295 愛の成長

[エペソ人への手紙5章1−2節]

私たちに毎日必要なことの一つは食事をすること。力が生じます。心と霊にも胃袋があり、それを満たすものが愛です。愛こそが生きる原動力、また人間性の成長を引き出します。今回は愛について学びましょう。

愛の種類

 (愛に深い関心のあったギリシア人のおかげで)たくさんありますので、今回は代表的な以下の三つ(いずれもギリシア語で名詞)にとどめましょう。

1 エロス

 聖書には登場しない語ですが、内容的には存在します。本能的なものであって、性欲、性愛などと訳します。心や体が求める!というふうに無条件で欲するものです。

 

2 フィリア

親子など家族間や友人間にある心情的なものです。「好き」という表現が一番近いでしょう。反対は「嫌い」。茄子が嫌い、にんじんが嫌いといったような、理屈ではないレベル。とにかく「好き」なのです。

3 アガペー

 相手に何の条件もつけずに犠牲を払います。母親の愛が多分一番似ています。わが子の命を救うために自分の命を捨てるというような。愛としては最高峰であり、神の愛です。

互いの関係

 「低次元のものであるエロスやフィリアを捨てて、アガペーだけを得なさい」という考え方は間違っています。ゴータマ・シッダールタ(紀元前6−5世紀)は釈迦族に生まれ、29歳で出家、苦行して35歳で悟りを開き、ここで仏陀となった。「無我の境地に立て」と言い、そのために「性欲を抑えよ!男女の交わりは良くない!」と説きました。中国の僧天台・智ぎはそれゆえに女性を「糞尿の塊」と言いました。聖書の教える正しい解答は「聖められよ!」です。エロスもフィリアも聖められるべきものであって、捨てられるべきではありません。ともに正しい関係の中で育めば聖められます。その正しい関係とは結婚関係であり、家族の中の正しい秩序です。たとえばエペソ人への手紙5−6章を参照してください。育みつつ、アガペーという最高の愛を目指すことが肝要です。

神からのチャレンジ

 このように考えていくと、これは神からの私たちへのチャレンジと言えます。罪に汚染された人間へのイエスさまからの教えはマタイの福音書5章43−48節で端的に示されています。そこでは、自分を愛してくれる者を愛した(これはフィリア)からといっても何の功績にもならない。「敵を愛せよ」と教えます。これは難しい!大変難しい!生まれながらの人間性にとって無理難題。

 能*『羽衣』には、人間の姿が、天女の涙で描かれている。

 ここは、駿河国、三保の松原。波が静かに打ち寄せる浜辺に、緑の松林が続いている。すがすがしい朝日を浴びて、地元の漁師、白竜が砂浜を歩いていた。すると、どこからともなくよい香りが漂ってきた。松の枝に、美しい衣がかけられているではないか。「おお、これは素晴らしい」手にとつて、持ち帰ろうとすると、木の陰から一人の女性が現れた。「待ってください。それは私の衣です」「何を言うか。拾った俺の物さ。家の宝にするんだ」「それは天人の羽衣です。人間には必要のない物です。お返しください」「ほう、そんな珍しい物ならば、なおさら返すことはできないよ」「なんて悲しいことを、言われるのですか。羽衣がなければ、私は、空を飛べません。天上界に帰ることもできないのです。どうか、お願いですから、返してください。」「いやだ!」白竜は突っぱねた。天女は泣くばかりである。しかし、悲しみに打ち震える姿が、あまりにも痛ましく、白竜は、次第に、かわいそうになってきた。「では、天人の舞を見せてくれれば、衣を返してやってもいいが、どうだ」「たやすいことです。舞をお見せしましょう。そのためには、まず、衣を返していただかないと・・・」「まてまて、この衣を返したら、舞を見せずに、そのまま天に昇ってしまうつもりだろう」天女は、静かに答えた、「いいえ、疑いは人間界にしかありません。私たちの天上界には、うそ偽りというものはないのです」「いや、これは恥ずかしい・・・」白竜から羽衣を受け取った天女は、美しい曲を奏でながら、舞を披露し、歌いながら、天へ帰っていくのであった。
 能『羽衣』は、室町時化の世阿弥の作である。白竜は、他人の物を奪おうとし、さんざん天女を悲しませているのに自分の姿が見えていない。そのうえ、うそをつくのではないかと他人の指摘までしている。そんな白分を非難することなく、「うそ偽りは人問界にしかないのですよ」と優しく語りかける天女:。白竜は、その言葉に、我が身の醜い姿が照らしだされて、「恥ずかしい」と叫ばずにはおれなかった。

    *能は日本の古典芸能の一種で、囃子(はやし)に合わせて演じる歌舞劇。
    *世阿弥(1363−1443)能の大成者。                                         (木村耕一『こころの朝』一万年堂出版)

 私たちは罪を持ち、ゆえにその人間性は汚染されています。もし人間性を成長させようとするなら、神の助けを受けてこのチャレンジに応答すべきです。

最高の愛アガペーの魅力

1 命令されない、自発的である

 もしあなたが他者から命令されないで自発的にするなら、あなたは二つのすばらしい恵みを受けます。一つは、世界でたった一人の存在という意識。そしてもう一つはそれゆえに生まれる自分の人生への誇り。両親に捨てられた助産婦のミスで失明したテノール歌手新垣勉はこう言います。「だれにでも、その人ならではの持ち味や輝きがある。ナンバーワンにならなくていい。オンリーワンの人生を大切に生きよう」あなたはあなたの人生に誇りを持っていますか。他人のあら捜しをするのは、自分の人生に誇りを持っていない人です。

2 計算がなく、純粋に与える

 祝福を多く受けている人は多く与えている人です。なぜ?この世界には「与える者は受ける」という法則があるから。神の発明であり、この世界で普遍的な法則です。

       あんパンの元祖・木村安兵衛

  「相手の立場に立つこと」が最も重要

    ▽日本人に合ったパンを開発

 明治維新は、多くの武士を失業に追い込んだ。日本で最初にパン屋を開いた木村安兵衡も、その一人であった。五十二歳でのリストラは大きな痛手だった。家族を養うには仕事を見つけねばならない。東京には、元武士の就職を斡旋する「職業訓練所」ができていた。安兵衡は、この訓練所で、初めて西洋人の主食"パン"と出会う。パン職人と語り合ううちに、「これから、日本にも広まるに違いない」と確信した安兵衛は、パン屋を開業する決意をする。また、元武士のプライドからいっても、今さら町人に雇われるより、新たな道を切り開きたいという気持ちが強かった。妻と息子・英三郎の協力を得て、パン作りを、一から学び始めたのである。明治二年、苦労の末に、東京に「文英堂」をオープンさせる。しかし、パンは、まったく売れなかった。いくら文明開化といっても、米を食べ続けてきた日本人には、まだ、なじめない味であったのだ。西洋のパンに劣らぬものを作りたいというのは、あくまで白分の願望である.。珍しいというだけで、客が喜んで買ってくれるとは限らないのだ。安兵衛は、白分の立場ばかり優先して、相手の、立場に立つことを忘れていたのであった。その後、火災で店は全.焼する。不幸に見舞われたが、志を捨てなかった。店名を「木村屋」と改め、日本人に合ったパンの研究を続けていくのである。安兵衛、英三郎父子は、饅頭からヒントを得て、パンにあんを人れてみた。しかし、うまく焼き上がらない。そこで、西洋式にビール用の酵母を使うのをやめ、日本酒の酵母で焼いてみると、ふっくらとした"あんパン"ができ上がったのである。この和洋折衷のあんパンは、爆発的な人気を博した。木村屋のあんパンに惚れ込んだ元幕臣の山岡鉄舟や、"街道一の大親分〃清水次郎長などが宣伝に一役かい、やがて日本全国へ、広がっていった五十歳を過ぎてからの、ゼロからの挑戦は、新商品の開発によって大成功を収めたのであった。「情熱」が勝因であるのは当然だ。しかし「相手の立場に立つこと」がもっと重要であることを物語っている。

   *木村安兵衡(1817―1889)                                             (木村耕一『こころの朝』一万年堂出版)

3 創造的である

 なぜ、そう言えるのでしょうか。あなたが愛を行うとき、あなたの中の新しくなっています。罪とその汚れを克服したあなたがそこにいます。アガペーの愛をうちに働かせているとき、だれでも新しくされています。

どうしたら、愛において成長できるのでしょうか?

 二つのことを申し上げましょう。

1 感謝の心を持つこと。
 愛する勇気があなたの中に湧いてきます。反対にぶつぶつばかり言っていると、愛する力は消滅して行きます。ある人が言いました。かんしゃくの く の字を捨てて、ただ、かんしゃ。

2 実践すること。
 何でもそうですが、使わないでいると衰えます。筋肉と同じです。あなたがイエスさまを心に受け入れたときに、アガペーは生まれました。存在を始めました。しかし所有していることと、それを使用することとは異なります。

一万円を持っていても使用しないのであれば、一万円の価値はありません。

  使わないお金なら石と同じ

    金塊を盗まれた男

 全財産を金塊に換え、人坐離れた所に埋めた男がいた。しかし、盗まれていないだろうか、と、不安でならない。結局、彼は、こつそり通って掘り返し、無事を確認するのが日課になっていた。その行動に不審を抱いた近所の悪党が、男の後をつけて秘密を知ってしまったのである。次の日、いつものようにやってきた男は、卒倒せんばかりに驚いた。隠し場所が暴かれ、すべての金塊が盗まれているではないか。彼は、髪の毛をかきむしり、「もう、生きる希望もない」と、いつまでも悲嘆に暮れている。ある人が、言った。「そんなに悲しむのはよしなさい。あなたは、実際は、お金を持っていなかったのと同じなのですから・・・お金は、使うためにあるのです。お金があった時も、使わずにしまっておいたじゃないですか。使わない金塊なら石と同じです。同じ場所に石を埋めて、金だと思ってはどうですか」「お金は、何のためにあるのか」と問いかけている話である。                      (木村耕一『こころの朝』一万年堂出版)

 愛も同様です。実践してみてはじめて上手にもなります。この世において完璧にアガペーを身に着けた者はイエスさまのみ。私たちは実践して成長します。