294 使命の発見  

聖書箇所[マルコの福音書10章17ー31節]

私が一番の幸せを感じる瞬間があります。それは多くの本に囲まれて、コーヒーを飲む時。書斎と言ってもわずか五畳間。三方が本棚で天井まで届いています。まるで潜水艦の中みたい。同じコーヒーでもバニラナッツが最高。なぜか日本では見つけられない、少なくとも私の周囲では。そこで時々外国へ買い出しに行きます。これは余談。さて、こういう質問が来ます。本とコーヒーがあったらだれでも幸せか、と。ノーです。もっと本質的なものがあります。それを考えさせるお話をしましょう。
 バブルの頃、一人の天才証券マンがいました。よくできる男でした。やることなすことすべてが成功。だれからもうらやましがられる彼でした。給料もどんどん増えるので、豪華な家を購入、車も何台も揃え、買ったばかりの高級なヨットで友人たちとパーティ−を連日繰り広げ、華やかな毎日でした。しかし彼は突然職をほうり出しました。友人たちは驚き、とどめようとしました。「なぜ?こんなに恵まれているのに!」。彼は毎日の生活に嫌気がさしていました。「こんな生き方、俺の本来の生き方じゃあない、もっと別の生き方があるはずだ!」。彼は田舎に引きこもり、そこに小さな家を買って質素な生活を始めました。庭をいじり、近所を散策し、自然の中で自分を取り戻して行きました。「そうだ、これが俺の求めていた生き方だったんだーッ!」。そうして穏やかな日々が続いていましたが、あるとき車庫でステンドグラスを作りました。一つの趣味でした。それを近所の人が見つけ、ぜひ譲ってほしいと言います。「どうぞ、持って行ってください」という彼に「どうしてもお金を払いたい」と言い、置いて行きました。このステンドグラスが評判を呼び、多くの注文が舞い込むようになって行きました。従業員を雇い、生産会議を開きました。作業場を建て、会社組織にもしました。毎日が忙しく、気がついた時には以前と同じような生活のペースに戻っていました。再び彼は空しさを感じます。
 さあ、いったい何が問題でしょうか。それは、使命感の欠如。使命感とは「これこそが私のするべきことです」という意識。給料のあるなしは無関係。そして使命感を持って生きる人はいつも元気!幸せ!ここに一人の男性が登場します。

 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには私は何をしたらよいでしょうか。」(17)

 読み進んで行くと、彼は極めて真面目な人であることが分かります。一般に日本では真面目であることや一生懸命であることに大きな評価を与える傾向があるようです。でもどうなのでしょう、これって一番大事なことなのでしょうか。むしろ動機や目的こそが先に問われるべきではないでしょうか。簡単な例で説明すれば、盗むことに一生懸命に取り組んでくれても困りますね。彼は真面目に生きてきました。でも空しい。ストレスが溜まり、イライラ。

使命とは何か?

 これは神によって用意されるものです。ゆえに私たちは満足できます。理由は簡単!製作者の意図に従っているから。洗濯機の使命は?それは汚れたものをきれいにすること。電子レンジは?解凍したり、温めたりすること。もし電子レンジに汚れた衣類を入れて、「ちっともきれいになっていない」と叫んだらどうでしょう?ピントはずれです。神はあなたに命と人生をくださいました。しかし同時にそれを活かし輝かす道、すなわち使命も用意してくださっています。でも実際のところ、それは何? 謙虚に(無意識に?)尋ねた彼は偉い!

生きるに値する人生が、その舞台

 ある人が言いました。「プレーに値するゲームを見つけよ!」。確かにその通り。「こんなつまらないことして……」なんてブツブツ言いながらやっていても、まさにつまらない。「生きるに値する人生を見つけよ!」こういう言い方はいかがでしょうか。あなたの人生は生きるに値する人生ですか?もし「はい!」なら、その人生を舞台にあなたの使命は展開され、すばらしい収穫をあなたの人生にもたらすでしょう。今、彼はその入口に到達しつつあります。

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。(21)

 愛があらゆる良いものを産み出します。一人の妻がカウンセラーに訴えました。「私の夫は帰って来るなり、私に『家の中が片付いていない』と文句を言います。もし私をもっと愛してくれたら私はきっとやる気が出るはずです」。これは決して単なる言い訳ではありません。愛されると人は元気になるものです。イエスさまは愛のまなざしにより、彼を励まそうとしていらっしゃいます。

 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与え(井上注:これは他者を愛すること)なさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むこと(井上注:これは自分を愛すること)になります。」(21)

 彼の一番の関心事は自分です。「自分が戒めを守っていればいい、自分が違反をしていなければいい」といった姿勢です。彼には他者への思いやりという視点がありません。使命には他者への愛が要素として欠かせません。「神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛しなさい」(マタイ22:36−38他)という聖なる三角関係の中に使命は存在します。でもその愛をあなたはどこから手に入れますか。

 たった一個のパンを盗んで19年を獄中で過ごしたジャン・パルジャンは刑を終え社会に復帰します。しかし世間は甘くない。彼を暖かく迎え入れる人はいませんでした。そんな中で、ある日ミリエル神父のもとでひさしぶりに暖かいもてなしを受けます。ご馳走に舌鼓を打ち、やわらかなベッドの上に横たわります。ところがいざ眠ろうとしたときに目の前にはきれいな銀の燭台があるではありませんか。彼は少し悩みますが、自制心を失い、ひさしぷりに受けた愛を裏切り、盗んで逃げてしまいます。しぱらくして彼は警察に捕えられて帰ってきました。ところがなんとミリエル神父はそれは「私があげたものだ」とジャン・バルジャンをかばい、警察官を叱るのです。「ほら私が二つあげたんじゃない。どうして一つしか持っていかなかったの?」と言いながら残りのもう一つを差し出します。このとき、ジャンのかたくなな心が砕かれ、変わっていくのです。常識と理性を越えた先生の愛に、「キリストの愛とはこういうものなのか」と彼は悟ります。やがて彼は、成功を納め、のちに市長にまでなって行くのです。
 あなたを、そしてあなたの人生を活かそうと、なんとご自分のいのちを十字架の上で提供くださったイエス・キリストの中に本物の愛があります。イエスを信じるときあなたの中でその愛は生き始めます。イエスを心の中心に迎えるとき、愛はその実力を発揮し始めます。

イエスに聴くことからスタート

 具体的に「これが私の使命です」と分かると嬉しいですね。ちなみに私の使命は「良い教会」を作ることです。それは「信徒のための、信徒により運営される教会」。私の毎日はそのための環境作りです。あなたの使命は何でしょうか。どうかあなたを愛するイエスさまに直接尋ねてください。そのための第一の鍵は肯定的な思い。

 二人のお年寄りがベッドに並んで寝ていました。カウンセラーが声をかけました。一方はこう話しました。「私は億万長者と結婚しました。子どもはいなかったけれど、何不自由ない生活でした。多くの上流階級の方々と交際をしました。でも私の人生は失敗でした」。もう一方の方はこう話しました。「私はいまおだやかに人生を振りかえります。私は子どもがほしいとかつて願い、与えられました。私は最善を尽くして障害者である子どもを育てました。不自由な体であっても、無力であっても私の息子だ。私の人生は失敗ではない。もし私が育てなければ施設にいかなければならなっただろう。私は息子の人生を充実したものにした。私は満足している」

 現代のカウンセリング理論では非指示が主流です。つまりカウンセラーはクライエントに具体的な指示はしません、すなわち「このようにしなさい」とは言いません。ところがイエスさまは指示なさいます。

 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。・・・・・・そのうえで、わたしについて来なさい。」(21)

 肯定的なあなたには具体的に「これをしなさい」と示して下さるでしょう。何が示されるか、楽しみですね。もう一つの鍵は、真に自分を喜ばせるものは神が用意した状況、タレント、チャンスを土台にしていると知ること。真に自分が喜ぶことが出来れば、他者を愛し続けることが可能です。それはまた神が望むところです。具体的には、それは若いお母さんであれば育児であったり、お父さんであれば、しっかり働いて優れた製品を日常の生活現場と世界に提供しつつ、家庭に平和と笑い声をもたらしたりすることです。なあーんだ、そんなことか!「小さなこと」ですね、でも「忠実であれ」(ルカ19:17他)、それは使命の世界にも言えることです。あなたの人生に祝福をお祈りいたします。