290 復活について

聖書箇所[マルコの福音書16章8節]

 女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 マルコの福音書は女の人たちの驚きと沈黙で閉じられています。復活の場面は三人の女性たち、空っぽになった墓、天使たちによる復活宣言のみで実にシンプルな描写です。復活の主自身も登場いたしません。女性たちはイエスの十字架の場面に立会い(その場を離れなかった。男の弟子たちがことごとく去ったのとは対照的です)、葬りにも立ち会います。葬ること、すなわち葬儀は死者の尊厳を守る行為です。残された家族や友人たちが死者へ愛と尊敬とを表現する最後の機会です。当時は遺体に香油を塗ることはこのような礼儀の一部でした。しかし心は暗黒でした。当時の少なくない人々がイエスを解放者と考えていましたが、とても惨めな刑死を遂げました、しかも何の抵抗も示さずに。人々は失望と不安の中にいましたが、彼女たちもそのような人々の中にいました。暗い気持ちの中、それでも安息日明けの翌朝、マグダラのアリアほか二人の女性は墓に向かいます。そこで信じがたい出来事と宣言とを見聞きします。空になった墓とイエス復活です。

 今回は復活日を記念して大きく二つに分けてお話しましょう。

第一部       復活・おもしろ知識

1 イースターと呼びならわされていますが、英語から来ています。英語は古代各語から語彙を吸収して成立していますから、語源探しはおもしろいものがあります。さてイースターの語源はなんとイシュタロテ。士師記2章13節に登場する女神です。メソポタミヤ周辺では非常にポピュラーでイシュター、イシス、イシュタルなどとも言います。そこである人々はイースターという呼び名を止めるべきだと言います。これは確かに正論ではあります。ただし言語はその文化を背景に存在しますので、他の宗教が背景にあるからという理由で使用できないとなれば日本人は日本語を話せなくなるでしょう。なぜなら多数の仏教などの宗教用語が含まれているから。たとえばあなたの家に玄関があるでしょう。どうぞ玄関からおはいりください、と言うのは実は問題です。というのはこれは仏教用語で仏教の修行に入ることを意味するからです。また神という語も使用できません。本来はキリスト教の神を指す語ではありませんから。実質的に脱宗教的であれば問題はないと考えていいでしょう。復活(記念)日と単に表現するのも一つの方法です。

2 復活記念日の決め方

これは結論から言えば。325年に二ケア会議があり、時の皇帝コンスタンチヌスが「それにしよう!」と叫んだからです。当時の最高権力者がそのように決めたら従うしかありません。それとは、春分の日の直後の満月後の最初の日曜日です。日本のキリスト教はこの西方キリスト教の伝統を引き継いでいます。東方、すなわちギリシア正教などは別のカレンダーを設定しています。世界統一日にするのは現実には困難です。

3 十字架から復活の日へのスケジュール

 第一日目 イエスは金曜日の午後三時に死にました。この日は(金曜日)日没までです。・・・約3時間

 第二日目 (金曜日)日没以降にスタート。土曜日でありかつ安息日です。・・・24時間 

 第三日目 土曜日の日没からスタート。女性たちが夜明け前に墓に向かいますが、この時点ですでに日曜日に突入しています。・・・約12時間

 「三日目に復活」、あるいは「三日三晩」と言いますが、「足掛け三日」です。

第二部       復活、その意味

 それは神の力の現れ。私たち人間にはこれが必要です。小さいものには大きいものは入りません。これは常識です。人間という有限の存在に神という無限の存在が入れるはずがありません。しかしこの不可能なことが以前に起きました。いつ?イエス・キリストの誕生です。神が人となりました。これは非常識ではなく、超常識!死者は生き返りません。これも常識。しかしイエス・キリストは生き返りました。よみがえりました。これも超常識。神の力のなせるわざ!今あなたに神の力は下ります。時間軸でお話ししましょう。

1 過去ー過去の呪縛からの解放
 
 あなたは過去の呪縛から解放されます。私たちは過去のさまざまなものにコントロールされて生活しています。それも自分でも気がついていないものによって。たとえば日本で生まれ育って来た場合にはアニミズムの影響下にあります。すべての存在に霊的な命(神とも表現しうる)を持っていると見る考えです。針供養をご存知でしょう。針、それは単なる金属ですが、供養の必要を認めています。そろばん供養もあります。なぜ供養するのかと問われれば、祟られないためです。弔い上げまで、つまり49年にわたって続けてしないと死者に「うらめしやー」と言われ、あるいは祟られると考えているからです。もちろん全くの作り話です。このような考えは死者への冒涜以外の何ものでもありません。アニミズムにおいてもう一つの大きな特徴は「天にいます神」という概念の欠如です。神(々)は、先在ではなく、混沌とした世界から生まれて来る者です。つまり「神になる」のです。レストランではウエイトレスが「ランチになります」と言いながら運んできてくれます。「なった」のだから、受け入れるしかありません。コンビ二に行けば、「お釣りになります」と言われます。これも「なってしまった」のだから受け取るしか道はありません。受け入れるしかありません。もはや変更や改変の余地はありません。議論は存在しえません。とにかく「なってしまった」のだから。さらには性善説の影響も日本では大きいものがあります。仏教のほとんどと神道はこの考えを採用しています。人間はもともと清い存在だから、悪いことをしたとしても、本来のものではないので、出来心だし、背広のついたほこりのようなものでポンポンと叩けば消えてなくなると考えます。これを禊(みそぎ)といいます。性善説は他人に対して期待過剰になりやすい面を持っています。本来善なのだから、「それらしく反応、もしくは行動してくれるはずだ」とずうーと期待し続けます。でも期待は裏切られますね。そうではありませんか。他にもいろいろな考えや概念が私たちには染み込んでいます。ということはある悪い結果が出たとしても(これを出力と言います)、当然なのです。入れたもの(これを入力と言います)に相当したものが出力されただけであるからです。この連絡を断ち切らなければなりません。ある人たちは辛いことを経験すると、「私の運命はもともと悪いものです」と言って自分で勝手に納得します。常に否定的に事態を認識します。これも染み付いたものです。心の癖として染み付いています。このような連関をどのようにしたら断ち切ることができるのか。神の力によるのみです。

2 現在―人間性の回復

ドストエフスキーの生涯のテーマは「もし神が存在しないとしたら、人間はどれほど悪いことができるだろうか」というものです。現代、私たちの身近にそれを見るのは極めて簡単です。それはインターネットの世界。自殺の仕方、爆弾の製造の仕方などなどありとあらゆる悪い情報が溢れています。まさに無法地帯。神なき社会はこのようなものです。さて話を戻しましょう。彼の『悪霊』という作品には、「神がいなければ何をしても大丈夫だ」と書かれています。『白痴』では、イエスをこの世においては白痴以外の姿以外では描けませんでした。確かにイエスの十字架上の姿は惨めなものです。何の抵抗もせず、されるがまま。体は傷つけられ、血は流され放題。何の反論もせず、死んでいきます。そればかりか、正当な理由もなく、自分を殺そうとする人々のためにとりなしの祈りさえします。「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分からないのです」と。どうかこのように想像して見てください。あなたが布団の上で気持ちよく寝ています。物音で目を覚ますと、片手にあなたが貯めた百万円の札束、もう一方の手には包丁。あなたは犯人の顔を見てしまったのです。彼はあなたをいままさに刺し殺そうとしています。ここで質問。あなたはこう祈りますか?「父よ、彼を赦してください。彼は何をしているのか分からないのです」それとも?イエスが並外れた人間性を持ったお方であることが分かります。尋常ではありません。愛と赦しの究極のお方です。これは私たちの目標とする、また理想とする人間性です。これは努力では達成できません。ゆえに神の力の出番です。

罪の持つ圧倒的な力を打ち破る必要があるのです。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたはいまなお罪の中にいることになろう」(Tコリント15:17)

3 未来―希望

1)地上における希望

あなたには失望した経験がおありでしょう。日常の生活の中ではさまざまなことが起こるものです。それに私たちは面食らいます。耐えるには希望が必要です。希望がある限り生きることが出来ます。希望が完全になくなったら、人は死にます。生きていることはできません。よみがえられたイエスはあなたにいつも希望をくださいます。

2)天における希望

私たちの人生は地上におけるものだけではありません。死後にも人生は続きます。私たちのした正しいことや誠実さは必ず報われます。多くは地上において報われますが、一部はそうではありません。しかし心配しないでください。地上で報われなければ天においては余計報われます。楽しい生活があなたには待っています。この天国の生活をするためには新しい身体が必要です。虫の食わない、怪我をしない、病気もしない完璧な身体が。これを受けるためにも今の身体を捨てる必要があります。そのために死があります。死は罪に汚染された現在の身体を霊魂から切り離します。あなたは新しい身体とともに天国で生きます。

さて、最後に神の力を受け取り、かつ活用するためにはどのようにしたらいいでしょうか?答えは簡単!信じること。何を?今、あなたの中にイエスが生きていることを。信じればいいのです。レストランである料理を注文しました。ウエイトレスがそれを運んできてくれました。あなたの注文したものであると信じるなら、あなたは食べるという行動に何の抵抗もなく移れます。そしておいしい味を楽しめます。すべては信じることからスタートします。あなたの中に今生きておられるイエス、つまり甦られたイエスが力強く働くことを祈ります。