299 種まきのたとえ

 聖書箇所 [マタイの福音書13章1ー23節]

 D・L・ムーディ (1837〜99年)は、元は靴職人(欧米では軽蔑された)でしたが、やがてアメリ力を代表する大衆伝道者となりました(基礎教育を十分に受けていなかったので英語も普通ではありませんでしたが、人格と信仰のゆえに大変尊敬されました)。その彼が、こう言っています。

 「俺にとって、ムーディを信じるより、聖書を信じる事の方が簡単さ。だってムーディは、俺を何度も裏切ってきたんだ。」

 ムーディにはこのような逸話が残されています。まだ靴屋の丁稚奉公をしていたとき、丁稚奉公の身ですから、給金もわずか、食べていくのがやっとの生活でした。でも教会には熱心に通っていました。ある日の礼拝、メッセージを聞いて神の臨在に打たれ、大変な感動を覚えました。献金の時間、係の人が献金の袋を持って回って来ました。僕も献金しなきゃ、とポケットに手を入れましたが、お金はありません。少し悩んでいるうちに一つのアイディアが閃きました。紙切れにを何やら書きました。神さまに僕のすべてをささげよう、という思いで「D.L.ムーディ」と書き、にこにこしながらその紙切れを献金袋に入れました。

 その日聞いたみことばは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として自分自身をささげなさい」(ローマ12:1)というものでした。彼を動かしたのは、みことばでした。ムーディーはこうも言います。

 「聖書は、疲れたときの寝床、闇の灯火、働くときの道具、賛美する時の楽器です。無知な私の師となり、足を踏み外すときの支えの岩」

 聖書の魅力はなんと言っても、私たちの人生に、しかも日常の実際的な場面において祝福を運んで来ることにあるでしょう。どのようにしたらあずかることができるのか、それを教えているのがこの「種まきのたとえ」です。まず簡単に背景を学びましょう。

 福音書はその3分の1がたとえで書かれています。福音書はイエス・キリストについて書かれた書物ですから、したがってたとえを理解しないと福音書を理解したとは言えないでしょう。13章1、2節に注目して下さい。湖とはもちろんガリラヤ湖です。多くの場合そうですが、この湖の周囲にも一周する道路がありました。それは踏み固められた道路で4節のイエスさまのおことばを、足下の道路を見つつ、人々は聞き入っていたことでしょう。確かに「道ばた」に種が落ちても芽を出すわけがありません。また見回せば容易に岩の土地(5)を視野に入れることができましたし、茨の土地(7)も、肥沃な土地(8)も同様です。ユダヤ人の住む生活環境を舞台に、まさに日常を舞台にイエスさまのたとえは語られます。当時、種のまき方には二通りありました。一つは農夫自身が種の入った袋を持ち、手で蒔いて行きます。もう一つはロバに背に袋を乗せ、畑を歩かせ蒔く方法です。疲れないのは後者ですが、コントロールが難しく、道端や茨の中に蒔いてしまうことも少なくありませんでした。

心を開く(4、19)

 この章はイエスさまの伝道における大きな転換期を示しています。それまでは会堂で教えておられましたが、その革命的な教えのゆえに、また人々の心を掴んだがゆえに、当時の指導層のねたみを惹起し(やがてはねたみにより十字架で殺される)、会堂では説教できなくなります。ちょうどこの時期です。野山や、ここでは船が講壇です。イエスさまの柔軟性を見てとることができます。柔軟性こそ心の開かれているさまです。心を閉ざすにはいくつかの原因があります。

 1)偏見。色眼鏡です。黄色のサングラスをかければすべてが黄色く見えます。「これは赤ですよ」と言われても決して理解できません。女権拡張論者が元気だった頃、「妻は夫に従いなさい」(エペソ5:24)というみことばが槍玉にあげられました。夫は愛する(エペソ5:25)だけでいいのに、不平等、不公平だと言うのですが、これも偏見です。愛することは命を捨てること(ヨハネ15:13)だというのが聖書の教えです。いったいどちらが難しいことなのでしょうか。

 2)プライド。学ぶ必要性を認めない態度です。

 3)未知との遭遇。未知の世界に足を踏み入れるには勇気が要ります。何に出くわすか分からないし、当然対処法を持ち合わせていないからです。信仰に入るにも勇気が要ります。

 道端とは心が閉じていることを指しています。もし心を開くならあなたは大きな夢を持つことが出来るようになります。アブラハムがそうでした。異教の世界にどっぷりと浸かっていましたが、みことばを戴いて勇気が生まれました。(創世記12:1−3)新しい世界へと進み出ました。星が砂がいままでとは違って見えました(創世記15:5)。そして彼の夢は実現しました。勇気を持って心を開くものには祝福が与えられます。

センスを働かせる([5-6,20-21]

 「あなたは良いセンサーであれ!」と言い換えてもいいでしょう。さて、岩地とは小石がごろごろ転がっている地ではありません。パレスチナによくある地ですが、石灰岩層の上に10センチほどの土が薄くかぶっている土地です。太陽熱がよく届くので発芽は速いのですが、根を伸ばすことが出来ないので養分も水分も摂取できずにすぐに枯れます。何をたとえているのでしょうか。よく考えない。熟慮せずに行動を起こすことを言っています。人間には二つのセンサーが備わっています。
 1)理性・知性 よーく考えなければなりません。なぜここにいるのだろうか、なぜこれをしているのだろうか?などなど。軽率な判断や行動は祝福を招きません。まして大切な人生であるならばじっくりと考えて、特に方向などは決定すべきです。
 2)直感。インスピレーションです。これはすばらしい。なんと言っても馬力があります。莫大なエネルギーがあります。私は今から25年前に大宮駅前で路傍伝道をして勝利教会をスタートできました。聖なるインスピレーションの成果でした。それまでは未知の街、人々、そして文化。すべては無謀に思えましたが、以降大変祝福されています。
 エジソンは成功の秘訣を1%のインスピレーションと9%のパースピレーション(汗を流すこと、努力)であると言いましたが、二つのセンサー、すなわち理性と直感との絶妙のバランスの上に成功はあります。これら二つが不断の努力をさせるようにするからです。信仰的な努力とはこれです。努力しないで良い結果は生じません。ただし、聖霊にその絶妙のバランスとも言うべきものを導いていただくべきです。ハンナは願い事を心に秘め、祈っていました。祭司エリは酔っ払っていると誤解しました。酔っていると思わせるほどの、聖なるインスピレーション。しかし誤解を受けた時の受け答えは極めて理性的。祈りが応えられるのは当然です。

集中する[7,22]

 茨の地とはみかけだおしの地です。表面上は良い地に見えますが、根株はしっかりと残っているし、雑草も生命力旺盛で、本来育ってほしい植物は育ちません。聖書では茨とは特定の植物を指すわけではなく、要するに役立たずの迷惑しごくの植物の総称です。祝福を勝ち取ろうとするならば何事にも焦点を絞るべきです。あれもこれも手を出して力を分散させてはいけません。ビジネスの世界で「選択と集中」、軍事の世界で「兵力の集中」と言います。人生には優先順位というものがあります。それを無節操に崩してしまってはいけません。何が優先順位第一か、第二か、わきまえていなければなりません。そうでないと徒労に終わる可能性は高いのです。

 さて結論です。良い地に落ちることが種(みことば)の運命を決します。良い地(心)は心を開き、センスをよく働かせ、集中する心です。しかしこの心を持つことが難しい、ある人たちにとっては。ゆえにこれは奥義(ミステーリオン。英語ミステリーの語源)です。理解する人もいれば、理解しない人もいます。11節を見てください。あなたはいかがでしょうか。たとえ話を真に理解するには謙遜さが求められます。