313 あなたは祭司

聖書箇所[ペテロの第一の手紙2章9節、出エジプト28章]

 ペテロの第一の手紙2章9節にはいくつかの名誉ある称号が並んでいます。その中の王である祭司について今回は取り上げましょう。少し堅い表現ですが、王である、とは、立派なとかすばらしいとかの意味です。祭司はご存じのようにもっとも神さまに近い立場の人々のことです。あなたがたとはクリスチャンを指しますので、あなたがたは本来とても魅力的なクリスチャンなのに……といった意味です。その魅力は周囲の世界を変える力を内蔵しています。出エジプト記34章29,30節をお読みください。

 ……モーセが山を降りて来たとき、……彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。

 ここに登場するモーセこそ王なる祭司と呼ばれるにふさわしい、輝いた祭司と言えるでしょう。あなたもこの恵みにあずかることができます。ところで祭司について学びますが、カギとなる聖句をまず紹介しましょう。ローマ人への手紙1章20節をお開きください。

 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる……つまりこの自然界にある、目に見えるものはすべて神さまのメッセージをそれ自体有している、と言っています。今回は旧約聖書に登場する祭司と言う目に見える対象から神さまのメッセージを聞きましょう。この学びはそのまま旧約聖書を誌む秘訣を獲得するためにも大変有効です。

 特に出エジプト記28章を参照してください。祭司の衣の材料は亜麻布製です。これには何の意味があるのでしょうか。イザヤ書61章3-7節をお開きください。

 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる……わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ(イザヤ書61:3,7)。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙19:7,8)

 すなわち亜麻布製(りンネル)は義を表し、亜麻布製(リンネル)の服は女性で言えばウェディングドレスです。私たちにはキリストの花嫁としてこれが必要です。もしこのような婚礼の服を着ていないとすれば次のようにされます。

 ……王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。(マタイ22:11,12)

 携挙が近いのです。主イエスさまは義の服を着ているあなたを迎えに、ある日突然空中においでになります。1テサロニケ4章13節以降をお調べください。義の服を着るとは主イエスさまのあがないと信じることです。どうか主イエスさまを信じていることの確認をしてください。とても大切なことです。

ももひきと長服

 出エジプト記28章42節をお読みください。さて、ここで一つ質間。なぜ人は服を着るのでしょうか。寒いからですか。ならば暑いときには着ませんか?中々答えるのにやっかいな質問ではないでしょうか。次の聖句を比較しましょう。

 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸(アローム)であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(創世記2:25)

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸(エローム)であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸(エローム)なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:7-10)

 上記のように日本語では同じ裸でも、ヘブル語では異なっています。そうです。裸でも違いがあります。どのように違っているのでしょうか。前者は堕落前、後者は堕落後です。堕落前んは人は服を着ていました。どのような服でしょうか。ヘブル語でシェキナーと言います。神の栄光と訳したらいいでしょうか。本来神さまご自身が身にまとっておられます。(詩篇104:2)しかし罪を犯したとたんに、人間にはシェキナー服がなくなり、裸であることに気付き恥ずかしい思いになりました。私たち人間が服を着るのは本来シェキナーを着るべきとのメッセージです。
 ところでももひきのことですが、これは何を意味しているのでしょうか。子どもを育てたお母さんは経験があるでしょう。子どもにパジャマをはかせるときの苦労。活発な子どもはお母さんの言うことを聞きません。どうしてもとなれば実力行使ですね。ももひきは自由意志の象徴です。私たちが自由意志で救いを受け入れるべきであるとのメッセージです。すると何が起きるのでしょうか。上から長服が降りて来ます(出エジプト28:42)。スポツと身体全部を覆います。これこそがシェキナーの象徴です。その場面をイスラエルにおいて観察してみましょう。

 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト40:34,35)

 今もあなたはこのような経験をすることができます。いやもうすでにしているでしょう。「いま、私の中に主イエスさまがおられる……」といったような感じになることがあるに違いありません。これこそがシェキナーの経験です。どうか自由意志により私は主イエスさまを受け入れたことを大切にしてください。いつもいつもあなたにはすばらしい喜びがあります。

青服

 出エジプト記28章31-35節をお読みください。青は何の象徴でしょうか。一つは天国。講壇の後ろに青いカーテンをかけている教会は少なくありません。もう一つの意味は聖霊さまです。祭司は聖所に入るときに青服を着なければなりませんでした(出エジプト28:31,35)。旧約時代には三種類の祭司がいました。レビ人たち、祭司たち、大祭司。レビ人たちをはじめ、だれでも幕屋の庭には入ることができました。でももっと神さまに近いところである聖所や至聖所には青服が必要でした。言い換えれば聖霊さまによるのでなければ神さまには近付けないのです。そして聖霊さまに満たされることがなければ神さまからは遠いと言わざるを得ません。マタイの福音書13章には30倍、60倍、100倍の祝福が紹介されています。聖霊さまに親しくなればなるほど祝福は多くなります。どうか聖霊さまに導かれて生活をしてください。聖霊さまにいつも期待をしてください。

鈴の音とざくろの実

 出エジプト記28章35節には音が聖所から聞こえて来るとあります。この二つは青服にぶら下がるようになっており(28:33)、つまり聖霊さまに導かれる、にぎやかな賛美が推賞されています。さて33節にあるように交互にぶら下がっているのですが、何を意味しているのでしようか。鈴の音は聖霊の賜物、ざくろの実は聖霊の実(その代表は愛)を表しています。賜物はタレント、能力などと言い換えることができますが、おうおうにして争いが起きます。ねたみもあります。足の引っぱり合いがあります。それを解消させるのが愛の持つ性質であり、力です。この真理は新約聖書においてさっそく表されています。コリント人への手紙第一12章と14章は賜物の章、両者に挟まれた13章は愛の章、というふうに配置されたこと。そして新約時代にはいって使徒であるペテロとヨハネはこのすばらしいコンビネーションを見せてくれています。使徒の働き3章1節からお読みください。金の鈴ペテロは物乞いをしていた人の足をいやす奇跡を行い(賜物の行使)、ざくろの実ヨハネはその働きを支持しました(愛の行使)。美しい話ですね。私たちはねたみを十字架につけなければなりません。イスラエル人たちはこのような服を着て奉仕をする祭司たちの一挙手一投足に注目し、そのつど神さまからのメッセージを受け取っていたのです。そうして真撃に受け取る者たちこそ大いに輝いたのです。それは今日も同様です。