291 冒険をしてみませんか

聖書箇所[ヘブル人ヘの手紙11章]

信仰とは何でしょうか?11章6節には定義が述べられています。すなわち「神がおられること」と、「神は求める者には報いてくださる方であること」との二つを信じることです。前者だけでは信仰としては不足であり、悪霊でさえも信じています。後者がどうしても必要です。今回は後者に重心を置きます。そうすると私たちは冒険をすることができます。11章には信仰の冒険をした人が多数登場しますが、その中からアブラハムとモーセの場合を取り上げ参考にしましょう。

ちょっとだけ難しいテーマを用意する

 あなたにとってちょっとだけ難しいテーマを用意してください。夢、幻、目標などさまざまな呼び方がありますが、あなたの小さな希望を用意してください。ちょっとだけ難しい、というのがポイントです。あまりにも大きすぎたり、あきらかに不可能なことであるとすると、あなた自身が傷つきます。それはみこころではありません。

 ピーナツ博士

ピーナツバターという食べ物を食べたことがありますか。これは、ピーナツを妙ってすりつぶしぺースト状にした食品で、バターのようにパンに塗って食べると美味しいです。このピーナツバターを考案したのは、ジョージ・ワシントン・カーバー(1864〜1943)という農業科学者です。力一バーについて、こういう逸話が残されています。彼は自分の研究室を、「神の小さなワークショツプ」と呼んでいました。その研究室である日起こったことを、彼はこう書き残しています。彼は祈りの中で神にこう尋ねます。「創造主よ、宇宙はなんのために造られたのですか」すると神からの答がありました。「あなたの小さな頭脳に見合った質問をしなさい」そこで彼は再度質問をします。「人はなんのために造られたのですか」また神の答がありました。「小さき者よ。あなたの質問は大き過ぎる。質問の範囲をもっと狭め、焦点を絞ったものにしなさい」そこでカ一バーは質問の範囲を狭め、こう尋ねます。「では、創造主よ、ピーナツはなんのために造られたのですか」「それは良い質問だ」という答が返ってきました。それをきっかけに、ジョージ・ワシントン・カーバーは、当時安っぽくしか見られていなかったピーナツについて、300以上の使用法を発見するようになります。謙虚な質問が、大きな成功を生んだのです。(『クレイ』2005.5)

アブラハムはカルデヤ地方のウル(メソポタミヤ地方にある)から出立するようにと言われました(8)。生まれ故郷を離れるのは辛いことに違いありません。友人からも親類からも離れるのです。難しさがあることは否めません。モーセは当時のスーパーパワーであるエジプト王国の王子の立場を捨てて奴隷になりなさいというアイディアをいただきます。これまた難しいことですね(24-26)。しかし人生に与えられた、ちょっとした難しさが私たちを発奮させるのです。ピリピ人への手紙2章13節のおことばに聞いてください。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」

 ここでご注意!アブラハムやモーセに与えられたテーマは不可能なものではないと神さまは判断しておられることをお忘れにならないように。同じことをあなたにもしなさいと神さまがおっしゃっているのではありません。あなたの中で聖霊さまによるインスピレーションが働きます。あなたの中にさまざまなアイディアが飛び交います。どうかそれらの中からちょっとだけ難しそうなものを選んで冒険をしてみましょう。再度言いますが、あまり大きいものはけがをすることがありますので気をつけなければなりません。失敗をして自分を深く傷つけてしまうことがありますので気をつけなければなりません。

忍耐を学ぶ

 織田信長が持つ丸根砦に向かった徳川家康には次のような話が伝わっています。まだ若かった家康にとって一番大きな楽しみは、途中、16年ぶりに母親(伝通院夫人)に会えたことでした。文字通り涙の対面でしたが、その最中、家を囲む垣根の向こう側を大きな荷物をつんだ荷車をお百姓がひっばっているのに気づきました。車は重く、おまけに坂道でした。しばらくして、母親は言いました。「竹千代」と家康を幼い頃の名前でよびながら、次のように言うのでした。「竹千代(家康の幼名)、今のお百姓さんを見ましたか、どうやら牧道を登りきったようですね。よ一く覚えておきなさい。人の一生は重荷を負って遠い道をゆくようなものです。決してあせって急ぎすぎたりしてはいけません。あせらずたゆまず、困難に負けず、どんな苦しみものりこえれば、かならず楽しい日が来るものです」やさしい母親の言葉にうなづき、この教えを座右の座右の銘にしました。「人生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、あせらずたゆまず」。信長も秀吉も短期政権でしたが、彼は長期の安定政権を立てました。

 アブラハムはウルを出立をしたはいいが、即座に約束の土地を得られないばかりか、かえってよそ者として、うさんくさい目で見られました(9)。「神さまを信頼してやって来たのにー」と思いつつ、危険な環境の中でしばらくの聞過さなければなりませんでした。モーセはどうだったでしょうか。はじめの崇高な決意がそのまま彼の気に入るような結果を招いたでしょうか。同胞の為に働くと決意をしたのですが、その同胞から逆ねじを食らわされました。彼は自信を失い、ミデアンに逃亡・亡命せざるを得ませんでした(出エジプト記2:11-15)。40年です。なんと長い時間でしょう。忍耐の期閻でした。あなたもきっと忍耐をしなければいけない時があります。「あ一あ、40年も」とは思わないで下さい。旧約聖書においては実物教育がなされていたのです。40は完全数です。十分な、の意味です。モーセが砕かれる、すなわち神さまから十分に忍耐したとお墨付きをいただくのにこの程度の年数がかかったというのです。あなたの場合はきっともっともっと短いでしょう。でもこの忍耐があなたには必要です。忍耐している間に二つのことが起きています。一つは謙遜を学ばせられる。もう一つはあなたが寝ている間も不信を抱いている時にも神は働いているということ。あなたに必要な忍耐の期間が終れば、神さまは豊かに祝福します。そうは言っても待っている間、辛いには違いありません。さらには周りに目が移り、「あの人には祝福が早く来ているのに、私には遅い、なぜ?」と思います。でも神さまは不平等ではありません。不公正ではありません。不公平ではありません。

神さまはあなたを愛しておられることを忘れないでください。忍耐の末にあなたは勝利者となります(11:11,12)。ローマ人への手紙5章3-5節をお読み下さい。

信仰を育てる

 信仰は時間をかけて育てていただくものです。一朝一タに完成するものではありません。
 まずアブラハムの場合を考えてみましょう。3段階あると考えていいでしょう。神さまから子どもを授かるということばを、まず、いただきました。さて
(1)は不信。創世記17章17節をご覧下さい。アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」お分かりでしょう。信じることができなかったのです。注意したいのは「ひれ伏し」ているのにです。あなたは礼拝をしても、信じていないことがありますか。そうです。そういうこともありうるのです。でもいつまでも信じなかったわけではありません。やがて
(2)に進みます。それは『もしかすると・一・」。そして
(3)「信じる」。
 モーセの場合は。アブラハムとは違った進行をします。
(1)力強く信じました。「私はイスラエル人のメシアになる!」と叫びました。でも同胞に歓迎されないことを知って、
(2)段階へ進みます。それは不信とあきらめ。亡命の地ミデアンでそのような気持ちで過しました。
(3)段階で彼は神さまと戦います。『イスラエル人のために立ち上がりなさい」いやです」「立ち上がりなさい」「いやです」。あなたは神さまと戦ったことがありますか。不遜だとは思わないで下さい。神さまは私たちの親であり、親子の間に、すなわち子どもが親に反抗期があるのは全く自然なことです。ないのがむしろ不思議であって、困ったことです。真剣に生きる者には神さまと戦う時はあります。モーセはこうして立派な指導者として育てられて行きました。私たちはお互いに集まるのはなぜかを忘れてはいけません。弱いから互いに励ますのです。決して裁いてはいけません。「なぜ、信じないの!エッ?」などと言ってはいけません。人の信仰にはにはそれぞれ段階があります。その段階に従って冒険のレベルも違うのです。私たちは自分の段階、すなわちレベルを知って行動すべきです(ピリピ3:16)。

天国をいつも見る

 アブラハムもモーセも約束のものを手に入れませんでした(11:13)。なぜでしょう。旧約聖書の歴史は、あるいはイスラエル人の歴史は実物教育の時代です。荒野は私たちの人生の現場を、イスラエル人は私たち自身を表しています。さまざまな困難と戦いながら前進するのが人生です。その場合、決して忘れてはいけないのが、『私たちは旅行者(他国人、天幕生活者、旅人、寄留者)」(11:9,13)という意識です。私たちは今、電車に、バスに乗っています。そこは住むところではありません。ホテルに泊まってもそこも住むところではありません。帰るべきところがあります。神さまのもと、すなわち天国です。地上のものにこだわらないとき、私たちは大きな冒険をすることができます。でも私たちは実際の所、日々の現実の世界の動きを見ていると天国人として生きることの難しさを感じざるを得ません。それは目の前でいろいろと不平等と思えるようなことが多く起こるからです。

昔あった馬車の話をしましょう。せまい馬車の中でも、現在の列車や飛行機のように、一等二等三等と待遇が別れていて斜金も違っていました。あるとき、一等料金を支払って乗ったお客さんが不平を感じました。「高い料金を支払ったのに、いったいどこが違うんだ!?」しばらく走ると、スピードが落ちて来ました。御者が言いました。「すいませんが、三等のお客さま、降りてください」。坂道でした。ぶつぶつ言いながら三等のお客は下りました。さらに坂道がきつくなり、また御者が言いました。「今度は二等のお客さま、降りてください」。このときようやく一等のお客さんは安心しました。しかし納得が行かないのが二等のお客さんです。「これでは不平等だ!」。御者は平気を顔をして言いました。「恐れ入りますが三等のお客さま、馬車を押して下さい」。こうして、だれもが納得しました。

 私たちは短期間で、かつ狭い領域で、しかも悪い頭で物事を判断します。間違った結論を導き出します。神さまの統治なさる世界に不平等はありません。「地上の人生が、人生のすべて」と考えるから天国人として生きることができません。信仰とは、天国の時間も含めて、報いを追求するものです。もし地上で多くをもらってもそれらは朽ち果てるものです。天国における報いにこそ標準を合わせるべきです。

ある時、献身を決意する

 アブラハムは年寄り子イサクを焼くように言われました。モーセは王子の地位を捨てるように言われました。実に大きな決断が求められたものです。でも彼らは捨てました。これが良かったのです。なぜでしょうか。捨てる、と言いましてもゴミ箱に捨てるのではありません。神さまの御手に返すのです。ささげるのです。だから2倍、30倍、60倍、100倍になって戻って来ます。私たちは捨てるべきものは二つあります。一つは大事な大事な持ち物。お金や財産です。それらを偶像にしてはいけません。偶像はあなたをコントロールします。あなたの人生はあなたのものでしょう。偶像にコントロールされてもいいのでしょうか。ある人は人の目という偶像にコントロールされています。捨てて下さい。他人があなたをどのように見ようが構わないではありませんか。どのように評価しようがいいではありませんか。もし他人の助言に従って、失敗したとしてその人は責任を取ってくれるのですか。二つ目は罪です。隠している罪はありませんか。十字架の下に置いてください。これら二つを捨てるとあなたにはがぜん勇気が生まれて来ます。もう失うものはない、という意識があなたを勇者とします。大きな冒険へとあなたを誘います。あなたには今、強い、未来志向の信仰が生まれています。さあ、あなたは今、旅立ちます。神さまの豊かな祝福があなたにありますように。