292 エデンの園に帰ろう

●聖書箇所[創世記2,3章]

 エデンの園は神さまが私たち人間のために作ってくださった、理想の世界です。常に喜びがあり、幸せがありました。私たちが本来いるべき場所です。ところであなたは日々の生活において空しさやうつの気分にさいなまれることはありませんか。何が原因でしょうか。神さまとの関係のあり方に原因があります。エデン、それは楽しみの意味。私たちはエデンの園に帰らなければなりません。ところで創世記2章4-14節は、それ以前の創造物語の順序を一度ばらしてから、書上げたものです。そこには人間中心を明確にさせる意図が明らかです。しかし同時に神の前にへりくだることも必要です。2章7節では土(アーダーマ)から作られたので、人はアーダームとあります。これがへりくだるべき一つの根拠。二つ目はこの土の器に息を吹き込んでくださったのが神さまです。こうして人間は生きるものとなりました。神さまの支えがあってはじめて人は生きていることができるのです。でも動物のように魂(霊を持たないの意味)のみを持つものではなく、人聞だけがこのときに息を吹き込まれて霊を持つようにされました。ゆえに世界の生きるもの全部の中で礼拝をするのは人間だけです。霊は送信機であり、受信機です。神のほか、人間以外に霊を持つ存在はありません。つまり私たち人間は神さまによって特別扱いされたのです。でもへりくだらなければなりません。実際にはどのようにしたらいいのでしょうか。学びましょう。

感謝する

 いかがでしょうか。あなたは日頃から感謝を忘れないようにしていらっしゃいますか。ありがとう、の心です。2章8節以下には人がエデンの園に置かれたことと、そこで働くことが求められている(15)ことが分かりますね。その働きの実は9節に記されています。さて、不思議なことがあります。働けば報酬を期待できます。ところがここでは働く前に報酬が用意され、しかも16節ではいくら食べても良いとあります。なんという気前の良さ!ここに神さまの心の広さを見ることができます。どうか覚えてください。あなたが出勤します。でもそれには健康がすでに与えられていなければならない。でもすでに与えられている。なんとありがたいことでしょうか。家族が、友人が、そして信仰が与えられています。たくさん感謝したいものです。最高のプレゼントは何でしょうか。それはイエス・キリスト。あなたを愛し、いつも思い、苦しみをともに負ってくださるお方。どうか神さまの温かいまなざしを知ってください。あなたに向けられていますよ。先日新聞広告に『子どもが育つ魔法の言葉』という新刊の宣伝が載っていました。そこにはこう書いてありました。

          子は親の鏡

 けなされて育つと、子どもは人をけなすようになる
 とげとげした家庭で育つと、子どもは乱暴になる
 不安な気持ちで育てると、子どもは不安になる
 励ましてやれば、子どもは自信を持つようになる
 愛してやれば、子どもは愛することを学ぶ
 認めてやれば、子どもは自分が好きになる

 どうか神さまの温かいまなざしを知ってください。あなたに向けられています。それが分かると隣の人に向かうあなたの眼も心も暖かいものになります。良好な人間関係の中で私たちは幸せを感じます。多少のテクニックも紹介しましょうか。人間関係のカウンセラーはこう教えてくれます。あなたの周囲の人と二つのことをしましょうと。一つは5つの長所を発見する。二つ目はそれをことばで表現する。

従順である

 22章17節には「善悪を知る木」が登場します。これ以降名指しされていないので実際にどんな木なのか分かりません。3章3節では「園の中央にある木」と言われ、3章4節で悪魔は「それ」と呼んでいます。きっとどこかが他の木と違っていたんでしょう。さて「食べるな」と命令がされていましたが、ついに人間は食べてしまいました。これが有名な堕落物語。もし食べたら、「死んで死ぬ」、「死にに死ぬ」という直訳がいかに強い警告であったかを教えています。少なくともあたま(脳、知性、理屈などの意味)では「食べてはいけない、と理解しています」が、からだは「食べてしまいました」。こうして私たちの世界には病気と死が入って来ました。実はここに病気の原因と、それゆえにいやしの原理が隠されています。少し説明しましょう。心の中でもからだの中でもバランスが崩れていると(広い意味に於いて)病気です。心の中にも(霊的な意味で)筋肉があります。これは心の考えるパターンを作っています。簡単に言えば心のくせです。。指紋のようなものでだれも同じものを持ってはいません。きれいなものを見て、すなおに「あーら、きれい!」と言う人もいれば、「ふん、何よ!」と反応する人もいます。これは心のくせであり、心の筋肉によって動きます。からだにも筋肉があります。人間では276種類で500本。もし病気であればこれらの筋肉が正常な働きをしていません。筋肉が単体で異常かも知れないし、また連係プレーが正常ではないかも知れません。そこで病気から解放されるためには健康な、すなわちバランスの取れた心の発するメッセージをきちんとからだに伝達する必要があります。この役割を果たすのがことばです。マタイの福音書9章18節から26節には二つのいやしの記事が載っています。健康な心(健康な信仰)を表す印はそれぞれ「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」(18)、『お着物にさわることでもできれば、きっと直る」であり、いやしがからだに起きるためのことばはそれぞれ『娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」(22)、「「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」です。今回はこれ以上、いやしのテーマには触れませんが、伝えたかったのはことばの大切さです。しかしそれ以上に大切なのは従順な心。でも難しい!心がことばをコントロールします。

 2002年10目22日、オーストラリアのカカドウ国立公園で、その悲劇は起こりました。25歳のドイツ人女性観光客が、ワニに襲われて死亡したのです。調べによれば、ツアー客9人が川で夜間の遊泳を楽しんでいたそうです。岸からさほど遠くないところで泳いでいた時、その中のひとりが水中に引きずり込まれたといいます。知らせを聞いた国立公園の森林警備員4人が小型ボートで出動し、全長4.5mの巨大なワニを発見しました。射殺してみると、そのワニは被害者の腕をくわえていたといいます。その付近には、ほかにも数匹のワニの姿が確認されました。(1)「ワニに注意」という警告表示が少なくとも三つはありました。(2)ツアー参加者たちは、旅行会社のガイドからワニについての警告と1時問半に及ぶ安全指導を受けていました。(3)それでも彼らはその警告を無視して、夜間に川に入ったのです。警告を無視した代価は、あまりにも高くつきました。(『クレイ』2005.5)

 本来規則は何のためにあるものでしょうか。それは社会とその構成員との利益を守るためです。黒澤明監督の『七人の侍』で普段おとなしい島田勘兵衛は刀を抜き放ってこう言い放ちます。「元の列に戻れ!離れ家は三軒、部落は20軒、三軒のために20軒を犠牲にすることはできない。また、この部落を踏みにじられて離れ家の生きる道はない!戦とはそういうものだ。他人を守ってこそ自分も守れる。おのれのことばかり考えるやつは、おのれをも滅ぼすやつだ」

 ただし罪と弱さを持つ人間の作る規則には瑕疵もあり、間違いもあります。でも神さまのおことばでは、その規則は完全です。従いましょう。聖書をよく学び、聖書からのメッセージを聞きましょう。神さまはいつもあなたに対して良いことをしてくださいます。これを信じてください。あなたには確かに良いことが多く起きます。

寛容である

 あなたはいかがでしょうか。寛容の心をお持ちでしょうか。そのように行動する背景は何か、そのように言う事情は何か、など、相手のことを理解しようとする気持ちが大切です。短い言葉や少しの行動ですべてを、全体像を理解することは不可能です。たとえばあなたがさばかれたとしましょう。そのときには『この人にはきっと何か辛いことがあったに違いない」と考えるようにすることです。さて、造られた動物を見渡してもアダムの助けになるような存在は見当たりませんでした。そこで神さまは男(イーシュ)から女(イシャー)を造られました。私はよく冗談で、「女の人はお医者(イシャー)さんでなければいけません」と言います。その務めはあたたかさと明るさを提供すること。あたたかさこそが私たちの心をいやします。家族でも教会でもどこでも女性がその場をあたたかくし明るくします。これが寛容の心であり、源。

詩を一つ紹介しましょう。

  ただいま。

 がっこうからかえったとき、わたしがふざけて「おじゃまします。」っていったら、
 おかあさんが「あ、よそのこがきた。いらっしゃい。」といったので、
 わたしはなんだかきゅうにさびしいきもちになりました。
 だからわたしは「おじゃましました。」といってそとにでて、
 こんどは「ただいま。」といいました。
 そしたらおかあさんが、にこっとわらって「おかえりなさい。」といったので
 わたしはようやくほっとしました
               (全国小中学校作文コンクール文部大臣奨励賞1999年12月1日読売新聞)

 でもあたたかさは情緒であって欠点もあります。流されやすい、あるいは振れる振幅が大きい。その証拠に二人は誘惑に負けて禁断の木の実を食べてしまいました。3章1節以下をお読み下さい。イーシュは成人の男性を指します。男の子ではありません。ゆえに大人としての務めを果たさなければなりませんでした。それは理念、理性、ことば、ロゴスを使うこと、それによって情緒的な彼女の心の振れを止めなければなりませんでした。でも失敗しました(3:6)。ところでこのように両極端の性質を持った者たちを極めて身近に置いたのには理由があります。寛容を身に付けなさい、というメッセージ。身近な者同士はさばきやすいのです。そして私たちの生活は身近な者との生活です。アダムは地上に300万種と言われる生き物に名前をつけていきます。命名するとは支配する意味でもあります。でもイーシュとイシャは運命共同体を意味するペアになっています。運命共同体、それは自分を愛することはイコール他者を愛すること、他者を愛することはイコール自分を愛すること、の世界。

 ゆえに寛容な心を自分のものにするためにどんな心構えが必要かは自明です。それは、はじめに自分の存在と自分の生き方に誇りを持つようになること。もしこれがないと他者を認めたり、正しく評価したりすることが難しいのです。自分をけなし、馬鹿にしている人は他者に対して同様な態度を示します。人は自らが持っていないものを出すことはできません。神さまはあなたを愛して大切な一人子を提供してくださいました。あなたは愛されています。どうぞ自信を持ってください。それがあなたを寛容な者にしてくれます。寛容な人たちが作る社会は気持ちの良い世界のはずです。