277 知ろう!神の心

聖書箇所〔出エジプト記3章1−14節〕

 出会いによって人生は決まるとはよく言われます。私も振り返ってみて、あの時イエスさまに出会って、今日があるなあ、と感慨深いものがあります。大きく私は変えられました。今回学びたいのは、モーセの経験した神との出会いです。彼もすっかり変えられました。ポイントは何でしょうか?それは神の心を知ったこと。そこで今から神の心を知って、私たちも新しくされる経験をしましょう。神の心とはどのようなものでしょうか?

私はあなたの痛みを分かっている

 神はあなたの痛みをご存知ですよ。だれにも人には言えない痛みがあります。それは心の傷が痛むのです。「なぜ?なぜ、私の願いは聞かれないの?」「いったい、いつまで待てばいいの?」「どうしてこんなことが私に起きるの!?」などなど。でも神はそれらすべてをご存知です。そもそも神は痛みを経験することがあるのだろうかという疑問があります。答えは「ある」。7節をご覧下さい。奴隷として苦しんでいるイスラエル人の心の痛みをご自分のものとしておられます。
 1節を見ますと、モーセはお舅さんの羊を飼っていたことが分かります。このような言い伝えがあります。
 ある日、一頭の子羊が群れから離れ、駆けて行きました。彼はあわてて追いかけます。「なんと足の速い‥‥‥」なんて思いながら追いつくと水のみ場で夢中になって水を飲んでいます。彼は反省をします。「のどがこんなにも渇いていたんだ、気がつかなくて悪かった。おまけに『忙しい時に余計な手間を取らせて‥‥‥』なんて思ってしまって」
 十分飲み終わったところで肩に担いで群れの中に戻しました。これを一部始終見ていた神はこうおっしゃったというのです。「モーセよ、あなたは小さな、仲間の羊へ思いやりを示した。あなたは間違いなく私の羊、イスラエルの子らの指導者にふさわしい」。さきほどの質問。神は苦しむことがあるのだろうか?というそれ。もう一度、それは「ある」と言えます。4節では「芝の中からモーセを呼び」とあります。芝とは荒野に生えるとげのある植物の一般名称でとげがあります。この言い方は苦しむ神の姿を教えています。エジプトで奴隷となって苦しむイスラエルの子らに思いを寄せています。

「私を分かってくれる者がいる」と分かるだけで私たちは元気になります。そればかりではなく、使命さえも手に入れることができます。

たとえ明日はなくても

 たとえ短い命でも 
 生きる意味があるとすれば 
 それはなんだろう 
 働けぬ体で 
 一生を過ごす人生にも 
 生きる価値があるとすれば 
 それは何だろう 
 もしも人間の生きる価値が社会に役立つことで決まるなら 
 ぼくたちには生きる価値も権利もない 
 しかし 
 どんな人間にも差別なく 
 生きる資格があるのなら 
 それは何によるのだろう

 

 この詩を書いた石川正一さんは幼いころ、筋ジストロフィーの宣告を受け、「治療法なし、20歳までの命」と言われた苦難の人生をおくりました。9歳の時、歩行不能となった時、「ぼくはもう駄目なんど、ぼくなんかどうして生まれてきたんだ?」と絶望するのです。その息子の苦しむ姿に、父親は、医学的に治療が不可能なことを知らせ、「でもね、正ちゃん、どれだけ長く生きたじゃなく、どんな生き方をしたかが大切なんだよ」と語るのです。正一さんは心の叫びを詩に託し続けました。そしてクリスチャンの両親に導かれながら、聖書を学び、少しずつ、行き詰まりと思えた未来に明るい光があることを発見していくのです。それは、信仰によってイエス・キリストと出会うことでした。この時から、その詩は、力強く、明るくなっていくのです。

 たとえぼくに明日はなくとも 
 たとい短い道のりを歩もうとも 
 生命は一つしかないのだ 
 だから何かをしないではいられない 
 一生けんめい心を忙しく働かせて 
 心のあかしをすること 
 それは窯(かま)のはげしく燃えさかる火にも似ている 
 窯の火は陶器を焼きあげるために精一杯燃えている

 こうして人々をはげますたくさんの詩を残した正一さんは“人のために祈る”ことこそ神様が与えてくださった天職と知るのです。

 不幸であるはずの重荷でさえも 
 わたしの心は春のよう 
 こぼれるほどの恵みをうけて 
 神の台本がつづく限り 
 わたしは生きる

 「たとえぼくに明日はなくとも」というあかし集を出し、大きな反響を呼んだ石川正一さん。1979年、23歳という短いこの地上の生涯を終えました。(『クリスチャン新聞福音版』)

 あなたのために命まで捨ててくださったイエスさまを覚えてください。イエスさまも父なる神さまも痛みを覚えつつあなたを忘れてはおられません。

私はあなたをいつでも受け入れている

 私はあなたを祝福しますよというメッセージです。ある人たちは「なぜ、私は祝福されないのだろうか?」と問います。答えは単純です。信じていないからです。「私は祝福される」と信じてください。信じていれば必ず祝福されます。ところでここで一つの課題が登場します。信じられない場合、信じられない人が存在します。このケースでは「信じなさい!」と教えても無意味です。信じることができないからです。このことをこのように言い換えましょうか。神が「さあ、これがあなたの受ける祝福ですよ」と祝福を目の前に差し出してくださった。でもそっぽを向く。さあ、どうでしょう、ここまで読んでみて。「そんなことはないでしょう!せっかく出された祝福を拒む人がいるなんて、まさか!?」とお考えですか。いいえ、確かにそのような人が、そのようなケースがあるのです。実はこのときのモーセがそうでした。6節をご覧下さい。「顔を隠した」とあります。神が現れてくださったのに、なぜ?ある牧師の話をご紹介しましょう。

 一つの具体例を挙げます。洗礼を受けて間もない青年が、急に『他の教会に行かせてください』と言って出ていってしまいました。私は、自分が何かいけないことをしたのかな、と思って悩みました。彼は理由を言ってくれなかったのです。ところが、数カ月経って、彼が移った教会の牧師から、その理由を聞きました。祈祷会のときに、一人の「心を痛んでる人」が祈りの中で、『私は、殺したいほど憎い人がいます』と言ったので、それを聞いて彼は、『俺のことかもしれない』と思って、こわくなりました。それで、「ここにいたら殺される」と思って出て行ったのです。その青年は、会員でしたが.「心を病んでいる人」の方は、会員ではありませんでした。会員でない人のために、会員が出ていく。.『なんと、いうことだ!』と思いました。だから「心の病の人は困る」、その人のわがままのせいで他の.教会員がつまづいてしまう、という議論になりました。しかし、そういう祈りを聞いたときに、その青年はなぜこわくなったのでしょうか?自分に結びつけたからです。自分の不親切だったことを思い出したのかもしれません。しかし、その恐怖感に負けて出ていってしまったということは彼も心の痛む人であったということです。苦しんでいる人と、心をくだいて一生件名関わった人が、その人にひどいことを言われて、傷つき、去ってしまうということが何度もありました。そのとき何が起っていたのでしょうか?その人に関わって、お世話をしようとした人の心の病が、引き出されてしまったのです。確かに病院に行って治療を受けている人とごく普通に生きている人との間には『程度の差』はあります。しかし心の病のない人と私は会ったことがありません。みんな心に傷や痛みを持っていることを忘れてはいけないのです。重症の人は、『キック・ミー』のゲームをします。『私を蹴ってください』という心理ゲームです、つまり自分でも意識せずに、自分が嫌われるように行動するのです。それに負けて、嫌って見捨ててしまったら、その人はゲームの自的を達成したことになります。その目的とは「私はOKではない(生きる価値がない/愛されるに値しない)」ということを証明することなのです。そして、関わった人が傷つき、相手を憎むようになったら、その人は「あなたのせいでこうなった」というゲームをして、「あなたはOK ではない」というメッセージを送ったことになるのです。「私はOKでない」「あなたはOKでない」は、どちらも病的なメッセージです。誰でも、このどちらかが出てくることに気づく瞬間があるでしょう。いわゆる「心の病の人は」よく気づかせてれます。そのとき、自分の心の歪みに気づいて、悔い改める人はきっと心からどんな重症の人にも、「あなたはOK (生きるに値する/無限の可能性を持っている一人)です」と言えるように成長するでしょう。なぜなら、自分白身が癒されて『私はOK』と思えるようになるからです。人傷に触れて、自分の傷に気づき、成長して乗り越えるのです。‥‥‥参考図書『共同体、ゆるしと祭りの場』(ジョン・バニエ、女子パウロ会)『出典不明』

 いかがでしょうか。あなたは神の祝福を拒んだことがあるでしょうか。実は多かれ少なかれ、誰にもある経験なのです。モーセもそうでした。ところが私たちの神はぶつぶつ言うモーセを無視なさいます。それが10節「今、行け」から始まるやり取りです。神はモーセの思いをすべてご存知です。そしてあなたの思いをも。あなたも前進すべきです。神はあなたをいつでも受け入れます。あなたがあなたを受け入れない理由はありません。あなたがあなたを受け入れるとき、あなたは新しく変わります。

私はあなたに価値を認める

チェロリストで指揮者のパブロ・カザルスが言います。

世界中の子どもたちよ。これから私の言うことをよく聞いておくれ。君たちは、自分が何なのか知って、いるかい?君たちはきらきら光る宝石なんだよ。人頽の歴史が始まって何万年にもなるけれど、君たちとそっくり同じ子どもは一人として存在しない。君たちはなりたいものに、何にでもなれるんだ。シェークスピアにだつて、ミケランジェロにだって、ベートーベンにだってね。そう、君たちはきらきら光る宝石なんだから、大人になった時、同じようにきらきら光る宝石に傷をつけたりなんかしないよね?さあ、力を合わせてがんばろう。小さな宝石たちがせいいつぱい、きらきら輝けるような世界を築いていこうではないか」。(『こころのチキンスープ』)

 すばらしい文章ですね。4節でモーセは名を呼ばれ、10節では使命を授かり、彼は勇気付けられます。神は彼を愛しています。あなたも愛されています。そしてあなたに価値を認めてくださっています。このメッセージはあなたを勇気づけてくれるはずです。生きるための応援歌!あなたが生きることへの応援歌!これを聴くにはたっとひとつのこと、そうです、心の耳を澄ませてください。

ドイツ人神父さんと犬

歳をとったドイツ人の神父さんに、「どうして神父さんになったのですか?」と聞いたことがあった。彼は長身の背を伸ばし、細面の顔を仰向け、はるかな遠い故国を眺めているような柔らかいまなざしで、こんな話をしてくれた。

彼はドイツの田舎で生まれた。家は教育関係者を輩出している名門だった。優秀な兄がいた。あまり出来のよくなかった彼は、いつも兄と比較され、「もっとがんばりなさい」といわれた。小学校五年の夏休み前。終業式の帰り道、もらったばかりの通信簿を鞄から出し、おそるおそる開いて見ると、落第点がいっぱいついている。そのうえ、親への呼び出し状が同封されている。足取りは重くなり、家に入るのもためらわれた。その時、かわいがっている犬が飛んできた。喜んでしっぼを振っている犬を見て、少年は家に入らず、近くの野原に向かった。野原の真ん中に座りこむと、犬もそばにきて座り、少年の顔をじっと見あげている。全神経を少年に集中して座っているのだ。少年は犬を抱きしめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。「ぼくはお兄ちゃんみたいに頭もよくないし、どんなにがんばっても勉強ができないんだ。村で有名なうちに生まれて、将来、人のためになるんだぞ」といわれつづけているのに」

犬は、ひたすら「世の中にこの少年しかいない」という目で見つめている。

「本当につらいんだ。先生に叱られて、『ご両親にこの手紙を渡しなさい』といわれて。お兄ちゃんみたいになりたいんだけど、できないんだ。お父さんもお母さんもわかってくれない。わかってくれるのはお前だけだよね」

「やってもできないことがどんなに辛いか、わかるよね。一生懸命がんばったのに、お母さんに叱られたり、『もっとやらなきゃ』といわれるんだ」

犬はじっと聞いている。少年は胸のうちの、ありったけを話しつづけた。そうしているうちに、何か胸がすうっとしてきて、もやもやが晴れてくるのだ。

彼は犬を連れて、山一つ越えたところにある湖にピクニックに出かけるのが大好きだった。

その湖は霧に覆われていることが多かった。しかし時に、湖上を覆う淡い灰色と蒼色の溶け合った雲に、明るい太陽の光が射し込み、霧雲がさっと開けて、突然、美しい湖面が全貌を現わすことがある。それは一瞬前とまったく違った風景である。大地から湧き出し、どこをも薄暗さで覆ってしまうような、もやもやした霧はあとかたもなく消えてしまっているのだ。同じ地点に立っているとは信じられない。ついさっきまで湿った霧に包まれ、視界ゼロに近い状態だったのに、霧が晴れあがったとたん、まったく違った世界が開けているのだ。明るい太陽の下で、青空と湖は呼応し合い、湖の周りの樹木は、静かに水面に姿を映し、木々の枝をそよ風が渡っていく。調和と安らぎに満ちている。少年は、犬に心の内をすっかり聞いてもらうと、ちょうど晴れた湖のかたわらに立ち、湖の静けさに包まれているような感じを味わった。そして、今度こそがんばろうと、明るく家路につけるのであった。こんなに自分のことをわかってくれる者がいる。勉強ができるとかできないに関係なく、自分に対してこんなに忠誠と愛情を注ぎ、この世の中でいちばん大事な存在として扱ってくれる。少年は、突然、天啓を受けたような感じを味わった。自分の中に力が満ち、動かしがたい確信が、丹田にしっかり位置を占めたのを知った。「神様は自分を、こういうふうに見ていてくださる。それは少年なりの神体験だった。そして、一つの考えが自分の全身を貫き通すのを感じた。「自分と同じように悩んでいる人に、神様がこんなに愛してくれていることを伝えるのが自分の使命ではないか」こうして、少年は司祭の道を選び、終戦直後の荒れ果てた日本にきて、苦しむ人を助ける道を選んだのであった。

神父さんは繰り返し語っていた。「あの時、目分の犬が全身全霊を傾けて聞いてくれ、苦しんでいる私と共にいてくれました。その犬に自分の気持ちを全部話してしまうと、不思議と、自分は自分であっていいと思えるようになり、気持ちが楽になったのです。そして、勉強ができなくて悔しいのが自分だ、お母さんに成績表や先生からの手紙を渡さなければならないことを悲しんでいるのが自分だ、お父さんに叱られるのが怖い、それが自分だ、兄さんと比べられるといじけてしまう、それが自分だと、私はいつもは嫌いな自分をも、その時、何だかいとおしく受け入れられたのでした。そして子どもなりに、自分は自分であっていいと、アイデンティティ一(主体性)が確立したような気がします。私はその体験を通して、神様の愛とはどんなものかを知ったのてす」「愛とは全身全霊を傾けて聞くこと、受け入れることに尽きる、つまりその人と共に一致して存在すること、それが愛」これが神父さんの信条だった。(『出典不明』)

 どうかあなたの心の耳をオープンにして、すばらしい神の声を聴いてください。