307 クリスマスの祝い方

聖書箇所[ルカの福音書2章8-20節]

クリスマス、おめでとうございます。12月25日がクリスマスの目(実は疑間があるのですが、今回は問わないことにしましょう)であることはだれもが知っていると言ってもいいでしょう。ではクリスマスの祝い方についてはいかがでしょうか。だれもが知っているとは言えないでしょう。今回はクリスマスを祝うにふさわしい心を特に17-20節で学びましょう。

驚きと感動の心[18]

 9節や18節を見ますと、羊飼いたちがイエスさまのお誕生やその告知に驚き、そのニュースを提供した先の人々もまた驚いたことが分かります。ところで彼らは日常の生活においては毎日が単調だったに違いありません。今日も羊を追いかけ、『今晩もきっと熟睡できないなあー」と疲れを覚える。人生とはきっと単調なものなのでしょう。あなたもそうではありませんか。朝、いつものように起きる。学校(会社)へ行く。帰ってきて夕食をし、お風呂に入る。そしてまた朝がくる。ある人たちはこのような決まりきった日常のパターンに感動の心をなくしてしまっています。時代もそんな傾向に拍車をかけます。夜中に突然起き、食べたいと思ったら、コンビ;に行けば、いつでもおいしいものを食べることができます。現代の子どもたちは生まれた時から携帯電話が家の中にはゴロゴロしています。十代の子どもたちが高価なスポーツカーに乗っています。かつては子どもたちは大人の持ち物には簡単には触ることはできず、大人になれば、貯金が貯まれば、と夢を膨らませたものです。ちなみにフランスの思想家ルソーが『エミール皿の中でこう言っています。

 「子どもたちを不幸にしたければ、なんでもいつでも欲しいものを与えればよい」。

 250年前に貴族階級の奥様がたに向けて書かれたものです。今の時代、与えられ過ぎてはいないでしょうか。さらにテレビゲーム。新種のものが次々に発売されてその刺激の強さはエスカレートするばかり。テレビの洋画劇場では残酷な場面がこれでもかこれでもかと毎週登場します。こうしてだんだん私たちの心はその感性を鈍くさせられて行きます。でも感動しない心は、驚かない心は神さまを知らない心でもあります。もう一度感動する心を取り戻してみるのはいかがでしょうか。処女からどうして生まれるのか?どうしてそのようなことがあり得るのか?神がなぜ人になれるのか。不恩議なことばかりではありませんか。もし私たちが驚く心、感動する心を持つならば、「この私にも不思議なことが起きるかも知れない」という期待が生まれます。期待こそ信仰です。

じっくり考える心[19]

 何をじっくり考えればいいのでしょうか。もしかすると、今、かつて願っていたものが祈ってきたものがかなえられたかも知れない、ゆえにそれを見い出すために。マリアは当時の未婚の女性であればだれもが願ったであろうことを願っていたはずです。すなわち救い主のお母さんになることを。でもそれは宝くじを当てようとするようなものです。でも彼女のまぎれもない願いであったでしょう。羊飼いたちだって慰めを求めていたでしょう。苛酷な労働を強いられる昼間の後に、寒空を仰ぎつつ辛く眠れない夜を覚悟しなければならないからです。どんな願いを持っていたか火を見るより明らかです。ところで祭司ザカリヤにも注目しましょう。1章5節以降に登場します。真面目な人で信仰生活も忠実でした。しかし、と言えるでしょうか、平凡な日々でもありました。この彼になんと天使が語ります。13節をご覧ください。『あの願いがかなえられました!」と天使が告げました。なんということでしょう。もうこの頃にはこの願い、つまり「子どもがほしい」という願いを諦めていたでしょう(7)。その証拠に20節を見てください。彼はお告げを信じないのです。あなたにはこのようなことはありませんか。祈っているけれども信じていない、というようなことが。もちろん信じていることもあります。実際私たちには両方あるのです。信じていないことは祈ってもいずれ忘れてしまいます。でも神さまはお忘れにならない。やがて生まれた子に名がつけられますが、それはヨハネ、その意味は「主は恵み深い」(1:60)。そうです。主は哀れみ深く、やさしいのです。あなたが忘れていても神さまは忘れてはおられません。だからこそ、探してみる必要があるのです。そうしない人はがっかりする人です。失望しやすい人です。どうか考える時間を用意してください。神さまはあなたに直感というすばらしい、神さまとの通信のための道具をくださいました。しかし知性をもくださっております。これを活用してください。きっとエペソ人への手紙3章19,20節のおことば通りのことが、今、すでに、いくつかのことが起きていることに気付かれるでしょう。感謝の思いがあなたに中には充満するでしょう。あなたが忘れている場合でも神さまは忘れてはおられません。「あれ、これは、以前、私がお願いしたことじゃーないか!」とあなたは驚きの声をあげるでしょう。

神を崇め、賛美する心[20]

 2章20節や1章67節をご覧ください。神さまを彼らは崇め、賛美していますね。「崇める」の語幹はどういう意味かと言いますと、「意見を持つ」です。天地の造り主なる、偉いお方に向かって「意見を持つ」とは、礼儀のことを考えますと、もちろん正しい意見を持つことでなければいけません。従って、神を崇めるとは、神について「正しい意見を持つ」ことです。その正しい意見は「神は良いお方であって、私に良いことをしてくださる」というものです。これが私たちの心にあるとき、私たちは神さまを真に崇めていると言えます。ではあなたにはその他にどんな態度が必要でしょうか。それは夢を持っこと。神さまが良いことをしようとされていらっしゃるのだからそのための受け皿を用意しなければ失礼です。どんな場合もあきらめないで、もし失敗しても「もう一回」と言いながら再度挑戦。十字架の意味は過去を捨て去ること、償うこと、葬り去ることです。もちろんあなたにかわってイェス・キリストがしてくださづたのです。あなたがこの福音を受け入れなさる方なら、夢を持つことを忘れてはいけません。最後に、淀川キリスト教病院精神科医長工藤信夫が次のような文章をクリスチャン新聞福音版に載せていますので、それを紹介して終わりましょう。

 クリスマスシーズンを迎えると決まって思い出す一つのエピソードがある。現在、小学五年(十二歳)になる長女が二年生のころのことである。学枚で友達に「サンタクロースにすてきな人形を頼んだ」と言ったところ、「サンタクロースなんて本当はいないのよ」と一笑にふされ、「あれは、お父さん、お母さんが代わりにやっているのよ」といわれたのだという。そこで、この子は、「今年は、夜中まで起きていて、なんとしてもサンタクロースをその目で確かめたい」のだという。またサンタクロースが親でないことを確かめるために今年からは、自分がサンタさんにお願いしたものは絶対、お父さん、お母さんには教えないのだという。そこで、二、三目後、私は「菜保子、サンタさんはね、子供が寝てしまわないと来ないことになっているんです」といった。また、家内も「お父さん、お母さんからもサンタさんにお願いしておくことになっているので、何を頼んだのか教えてごらん」と口をそろえた。こうして迎えたクリスマスの朝、クリスマスツリーの周りに習い覚えたばかりの大字で大体、次のような内容の手紙が置かれてあった。「サンタさん、外はさむいのにとおい国からたいへんだったでしょう。世界じゅうにこどもがたくさんいるのによく忘れないで一人一人にプレゼントをとどけられますね。らいねんもよろしくおねがいします。ところでサンタさんはほんとうにいるのですか。また、プレゼントはなんさいまでもらえるのですか、ここにかいておいてください……」白紙にしておくわけにもいかず、私は「十三歳、小学枚六年生まで」と書いておいた。そして、彼女は今年も、サンタクロースのプレゼントを楽しみにしている、私がこの話しを持ち出した理由は外でもない、私たちには夢が必要であり、とりわけ子供の心の発達においては、楽しい夢の存在が大切な鋤きをすると信じるからである。心温まる人間関係や豊かな情緒、思いやりや献身、やさしさなどといった感情は、こうした世界において育つのではあるまいか。・…・・私はクリスマスの夜、菓方の博士たちが星に導かれて、イエスを深し当て、身を低くして、その幼な子を礼拝した姿を意味深く恩う。知性が、博識が身を低くしているからである。また、旧約聖書の時代から、神は、夢を通して人々に多く語づたことに意義深く思う。夢を軽んじる時代、それは精神の貧困であり、信仰の衰えに外ならない。ヨセフのことを聖書は「あの夢見る者がやってくる」と記している(旧約聖書・創世記三七草)

 いくつになっても、どんな場合でも、夢を持つこと、これが神を崇め、賛美することです。