302 マスターのわざ

聖書箇所[サムエル記第一 1-2章]

 日本は転換期にあると言われております。経済の分野のみならず、従来の社会システムそのものがもはや有効ではないと識者たちは見ています。しかし転換期は新たな成長のスタート地点でもあります。ただし悩みが伴います。成長の各段階で悩むのです。そこで今回は転換期に生きた一人の女性ハンナを題材に、ご一緒にどう対処したらいいのかを学びましょう。確実にあなたがあなたのマスター(創造主)によって成長させていただき、かつ祝福していただくために。サムエル記第一の1章を見ますと、イスラエルは人々がシロ(3)にあった神殿で礼拝する時代へと入っていたことが分かります。士師(その都度必要に応じて登場するパートタイムリーダー)の時代は終末を迎え、ちょうど転換期と言えます。4章では宿敵ペリシテ人が神殿を破壊し、神の箱は奪われ、イスラエルは混乱の最中にありました。このときに登場した指導者がサムエルであり、ハンナの息子でした。ハンナは1章2節を見て分かりますが、先に名前が出て来るので第一の妻であると分かります。第二の妻はもちろんぺニンナ。ハンナには子どもがいなく、これが彼女の大きな悩みでしたが、彼女はマスター(創造主)から成長と祝福をいただきました。三つのキーワードで学びましょう。

きっかけとしての悩み

 あなたはこうお考えではないでしょうか?「どうして私には悩みが尽きないのか?」答えをすぐに言いましょう。神さまはあなたに大きな祝福を与えようとお考えだから。1章4,5節をご覧ください。ささげられた全焼のいけにえを、目本語訳では「一人一人にそれぞれ分相応に分け与えた」というふうな意味がとれますが、ヘブル語では『ハンナは不妊だったので、特別に多く分け与えられた」と読むことができます。あなたは悩むとき、神さまがあなたを愛して特別に祝福しようとお考えなのだと知ってください。それにしてもハンナの悲しみや悩みは相当のものであったことは想像に難くありません。きっと毎朝、ペニンナが彼女の子どもたちに向けて叫ぶ、こんな光景が繰り広げられたでしょう。『さあ、みんな、起きなさい、いったいいつまで寝ているのーー!」。彼女にはそれほどの悪意はなかったかも知れません。でもハンナの心は深ーく傷付きました。しかしこんな悩みも悪いことばかりではありません。

 あるペットショップの店頭に、『子犬セール中」の札がかけられました。子犬と聞くと、子どもはたいそう心をそそられるものです。しばらくすると案の定、男の子が店に入ってきました。『おじさん、子犬っていくらするの?」『そうだな。30ドルから50ドルってところだね」。男の子は、ポケットから小銭をとり出して言いました。「ぼく、2ドルと37セントしかないんだ。でも見せてくれる?」店のオーナーは思わずほほ笑むと、奥に向かってピーツと口笛を吹きました。すると、毛がフカフカで丸々と太った子犬が五匹、店主の後をころがるように出てきたのです。ところが一匹だけ、足を引きずりながら、一生懸命ついて来る子犬がいるではありませんか。『おじさん、あの子犬はどうしたの?」と男の子は聞きました。「獣医さんに見てもらったら、生まれつき足が悪くて、たぶん一生治らないって言われたんだよ」と店のオーナーは答えました。ところがそれを聞いた男の子の顔が輝き始めたのです。「ぼく、この子犬がいい。この子犬をちょうだいー」。「坊や、よしたほうがいいよ。そりゃあ、もしどうしてもこの犬がほしいって言うなら、ただであげるよ。どうせ売れるわけないから」と店のオーナーが言うと、男の子は怒ったようににらみつけました。「ただでなんかいらないよ。おじさん、この犬のどこがほかの犬と違うって言うの?ほかの犬と同じ値段で買うよ。今2ドル37セントはらって、のこりは毎月50セントずつはらうから」。その言葉をさえぎるように、店のオーナーは言いました。「だって、この子犬は普通の犬みたいに走ったリジャンプしたりできないから、坊やと一緒に遊べないんだよ」。これを聞くと、男の子は黙ってズボンのすそをまくり上げました。ねじれたように曲がった左足には、大きな金属製のギプスがはめられていました。男の子は、オーナーを見上げて優しい声で言いました。「きっとこの子犬は、自分の気持ちがわかってくれる友だちがほしいと思うんだ」(『心のチキンスープ』1)

 この話から得られる一つのヒントは心と心の会話の重要性。気持ちと気持ちの交歓の重要性。私たちクリスチャンには神との会話・交歓である祈りというすばらしい武器があります。一生懸命に祈りましょう。祈ることによってすべての悩みは成長と祝福を得ていくためのきっかけとなります。1章9-11節をお読みください。彼女の熱心さが伝わって来ますね。「万軍の主』と呼び掛けています。これは彼女のオリジナルです。このような意味がきっと込められているでしょう。軍隊にはたくさんの兵士がいます。また神さまに従う天使の数も多い。ならば数人の子ども、いや、たった一人くらいいとも簡単にくださってもいいではありませんか、とこういう気持ちでしょうか。彼女の熱心さは祭司エリを誤解させるほどの(14)ものでした。そうです。真の祈りは当りかまわず、です。周囲の目など構ってはいられないのです。結果どうなったでしょうか。18節の後半をご覧ください。彼女は祈りが聞かれる確信を得たのです。食事が咽を通るようになり(1:7と比較)、顔は輝きました。どうかあなたも祈ってください。一生懸命に、熱意を持って。確信を得るために。確信を得たら、あなたの祈りはもうすでに聞かれたのです。彼女はやがて子どもを産みました。

楽しみ

 あなたはこうお考えではないでしょうか?「どうして私は物事を楽しむことができないのか?」実は私も以前そうでした。目の前に楽しいことがあるのに、ついこう考えてしまうのです。「いつまでもこれが続くはずがない!」。楽しむ、とは今を楽しむことです。今を楽しめなかったらいつ楽しめるのでしょうか。楽しみを冷凍保存できるものなのでしょうか。今、楽しむべきです。でも楽しめない!何が間題でしょうか。答えは感謝、です。感謝が足りないのです。感謝こそ楽しむためのエネルギー、燃料。1章20節にハンナの子どもの名前が見られます。サムエルです。どんな意味でしょうか。「借りる」です。今様の言葉では「レンタルする」。親御さんは子どもを神さまからレンタルしています。レンタルしている間、おおいに楽しみましょう。
 タルムードの中にこのような話があります。

 ある安息日のこと。賢夫人ブルリヤが起きと二人の息子が床の上で死んでいました。でも彼女は夫には知らせませんでした。夫が「息子たちはとうしてる?」と聞かれた時にはことばを濁しました。安息日には悲しんではいけない規則があり、夫を悲しませたくなかったからです。タ方になり、安息日があけました。ブルリヤは夫に尋ねました。「ある人から借りたものがあって、その人が、『返してほしい』と言って来ました。どうしたらいいでしょうか?」。夫は「もちろん、その人に返さなければならない。返しなさい」と答えました。その言葉を聞いて彼女は夫を息子たちの部屋へ案内し、死んだことを告げました。ある夫人の息子が二十歳で軍隊で亡くなってしまいました。彼女は泣いていましたが、こう言いました。「私には神さまに向かって何か文句言えるような立場にはありません。私は神さまから二十年問プレゼントを与えられ、それをおおいに楽しませていただきました。私はただ神さまに、この二十年間を感謝したいだけです」。

 ハンナはサムエルが乳離れすると、6,7歳の頃神殿にささげました(1:28)。ささげる、とはお返しすることです。私たちもこまめに、ことある毎に、神にお返しする習慣を身につけるといいでしょう。時間、金銭、労カなど。感謝の気持ちが沸き上がり、今を楽しむことができるでしょう。楽しむ心は前向きの心、不可能を可能にしていく心です。これは明らかにマスターのわざです。マスターはいつも前向き、積極的!

ご意志

 あなたはこうお考えではないでしょうか?「最近、祈れない・・・・・」あなたの祈りに何が欠けているのでしょうか。それについて考えてみましょう。ハンナは祈りの達人と呼んでも良い女性です。特に2章1節以下に集中して彼女の祈りが登場しています。でも他の箇所にも見つけられます。全体として彼女の祈りを分析して見ますと、賛美(神さまの偉大さを称えること)、感謝(神さまの偉大なみわざにお礼を述べること)、そして願う事、の三つです。これは立派に祈りの条件を見事に満たしています。ところで前二者はだれにとって必要なのでしょうか。神さまでしょうか。もちろん私たちにとって必要なのです。なぜなら高慢になりやすいから。高慢になって多くを語りやすいから(2:3)。「私がした仕事だ!」とうぬぼれるから。この世界で起きていること、起こされることは神さまのわざです。必要ならいとも簡単に人生の逆転が起こされます。特に2章4と5節をご覧ください。「勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女(ハンナ自身のことでしょう)が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます」。高慢でない者のために神さまはみわざを行ってくださいます。祈れないのは神さまの御意志を祈らないからです。「みこころが天で行われるように地上でも行われますように』(主の祈りを思い出してください)。2章10節の最後には「油注がれた者」、すなわちメシアが私たちの救いを達成してくださることの希望が祈られています。もし神さまの御意志を祈るなら、その祈りの実現した結果の中にあなたの幸せも含まれています。

 乱暴に扱われ、傷だらけになったバイオリン。競売人は、時間をかけるのも惜しいとばかりに、高く持ち上げ、笑顔で言う。『さあ、皆さん、これはどうかな』『誰から始めてもらおうかい」「1ドル、1ドル」そして、2ドル。ちえ、たったの2ドル?『2ドルだよ。誰か3ドルはいないないかね」「3ドル、一回。3ドル、二回。他になけりゃ2ドルで決まるよ」でも何の反応もない。そのとき、部屋の奥から白髪の男が現れる。そして、前に進み出てて弓を取る。その古びたバイオリンのほこりを払い、ゆるんだ弦を締め、澄んだ音色で、、心にしみるメロディを奏でる。まるで天使が賛美歌を歌うように。やがて満奏か終わり、競売人は低い声で厳かに言う。「この古いパイオリンをいくらから始めましょう」そして、バイオリンを持ち上げる。「さあ、1000ドルだ。誰か2000ドルはいないかね」「2000ドル!さあ、3000ドルはいないかね」「3000ドル」二回。他になけりゃ、これで決まりだ」人々はわあっとはやす。でも誰かがこう叫ぶ。『わからんぞ。何で価値が上がったんだ」すぐさま答えが返ってくる。「達人(マスター)の技だよ」。あるべき道をはずれ、痛めつけられ、傷だらけになった罪多き男。男は、心ない大衆の前で安く値踏みされる。あの古いバイオリンのように。さすらいは続く。一回、二回。他になけりや、その値で決まり。だがその時、創造主(マスター)が現われる。魂の真価を知らぬ、愚かな大衆には、まるでわからない。人間の価値が高まるのは創造主・マスターの業だということが。(『心のチキンスープ』1)