311 霊の思春期

聖書箇所[マルコの福音書10章35-45]

 以前、ポール・カールソンという人がお医者さんがいました。アフリカのコンゴに赴き、一日に100人以上を連日診察し続けていましたが、ある時住民からこう質問されました。『先生、お疲れになりませんか?」。彼はこう答えました。「神さまとともにいるのに疲れるなんて。それより瞬間瞬間、私は、今、生きてるっ!ていう感じがたまらないツ!」。そうして毎日聖書を片手に診察に駆け回っていました。しかしある時反政府軍の襲撃を受けて殉教してしまいます。さて、このような話をお聞きになって、あなたの中には何が感じられるのでしょうか。死ぬのはいやだけれども、彼のように燃えて生きたい、ではありませんか。いかがでしょうか。今、あなたは燃えていますか?輝いていますか?私たちの人生には、霊の思春期というものがあります。「イエスさまを信じたのだけれど、このままでいいのだろうか?もっとわくわくさせられるものが私の中にはあっていいのでは?」そうです。私たちはときにこのように悩むのです。何が足りないのでしょうか。何かが足りないのです。足りないもの、それは献身。そうです。足りないもの、それは献身。では献身とは何でしょうか。神さまに喜ばれるように決断し、そう行動すること。では何でないかについても説明しましょう。すなわち「人に喜ばれるように決断しない、そう行動しないこと」。「自分を喜ぱそうと決断しない、そう行動しないこと」。人のことはどうでもいいのか、自分のことはどうでもいいのかと反論が来そうですが、そうではありません。神さまが献身した人を祝福して、周囲の人々やその人自身を祝福してくださいます。何の心配もいりません。これが真の意味で信仰を持つ事です。さて、献身のもたらす恵みについて学びましょう。

常に新しく聖められます

 あなたは今朝、新しい自分として気持ち良く目が覚めましたか。「さあ、今日も生きるぞー、きっと良い事があるぞーツ」って思いながら。そういうあなたは神さまと確かに波長があっているはずです。なぜなら神さまは聖なるお方。聖さと聖さとは波長が合うのです。夢は膨らみ、心は朝日に照らされ、いや、心が朝日になり、胸は弾みます。でもある人々は目が覚めたとたんに、「くやしーいッ」と叫びます。「あんな人、赦せないッ」と。昨日を引きずっていますね。10年前を引きずっている人もいます。いつまでもいつまでも否定的な思いを忘れないのです。35節から37節でイエスさまの二人の弟子は他の弟子を出し抜いて、特別扱いを訴えています。抜け駆けです。このときに突然このようなアイディアが彼らの心に浮かんだと思いますか。いいえ。以前から言い出すチャンスを狙っていました。長い間自分たちのアイディアを心の中に育てていました。こういう場合、他の情報、それが重要なものであっても耳に入りにくくなる傾向があります。32-34節で、今回の記事の直前の出来事ですが、イエスさまが弟子たちに「私は十字架であがないとなる、すなわち死ぬんだよ」とおっしゃっているのですが、全く彼らはこれを聞いていません。さて、このときちょうど他の十人の弟子たちがいなかったのです。その証拠に後で知った彼らは大変怒りましたね(41)。当たり前です。彼ら二人の心の中にある本質はどのようなものでしょうか。それを教える話があります。芥川龍之介の作品に『くもの糸』があります。
 
 釈迦が地獄を覗くと一人の男が見えました。可哀想に思い、くもの糸を垂らしてやります。名前をカンダタと言いますが、彼はそれにしがみつき、登ります。しかしふと気になり下を見ると罪人たちが何人も糸にしがみついているではありませんか。思わず「やめろ!やめろ!糸が切れるじゃないかッ」と叫びますが、そう叫んだとたん、糸が切れてしまいます。そうです。エゴイズムです。これが古い人の本質です。でも私たちは中々これに真の意味で気がつかない。エゴイズム。「私の中にあるかも知れないが、私には克服できる、できている」と誤解するのです。そこでイエスさまは「あなたがたは自分が何を求めているのか、分かっていないのです」(38)と言われます。38節と39節で「盃を飲む」とは毒入りの盃を飲むことであり、その毒は罪です。飲めば死にます。「バプテスマを受ける」とは、水の中に入ることであり、これも呼吸不可能で死を意味します。「あなたは古い自分に死ぬことができますか」とイエスさまは聞いていらっしゃいます。それは「新しくなれるんですか」の質間です。よく分かっていない二人は「できます」と言います。ほんとうに分かっていない、彼らですね。このエゴイズムとの戦いに勝たせてくれるのが献身です。神に焦点を当てて生活していれば、人や自分へのこだわりから救われます。なんとすばらしいことでしょうか。あなたの中に聖さが充満。ハレルヤ!

常に真の喜びに満たされます

 あなたは今喜んでいますか。腹の奥底から沸き上がる喜び、「うれしくて、うれしくて」というふうに。だれもが求めているのが喜びです。でもだれも簡単には見つけることができないのも喜び。もちろん真の喜び。真の喜びって内から沸き上がって来るものです。一時のものではなく、表面的なものでもありません。喜びを得る事ができない人はにせの喜びでまぎらわそうとします。決して悪いものではありませんが、アイスクリームを食べて、ケーキを食べてなどなど。確かに喜びはありますが、いつまでも続くものではありません。ある人たちは「空しい、寂しい」と言って最近はやりの出会い系サイトこアクセスします。殺人事件まで起きていますね。私の受けた印象では携帯電話の先にいるのは血の流れた生身の人間ではなく、ゲームの中の登場人物のように見えます。殺してもリセットボタンを押せば、再び生き返る、それはそれは手軽。このようなことの中には自分の欲望を満たす為に相手を道具と見る見方がありそうです、決して人格を持つ一人の人間として見るのではなく。聖書の原則は「与えるものは受ける」。したがってそのようにする人は他者から道具として扱われるでしょう。そこには何がありますか。空しさです。喜びはありません。二人の弟子たちは自分たちの欲望を満たそうと仲間を利用しようとしました。だから利用されようとした10人は怒ったのです。当然のことです。他の人たちに対して権力を振いたかったのです。これは人を人として見ない罪です。すくなくともイエスさまのお考えに背きます。真の人としての偉さは他者に仕えること(42-45)。礼拝は他者に仕えることを学ぶ時間、場所、空間です。献身は空しさを私たちの中から追い払い、真の喜びに満たしてくれます。

天国で高く評価されます

 39節と40節は神による評価が一番、最終的評価であり決定と教えています。私たちの住んでいる世界は神の手により創造されました、世界の隅々まですべてが。目に見える所から見えないところまであらゆるものが神さまにより造られ、神さまは正確にそれらを観察し、把握し、評価なさいます。さてあなたに対する神さまによる評価はどのようなものでしょうか。ときどきシミュレーションなさることをお勧めします。自分を第三者が眺めるようにご覧になってください。「この人は天国ではどの程度の待遇を受ける事ができるのだろうか」と。すべては神さまの前で裸にされます。普通私たちはかっこよく見せようとします。服装、アクセサリー、化粧などなど。ことばでも自分を真の自分とは違った者に見せようとします。一人でいる時と人前では態度が違っていたりします。私たちの正しい関心はあくまでも自分でありつつ、その自分を磨き、成長させることです。決して別人になろうとしてはいけません。でもよく見せようとするとき別人に見せ掛けてしまいます。同じ自分でありつつ成長した部分が、すなわち人間としての中身の部分が神さまの評価の対象です。また多くの人がお金に執着しています。お金は大切なものです。でも大切と言っても神ではありません。すなわち世界で人生で一番大切なものではありません。ある人がこう聞かれました。「あなたの愛読書は何ですか?」あなたならどうお答えになりますか?彼はこう答えました。『私の愛読書は預金通帳!」。ある人とは皮肉屋さんで有名なバーナード・ショウです。イギリスである新聞社がお金の定義を募集しました。優勝したものを紹介しましょう。

  『幸福のほか何でも手に入れることができ、天国以外どこにでも行けるパスポート」。

 ちなみに私たちが天国に持って行けるものは二つしかありません。一つはあなた自身(霊魂)。もう一つは献身の度合い。献身の度合いが天国におけるあなたの待遇を左右します。ぜひファーストクラスに座ってください。あなたには今献身が必要ではありませんか。イエスさまを信じてはいるけれども何かが足りない。不完全燃焼だ、とお思いになっているあなた。献身について考えてみてください。もしこのような思いが少しでもあるとすれば、聖霊さまがあなたに語りかけてくださっています。あなたの心に直接アクセスしてくださっています。信仰生活にも思春期があります。前向きな応答をあなたがなさることを期待しています。