309 世の光、神のかたち

聖書箇所[マタイの福音書5章14-16節]

 「あなたは世の光です」とはなんと粋な表現ではありませんか。ちょっと面映い感じがします。どうしてこのように言ってくださるのでしょう。それにはもちろん理由があります。光れる素質があなたには与えられているから。それは「神のかたち」。ラテン語でイマゴ・デイ lmago Dei。Dei は De と i 、i は us の所有格。 Deus とはキリシタンの時代に盛んに使われましたね。デウス様と言って。神さまのことです。この lmago Dei は世界広しと言えど、人間にしか与えられていません。これがきちんと機能する時にあなたはいつも光ることができます。輝くことができます。今回はどのように lmago Dei を機能させるか、すなわち光れるか、その鍵を学びましょう。

燭台

 光るには燭台が必要です。燭台とは何をあなたにとって意味するのでしょうか。それは舞台、ステージ。光の役割を考えると目立つように置かれなければなりません。ではどんな舞台?15節を見てください。まずは、家です。それもあなたの家です。そして16節を見てください。「人々の前で」とあります。あなたの遣わされるところがあなたの光るべく用意された舞台です。この舞台は決して偶然ではなく、愛の神さまがあなたのために用意してくださいました。ぜひ輝くべきです。輝くとき、人々はあなたに向けてこう歌ってくれるでしょう。♪You are my sunshine♪ あなたの周囲の人々は喜ぶでしょう。前向きな気持ちにさせられるからです。しかし、実際のところ、なかなか光れないのです。なぜなのでしょう。感謝の気持ちが必要なのですが、ぶつぶつや不平不満がつい口にのぼります。これが升です。このようなものをかぶせられたのでは光れません。パレスチナでは7.24リツトルの升が一般的でした。どうかブツブツや不平不満、怒りや憎しみなどをやめてください。人々はあなたの輝く光に期待しています。お母さんが子どもにこう言っていました。「なぜ、教会に行かないの。前から言っているでしょ!クリスチャンになりなさいって」。子どもはこう応じました。「だって、僕、お母さんみたいになりたくないんだもん」。このお母さんは子どもの顔を見れば、ガミガミ、ブツブツ、いつもいらいらしていました。星野富広さんのあかしをご紹介しましょう。

  『星野さん、ちきしょうなんて、いわないでね』あるとき、わたしの治療をしていた看護婦さんがかなしそうな顔をして、いったことがあります。『えっ?……。おれ、ちきしょうなんて、いいましたか?」「あら、いまもいったわよ。星野さん、よくいっているわよ。」わたしのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分のことばに、すこし気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。わたしは、しょっちゅう「ちきしょう」といっていることに気づきました。『今日は天気がいいなあ、ちきしょう。」「ちきしょう、腹がへった。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに「ちきしょう」を口ばしっていたのです。そう言う彼もあるクリスチャンの放つ光によってクリスチャンになって行くのです。米谷さん(大学生時代、寮の食堂でよく同じテーブルについた先輩の一人で彼は、いつもお祈りをしてから食事をしていた。その敬度な姿にはいつも心ひかれた。

 多くの人があなたの光に期待しています。神の愛は救う愛。「ひとりとして滅びることなく」。これは神さまのやさしいおこころを表現しています。「私なんか……」と言ってる人はいませんか。自己嫌悪感に陥っていませんか。「私一人世界にいなくたって…」と考えている人はいませんか。少なくとも愛の神さまはそのようには考えてはいらっしゃいません。という体験をヨハネはしました。この聖句は、そしてもちろんこの書物はヨハネが書いたのです。ヨハネってどんな人物でしたでしょうか。覚えていらっしゃるでしょう。エゴイストですぐにカッとなる人。こういう人がイエスさまの弟子に選ばれ、イエスさまと寝食をともにするのです。イエスさまのご人格に触れて自己嫌悪に陥らない方がどうかしています。彼はだんだん自分がいやになって行きます。そういう彼がついに救いを経験して愛の人に大きく変えられた、のです。ハレルヤ!なんとすばらしい福音!これは預言の通りになったとも言えます。ヨハネとはヘブル語でYohanan. Yo とか Ye は天地の造り主、聖書の神の固有の名前ヤーウェのこと。 hanan は恵み深い、の意味(参考までにこれを起源とした女性の名前には Hanna, Anna, Ame, Ann があります)。つまり私のような者を救ってくださるなんて、なんと神さまは恵み深い方であろうか!の意味です。ちなみに英語では Je または Joです。 Jesus, Joshua はともに同じ意味で、ヤーウェは救い。神さまの思いはだれもが救われること。ただにひとりの例外もなく救われることです。アイルランドのオスカー・ワイルドの作品『幸福の王子』は感動的な話です。

 町の高い所に幸福の王子の像が立っていました。全身は金箔で覆われ、目はきらきら輝くサファイヤ、剣のつかには大きなルビー、ある夜、一日飛んで疲れたつばめが、どこに泊まろうと考えていたところ、ちょうどいいなあと目をつけたのが王子の足下。ところが何か冷たいものを感じました。おかしいなあと上を見上げました。雨かと思ったのです。でも雲ひとつないのです。そしてまたひやっ。王子の涙でした。「なぜ泣いているの?と聞くつばめに王子はこう答えました。「町の中にたくさんの悲しい人がいあるから。一つ私の頼みを聞いてくれないか?」『ああ、いいですよ」「ずう-っと向うの一軒家に貧しいお針子さんがいて、かわいい息子が病気です。何も食べるものがない。つばめさん、私のルビーを持って行ってくれないか」。届けて帰って来たつばめは「からだは冷えているんだけれど、なぜか暖かい!」と言うと、王子は良い行いをしたからだよ」と教えました。「一人の男の人がいる。私の目を上げてくれないか」「マッチ売りの少女が大切なマッチをどぶに落してしまった。私のもう一つの目を持っていってくれないか」「雨の中食べ物のない男の子たちがいる。私のからだから金箔を剥がして持っていってくれないか」。こうして王子のからだがみにくいからだに変わって行きました。町の人はそれを見てゴミ捨て場に像を捨てました。そばにはつばめの死骸がありました。神さまは天使にこう伝えました。「あの町でもっとも尊いものふたつを持って来なさい。私は天国で幸福の生活を与えよう」と。

 神さまの愛は私たち人間がつい無視してしまいやすい者にまで向かいます。神さまの愛はどの人をも救うのです。クリスマスは年末にあります。忙しい時期ですね。でも忙しくても大切なものは大切にしたいものです。こころです。こころこそ愛を受け止める主体です。あなたのこころは急いではいませんか?

灯心

 灯心がないと光れません。しかも良質なものほど良い。これが原則。高品質なものほど透明な光を放ちます。それは人々に将来への希望を与えるものです。多くの人は将来に不安を抱いています。大丈夫かなあ、成功しないかも……。良質の灯心とは不純物を除いたものです。あなたは不純物を含んだ灯心を燃やしていませんか。もしそうなら力強く燃えません。湿っていたり、固くなっていたりして。実は、生まれながらの人の性質がそうです。罪によって湿っています。もし全く燃えていないときは、その灯心はさらに冷たい印象さえ与えます。罪を持ったままでいると、罪責感が胸を締め付けます。あなたはいかがですか。罪に悩みませんか。

 心理学者のルシャンがこう言っています。「癌になった人を調べると明らかに一つの傾向が見られる。絶望感、悩み込むこと、物事を悪い方へと考える、この三つが顕著である」。心と体の密接な関係はよく知られています。梅干しを思い浮かべてください。つばが出て来るのが分かるでしょう。目の前に梅干しがないのに。ケイツ博士の実験によると人が吐く息は液体空気で冷やすと、怒っている人の沈澱物は茶色、苦悩している人のは灰色、悔やんでいる人のは薄い赤、精神的に安定している人のは無色でした。怒っている人の沈澱物をねずみに注射したら、数分後には死にました。人間の体は確かに製造工場ではありますが、場合によっては毒物を製造もするのです。升は取り除かれなければなりません。歳言のことばを紹介しましょう。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」。どうか燭台の上に灯を置いてください。燭台とは神さま、愛の神さま。「私は神さまに愛されている、イエスさまに愛されている」と信じつづけることです。パウロは初代教会を建てあげた偉人です。彼はユダヤ教徒であって、正統派を自ら任じていました。でも心の中には大きな、決して無視できない葛藤がありました。律法を学べば学ぶほど律法の期待に答えられない自分に苦しくなって行きました。人は内側に葛藤があるときには、一番身近な人を攻撃するものです。ユダヤ教とキリスト教とは極めて近い関係にあり、彼にとって格好の標的となりました。でもイエスさまとの決定的な出会いがあって、彼はすっかり変えられてしまいました(使徒9章以降参照)。彼には厳しい罪との戦いがありました、でもこれが幸いしました。イエスさまのあがないの意味が非常にあざやかなものになりました。彼は初代教会の光になりました。明治時代には立派なクリスチャンたちが輩出しております。植村正久は末弟が謀殺罪で死刑の判決を受けて、深く悩みました。「私には殺人者の血が流れている」。

 内村鑑三は一人の子どもがすでにいながら離婚をしたことに悩みました。でもこの種の悩みに悩むことは幸いです。事実から逃げない人は幸いです。事実を直視する人は幸いです。イエスさまによって聖められるからです。こうして彼らも光になりました。あなたも悔い改めることによって純粋な灯心になることができ、透明な光を放つことができます。

 あなたは灯心自体は燃えてはいないことをお忘れではないと思います。いや、燃やしてしまってはいけないと言ったらいいでしょうか。燃やすべきは油です。でも灯心を、すなわち自分を燃やしてしまう人は少なくありません。たこが自分の足を食べて生きようとするようなものです。タイプA型をご存じでしょうか。車で言えばアクセルだけの、ブレーキのない車。事故で互いを傷つけるか、自分が病気になるか、どちらかになるまで止まれません。油切れを起こしているのに自分では気がついていません。最近はワーカホリック・チュードレンということばもよく聞きます。5つの特徴があります。@仕事中毒A周囲の人々も仕事は楽しいと誤解B能力があり業績を上げていれば周囲の人々は自分の恩い通りに動いてくれると誤解C家庭を振り返らないD過労死寸前まで働きつづける、です。確かに有能かも知れませんが、このように幼稚っぽい人は間違いなく治療の対象です。自分を燃やし尽くそうとしています。伸び切って、切れてしまったゴムはもう使い物にはなりません。復元できなくなるようになる直前で緩めることによってゴムのゴムとしての存在価値は保証されます。もし切れてしまったら、もはやゴムではなく、単なるゴミです。自分を燃やしつくしてしまう人の一つの特徴は試練にはもはや耐えることができないということ。試練は確かにうれしい経験ではありませんが、私たちには必要なものです。試練によって人格は磨かれ、大きくされ、魅力的にされます。このような恵みを、自分を燃やすことによって捨ててしまうことは利口ではありません。燃やすべき燃料としての油は何でしょうか。聖霊さまです。聖霊さまこそあなたが光り輝くための燃料です。どうかへりくだって、祈ってください。すると祈りの中で神さまのお考えが分かります。それをすなおに受け入れてください。自分の考えではなく。両者には大きな相違があります。

 イソップ童話に金の卵を産むガチョウの話があります。一日に一個産んでくれます。オーナーはだんだん欲の皮がつっぱって来て、ついにガチョウの腹を切り裂いてしまいます。それですべてが終わりました。自分の考えが世界で一番優れていると思うのは危険なことです。神さまのお考えの方がずう一っと優れています。ツレファテのやもめ女の話を思い出します。残りのすべてである粉を食べて死のうと考えていた彼女はそれを神の人エリヤに全部ささげてしまいます。ところがなんといつまでも瓶の中の粉も油も尽きないではありませんか。不思議なことです(1列王記17章を参照)。神さまはあなたを辱めようとお考えではありません。あなたを祝福したいと願っていらっしゃいます。あなたの考えを神さまに向かって捨てて下さい。そのときあなたの中に聖霊さまが溢れるでしょう。そしていつまでも撚え続けるでしょう。