289 真の喜びと笑いはここに

●聖書箇所[マタイの福音書16章13節一19節]

 今回は教会について学びましょう。世の中にはたくさんの団体がありますが、教会はそれらのものとどこがどういうふうに違うのでしょうか。

 敬虔な男の人が教会にやって来ました。日曜日ではなかったので、他にはだれもいませんでした。脆いてお祈りをしようとすると、神さまの声が聞こえたような気がしました。確かに聞こえました。 「人の前に出るのにも礼儀がある。まして私の前に出るにおいては当然である」。 「あ、神さま、大変失礼致しました。どうかお許しください。どこが行けなかったのか、お教え下さい」。「私の前に出るのに手ぶらではいけない」。「えっ」と彼は一瞬耳を疑いました。「神さまが、まさか、菓子折りを持って来いなんて!?」。「私が言うのは、こういうことだ。教会に来るのなら、隣人と手を携えながら、来なさい、ということだ」。

 教会とは何なのか、教えられるような話ではありませんか。そうです。教会は他の人とともにいて良いものを分かち合う場所です。それではそれは何なのか学んでいきましょう。

自由

 自由とはもちろん心の自由、精神の自由です。心と精神とが自由であるならば、ことばも行動も自由です。私は愛したいと思えば、愛する行動ができる。これは自由です。私は赦したいと思えば、赦す行動ができる。これも自由です。トルストイはこう言いました。『未来における愛というものはない。愛はただ現在における行動である」。確かに、そうですね。「愛!愛!」と叫んでも、叫ぶだけなら、「それがどうしたあ一!?」と言われるのが落ちです。言うことができ、それに行動を伴わせることができる、これが自由。なんとすばらしいものなのでしょうか。
 今回の聖書箇所はペテロが目立つ場面です。この記事は「ペテロのピリポ・カイザリアにおける告白」として有名です。ピリポ・カイザリアはガリラヤ湖の北40キロメートルにある特徴ある町です。どんな特徴だと思いますか。バアル(パレスチナの土着神)の教会が散在し、ギリシアの神々が祭られ、ローマ皇帝を神とする神殿がありました。どこかの国とよく似ていると思いませんか。そう、日本です。日本に限らず人々はこれらに縛られるものです。当時も人々はいろいろなしがらみの中にいました。しかしペテロはイエスさまの質間にこれらのしがらみから全く自由に答えるのです。
 13節から16節の会話に注目して下さい。ちなみに「人の子」とはイエスさま、そして人々はイエスさまを「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者だ」などとうわさしていました。ペテロの答えは16節。「あなたは、生ける神の御子キリストです」。ギリシア語では冒頭の語に一番の強調がありますので、そのニュアンスを生かして訳せば、「あなた」は「あなたこそ」です。これはイエスさまをいたく喜ばせました。あなたは人の目を恐れてはいませんか。人のことばを恐れてはいませんか。日本で教会をたてる場合に、場所としてはどのような所がいいかを調べた調査があります。あなたはどう思いますか。広い通りに面した所がいいと思いますか。いいえ、そうではありませんでした。路地裏がいいのです。なぜ?人目につかないから。『あなた、昨日教会に行ったの?」「いいえ」「でも教会の前にいたの、見たわよ」「ただ、通り掛かっただけよ」。こういう言い訳ができるのが路地裏です。人の目が恐いのです。これは不自由以外の何者でもありません。私たちが教会で分かち合い、楽しむことができるものは自由です。心の自由、精神の自由。なんとありがたい!さて、この自由を楽しむにはどのようにしたらいいのでしょうか。幼子のように心を父なる神さまの前に開くことです。
 あなたは止揚学園をご存知でしょうか。滋賀県にある施設で重度の知恵遅れの子どもたちがいます。鈴木君が寒い朝ににわとりに水をやっていました。職員が「感心!感心!」と後ろの方からそれを見ていました。ところがなんとその自ら湯気が立ち上っているではありませんか。「どうした?」と聞くと彼は「こんな寒い朝に冷たい水、かわいそう……」。お湯をやっていたのです。『にわとりはお湯は飲まないよ」『でも冷たくてかわいそう……」。大人には忘れられた素直な気持ちがここにあるのではないでしょうか。純粋な思いが。実際彼が世話をしないとにわとりは卵を産まないのです。にわとりとも心が通じる、と表現したら、聖書的には行き過ぎかも知れませんが、父なる神さまには届くのです。
 17節にはこうあります。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」父なる神さまの前に心を開く者はいつも自由なのです。

あたたかい交わり

 あたたかい交わりっていいですねえ。温泉みたい。ぼかぽか。教会は温泉のよう。ときどき湯舟から出て、からだを洗います。汚れを落とします。再び入っていい気分。お互い温まっている者同士、決してけんかはしないものです。人間関係が壊れる瞬間、それは内にあるいらいらが表に飛び出す瞬間。外にではなく、原因は内にあります。午前11時頃、そしてタ方にはデリケートな話はしないようにしましょう。なぜって、空腹だから。いらいらしてるでしょ。人間ってそんなものです。だから温泉が必要なのです。心の温泉は、と言えば、それはあたたかい交わり。互いに教会でそれを分かち合いましょう。17-19節では三位一体の神さまとペテロの交わりが見られます。父のメッセージをメッセンジャーであるイエスさまがペテロに運びました。ここには聖霊について触れてはいませんが、他の聖書箇所では人に真理を認識させる働きを聖霊さまがになっていらっしゃることが分かります。たとえばコリント人への手紙第一の12章3節など。ところでカトリック教会は18節を読み間違えました。ペテロと岩は同一ではありません。岩と、現在の聖書では正確に訳されていますが、これはペトラで、岩、あるいは岩盤の事です。それは交わりのことです。真の、すなわちあたたかい交わりの上に真の教会は存在します。建て上げられます。そしてあたたかい交わりこそが幸せの、真の喜びと笑いの素です。先日新聞でつぎのような子どもの詩を見ました。

 『しあわせ』

おかあさんはまえにレストランではたらいていました。
そのレストランでおとうさんはおかあさんに一目ぼれしちゃいました。
それからけっこんしきをあげわたしがうまれました。
いま、うちはとってもしあわせです

                          (浦和市・大久保東小1年)(『読売新聞』1999.12.30)

 なんと幸せな家庭に、つまり交わりの中にこの子どもはいるのでしょうか。あたかい交わりが私たちには必要です。教会でそれを分かち合うことができます。それには謙虚さが必要です。  謙虚さとは

 第一に、自分を義としないこと。
 自分を義とするとは、『私はいつも正しい」と思うことです。そのための三つの心構えを言いましょう。
 @私は罪人ですと認めましょう。「私には罪はない」と言ってはいけません。
 A『私は罪人のかしらです』と認めましょう。「私には確かに罪はあるけれども、あの人たちよりはましだ」とは思わないようにしましょう。
 B私の罪は赦されたと感謝しましょう。

 第二に、美しいのは足、と認めましょう。
 足は目立たないものの代表です。上半身は目立ちます。そして私たちはつい自分を目だたたせたいのです。イザヤ書52章7節をお読み下さい。こつこつ、そして縁の下の力持ちの価値を認めましょう。神さまがあなたを評価してくだされば十分ではありませんか。
 謙虚さのあるところ、あなたかい交わりがあります。

オーナーとしてのイエスさま

 18節で『私が私の教会を建てる」とイエスさまはおっしゃっています。人はだれも『私の教会」とは言えません。イエスさまがオーナーなのです。いわば株主です。経営者は株主の意向を無視してはいけません。株主の意向こそが権威のあり場所、出所です。19節にはユダヤ人の言い方ですが、そのことが言われています。「つなぐ」は禁止、『解く」は許可です。こうして教会の秩序は保たれます。天国の秩序は守られます。天国、そこには真の喜びと笑いがあります。教会は地上にある天国でなければなりません。私がオーナーである、私が一番偉いと言い出したときに教会から真の喜びと笑いは消えてしまいます。そのようなことがないためには私たちは自らの罪を認識しなければなりません。箴言24章17節に注目して下さい。私たち生まれながらの人間には「隣の不幸は鴨の味」という言い方がぴったりの気持ちがありますね。ねたみはここから生まれます。このような汚れた罪の中のいる者はハデスの中にいると言ってもいいでしょう。イエスさまをオーナーとして認めるとき、私たちはここから脱出することができます。そうです。罪への勝利こそ、真の暮びと笑いを産みます。イエスさまのあがないをもう一度心に刻みましょう。
 
 信濃の国に、今の長野県です、悪い殿様がいました。「働けない者は捨てられるべきだ」とおふれを出しました。どの家からも年寄りが山に捨てられる運命は始まったのです。とても親孝行な息子がいました。命令に従わずに、家の中に母親を隠しておきましたが、だんだん危険になって来ました。きっとそのうち見つかるに違いない、と恩う中、自分の命の心配もしていました。深い葛藤の末、山へ母親を捨てに家を出ました。母親を背負い、進む一歩一歩がとても重苦しいものでした。少しずつ道が険しくなるにつれ、その思いはさらに強くなって行きました。そんな中、ふと気がついたのは、ポキン、ポキンという音です。何だろう、と後ろを振り向くと母親が小枝を折っていたのです。母親はこう言いました。「お前がちゃんと迷わずに家に帰り着くことができるようになあ」。遂に彼は母親を捨てることができなくなり、家に連れ帰りました。この話を聞いた殿様は彼を許したとのことです。

 この話は神さまの持っておられる愛のご性質を私たちに伝えています。私たちは神さまの、そしてイエスさまの愛の深さを知るならば、私の、私の人生のそして教会のオーナーはイエスさまであると認めることは決して難しくはないでしょう。
 イエスさまをオーナーを認める所にはいつも真の喜びと笑いがあります。