293 真の礼拝

聖書箇所[ヨハネの福音書4章1-30節]

 あなたが日曜日に礼拝に出席なさり、『あ一、とても恵まれたなあ一。今日、来て、良かった!」という気持ちになれたら、それは真実の礼拝を経験なさったと言っていいでしょう。折角時間もお金もかけておでかけになったのですから、いつもいつもそういう礼拝を経験したいものですね。真の礼拝をイエスさまは23節と24節で「霊とまこと」の礼拝と呼んでいらっしゃいます。今回は礼拝について学びますが、真の礼拝においては、それなりの出来事が起きています。「あー、とても恵まれたなあ一。今日、来て、ほんとうに良かった!」と感じるのはそのためです。礼拝の場でどんなことが起きているのかそれを学びましょう。

悔い改め

 14節から19節において、一つのことばに注目しましょう。それは「水」。サマリヤの女は「水」を求めて井戸にやって来ました。そして目的を達成しました。でも同じ「水」でも意味が異なります。前者はH20、後者は霊の水。これは大きな転換です。目に見えるものから見えないものへ、物質から霊へ。この大きな、180度の転換をギリシア語ではメタノイアと言い、日本語では悔い改めと言います。私たちには悔い改めるが必要です。どういうことかと言いますと、私たちはある一定方向へと向いていて、それが良くない方向だなあと頭で分かっていても、転換できない性質あるいは弱さがあります。たとえばある人を憎んでいて、確かに憎んだままではいけないと思いつつ、赦すことができません。悪習慣を止めなければと思いつつ、そうはできません。個人的には次々に男性を代える性癖から彼女は逃れられません。またサマリヤ人とユダヤ人の間には憎しみがありました(*1)。それはもう長ーいこと続いていました。サマリヤの女もユダヤ人と出会わないようにと夕方に出かけていました。ユダヤ人であるイエスさまが近付いて来たときに本能的に身構えたでしょう。さて、すでにもう述べましたが、だれも憎む事が良いことだとは考えてはいないはずですが、そんなに簡単に転換はできるものではありません。「それは正しくないから、止めなさい!」と言われて、「はい、分かりました!止めます」と言えるでしょうか。いや、実行できるのでしょうか。あなたはどうお考えでしょうか。イエスさまがこの女の心を転換させました。不思議なことが起きました。聖霊さまのわざと言ったらいいのでしょう。礼拝が恵まれるものであるなら、このような悔い改めが起きます。ではどのようにして悔い改めは起きるのでしょうか。それは礼拝者が神さまのお声を聞くからです。もちろん霊の耳で、です。どんな声でしょうか。「私はあなたを愛しています」という声です。あなたが礼拝をなさるとき、「私はイエスさまに熱ーく愛されているんだ!」とお分かりになるでしょう。このとき、あなたには転換する、すなわち悔い改める勇気が生まれています。同時にパワーも与えられています。

 ドイツの神学者ボンへッファーはヒトラーが政権を取った二日後にはや批判するラジオ放送を流しました。しかしこれは大変危険なことでした。アメリカの友人たちが亡命を勧めました。彼はその助言に従いましたが、どうしても平安がありません。ついに帰国します。この方向転換は彼の信仰を聖め、彼の信仰と人生とに誇り、そして心に平安を与えました。

 ある婦人がいつもいつも思い煩っていました。実に具体的なことを思い煩っていると気付いた牧師先生が『さあ、私の両手にあなたの思い煩い事を乗せてください」と言いました。「どのようにしたらそれができますか」「ゼスチャーで、それをしてください」彼女は一瞬迷いましたが、その通りやって見ました。牧師先生は教会堂の窓を開けて、おおげさにほおり投げる動作をして、こう言いました。「さあ、あなたの思い煩いは捨ててしまいました。その代わりにあなたの中に信仰を入れてください。信仰とは『神さまは私に良いことをしてくださる』と信じることです」。神は実際にあなたのために一番良いことをしてくださいます。学者によると、私たちの思い煩っている事柄の95%は現実には起きないそうです。彼女は思い煩いが杞憂に終わって、にこにこして次の日曜目に顔を見せました。
 こういう詩があります。
 「不安がドアをノックした。信仰が出て見るとそこにはだれもいなかった。解決できない問題などない」

 すばらしい神を信頼して、あなたを真に祝福する方向へあなたが人生の舵を切るように祈ります。

霊の家族の愛し合い

 *1にあるようにユダヤ人とサマリヤ人とは本来兄弟、一つの家族です。でも本当の礼拝場所はエルサレムだ、ゲリジム山*2だと両者は正統を争っています。悲しいことではありますが、この争いは事実としてありましたし、今でもあります。でも真の礼拝を捧げるとき、このような争いはなくなります。というのは私たちは礼拝の中で隣に座っている人をいとおしく感じます。「この人は私のお兄さん、お姉さん、妹、弟!」と思うのです。私たちは決して一人では生きられません。孤独は大変辛いものです。1999年9月に長崎県で起きた母親による高校2年の実子殺害事件は驚くべきことでした。彼は小学校の卒業文集でこう書いています。「中学生、高校生になってからもいままでと同じように育ててください……お父さんが亡くなって(実は母親が、つまり彼の母親がすでに殺害していた。そして別の男が同居していた)から、お母さん一人で育ててもらいました。……いつも見守ってもらい……ありがとう」。「ありがとう」とは言うけれど、「もっと僕を愛して…」と言う彼の心の叫びが聞こえるようです。彼は孤独だったでしょう。孤独、それは私たち人間には耐えられないものです。霊の家族があれば、私たちは安心感をもらえるのではないでしょうか。私たちは同じ血液型を持っています。A型?B型?違います。キリスト型です。十字架から流れ出る血。同じ父から生まれました。あなたがキリスト型の血を持ち、かつそれを知るとき決して孤独を感じないでしょう。もちろんクリスチャンといえども罪人。ときに行き違いはあるでしょう。 アメリカでもっとも人種差別の激しかったバーミンガム。あらゆる場面で黒人は差別されていました。知事は公言します。「今日も隔離、明日も隔離。永遠に隔離。従わない黒人には暴力で従わせる」マルチン・ルーサー・キングは無暴力の抵抗運動を組織します。参加者には以下の内容に署名をさせました。「悪を行う人々を憎んではならない。毎日イエスさまについて黙想しなさい。愛をもって語り、歩き、味方と敵の双方に礼節をもって接しなさい。こぶし、舌、そして思いによる暴力を避けること」
 これがクリスチャン倫理です。神の家族の中で私たちはこれを互いに育みます。なんとすばらしいことでしょう。

天国人の意識

 本田弘慈先生がかつて、「私は博士号は要らない」とおっしゃっていました(その後、方向転換)。文化勲章を辞退される方もいらっしゃいます。分かるような気がします。私たちは人によって評価されても、それが十分に正確であるとか、考えられません。人には能力の限界があって、それが不十分かつ不正確な評価を誘います。ならば、神さまの出番を仰がなければなりません。そう言う意識が天国人の意識です。またこれは私たちが生きる上で大きな自信になります。「たとえ人が理解してくれなくても、神さまは理解を、そして正しく評価してくださる!」という思い。これは大切なものです。
 トマス・アクイナスは今日のローマカトリック教会の教義を整えた人です。でも小さいときには「のろまな牛」というあだ名をもらっていました。クラスの中の誰も彼が天才であることに気づいてはいませんでした。
 ジョン・ウェスレーはあるとき「あした、死ぬことが分かったら、どうしますか?」と尋ねられました。彼はこう答えました。「きのうと同じことをするだけで」。
 あなたならどのようにお答えになるでしょうか。彼には自分の生き方というものがあります。そうです。これが大事なのです。「これが私の生き方です!」と分かって、今日も生きる。なんという気持ちのいいものでしょうか。天国人はそのような生き方ができます。どうかあなたも天国人を生きてください。そのためにはあなたのルーツを知ることです。三位一体の神さまのど真ん中であなたは生を受けました。三位一体の神さまは互いに強く愛し合っておられます。御父、御子、聖霊の三位一体。互いに愛し合う中であなたは命を造られ、人生はデザインされました。今、あなたが帰るところは天国しかありません。この地上はやがて崩れ去ります。すべての目に見えるものはその姿形を失います。でもあなたとあなたが神さまの前でした良い行いはそのまま天国に蓄積されているのです。天国銀行における預金額が膨らむのを楽しむのが今のあなたの喜びです。実際の所、私たちの地上の歩みにおいては苦労があります。涙を流すときがあります。そういうときには祈れない、聖書も読めない、礼拝もできない、という状況さえあります。ユダヤのことわざを一つ紹介しましょう。
 『天国には、祈れなかったけれども泣いた、という人のために場所が用意されている」

感謝と賛美

 28節から30節では、自分の命とも言える水瓶をほおりだしてあかしをする、サマリヤの女の姿が描かれています。よほどうれしかったと見えます。彼女の中に確かに大きな変化が起きたのです。聞違いはありません。このようにあかしをするとき、あなたはイエスさまを大変身近に感じます。ぶつぶつ言うとイエスさまを感じません。むしろ追いやってしまう結果になります。エルビス・プレスビーをあなたはご存じの事と思います。名声と富を手に幸せなはずでした。でもそうではありませんでした。ますます彼の心は空しさでいっぱいになって行きました。そんな彼を慰めたのが、讃美歌でした。

 主よ。私を助けてもう一マイル行かせてください
 もう一マイルだけ一人で歩くのに疲れましたから
 主よ、私を助けてもう一度微笑ませてください
 もう一度だけ
 一人で微笑みを作り出すことはできませんから

 この歌を歌うとき、彼の顔にはなんとも言えぬ平安が浮かんだと言われます。神さまを賛美し、感謝をささげるとき、あなたにも平安が与えられ、それを味わうことができます。こういうことを経験させてくれるのが真の礼拝です。

*1*2■サマリヤじん〜人「サマリヤ人」という表現で一定の人または人々を指すことは困難であるが,だいたいにおいてその表現は次のような2種類の用途によって区別されることを念頭におくべきであろう.
 (1)サマリヤの町,またはその地域を中心とする(歴史的には北王国イスラエルの)地に住む人々.
 (2)エルサレム(南王国ユダ)に対抗する意識から生じ,歴史的にはユダヤ教の一派となったサマリヤ教団の信奉者.これらに加えて「良きサマリヤ人」という表現は、親切で善良な人を意味することも一般に知られている(参照ルカ10:33).サマリヤ人についての聖書の最初の記述はU列17章に記されている.サマリヤは北王国イスラエルの首都であるが,アッシリヤ王シャルマヌエセル5世によって包囲され,彼が急死した後,その子サルゴン2世によって陥落させられた(前722年).その時,サルゴンはイスラエルの指導者たちを自国のハラフ,ハボル,メディヤの町々に移住させた(U列17:6).これがいわゆるアツシリヤ捕囚であり,さらにバビロン,クテ,アワ,ハマテ,セファルワイムの町々から人を連れてきてサマリヤに住まわせた(U列17:24).この人々は,自分たちの宗教や神々もこの地に持ち込んだのであるが,結果的にはイスラエルの人々に偶像礼拝を強いることになり,イスラエル人は主への礼拝と偶像礼拝の二重礼拝を行うようになった(11列17:33).その後,雑婚も行われるようになった.一方,いまだ独立を保っていた南王国ユダの人々から見ると,サマリヤの人々は,宗教的にも人種的にも節度を欠いた行いをしていた.その後,ユダもバビロンによって滅ぼされ,おもに指導者たちはいわゆるバビロン捕囚を経験するようになった(前586年).70年の捕囚が終り,ゼルバベルを指揮官としての第1次帰還が実現した時,彼らはただちに工ルサレム神殿再建に取りかかった.この時,サマリヤ人も神殿再建に協力を申し出たが,ユダの人々は自分たちに託された使命感のゆえに(エズ4:1-3),またはサマリヤ人の信仰を自分たちのものとは異質なものと見なしたなどの理由によりこの申し出を拒否した.その結果,サマリヤ人は,エルサレム神殿に対抗して,モーセが祝福の山と言ったゲリジム山に(申11:29)神殿を築き,モーセ五書のみが正典であると定めた(サマリヤ五書).前2世紀にシリヤ王のアンティオコス・エピファネスがユダヤ教の根絶をはかった時,サマリヤ人は自分たちはユダヤ人と同族ではないと主張し,さらにこの暴君をなだめるためにジュピター神をゲリジム山に安置した.ハスモン朝の創始者であるヨハネ・ヒルカノスが勢力を得てきた時,彼は自分の信奉するユダヤ教の立場から,ヘレニズム化していたゲリジム山の神殿を嫌い,これを破壊した(前128年頃).この出来事以来,しだいにサマリヤ人とユダヤ人との間の交流がなくなった(参照ヨハ4:9).イエスも弟子たちにサマリヤの町に入らないようにと言い(マタ10:5-7),サマリヤ人がゲリジム山での礼拝を強調するのに反対した(参照ヨハ4:19-24).しかし,イェス御自身は,サマリヤの村々に入ることをいとわず(ルカ9:52),サマリヤの女とも親しく語られた(ヨハ4:7-42).またさらに,良きサマリヤ人のたとえ(ルカ10:25-37)や,いやされた70人のらい病人のうちサマリヤ人のみが感謝をするために戻ってきた話(ルカ17:11-19)などは,イェスのサマリヤ人に対する好感を示している.また復活後,イエスは弟子たちに,「エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,および地の果てにまで,わたしの証人となります」(使1:8)と言い,わざわざサマリヤの名をあげている.(『新聖書辞典』いのちのことば社)