泣きながら範高校一年のA子が駆け寄ってきた。「腰も足も痛いよ」。そう言ってまた泣き続ける。別室に連れていって理由を聞いた。どうやら親から暴力をふるわれたらしい。「私が小学生のころ、学校に行けなくなったことがあって、そのころからお母さんが私をぶつようになったの」としゃくりあげながら話す。 彼女の背中には何力所もあざがあり、足ははれ上がっている。母親の暴力は一度始まると、週に二回くらいの割合で3ヶ月くらい続くのだという。でも、それ以外のときは、子供思いの普通のお母さんなのだ体が大きくなった現在まで暴力が続いていることが不思議に思った。が、今回の暴力はしばらくぶりのことだったという。彼女の父親はエリートサラリーマン。外から見ると何の不自由もなさそうな家庭だ。「そのとき、お父さんとお姉さんはどうしているの」。私の問いかけに驚くような撃ような言葉が返ってきた。「最初は二人とも見ているだけなんだけ、そのうちお父さんも一緒に私のことを蹴り始めるの。お姉ちゃんは口を塞(ふさ)いで、息ができなかった……」もう一度同じようなことが起こったら、私に話すように約束してその場は別れた。別れ際の彼女のつぶやきに胸がつまった。「お母さんはおばあちゃんに愛されなかったんだって。だからきっと私のことも愛せないんだね」(『日本経済新聞』2000.7.1)

  ここに罪人の限界があります。どんな家族でも限界があります。ではどうしたらいいのでしょうか。霊の家族の出番がここにあるのです。霊の家族とは教会です。肉の家族では甘えがでます。霊の家族の中で愛する事を学び、肉の家族に恩返しをする事が出来ます。あなたは肉にあっても霊にあっても御国の中で生活する事ができるようになるのです。